姉からのノイズ
結局、僕はあのノイズの件を二人に打ち明けることができなかった。
せっかく琴音ちゃんが楽しそうにしていて、奏多も満足そうにしている。僕の「気のせい」かもしれない異変で、この和やかな空気を壊したくなかったのだ。
それから数日が経った。
完成したコラボ動画はサイトにアップされ、コメント欄には「アコギの生音が不気味で最高!」「琴音ちゃん可愛い」といった好評の声が並んでいた。
もちろん、あの「ジ……」という不快なノイズを指摘する視聴者は一人もいない。
――やっぱり、僕の耳がおかしかっただけなんだ。
ファミレスのバイト中も、自分の部屋にいる時も、僕は無意識に耳の奥へ神経を集中させてしまうようになっていた。
いつまたあの音が聞こえるかと、怯えてしまうのだ。
あれから琴音ちゃんは、僕の部屋にコラボ動画の打ち合わせによく来るようになった。
琴音ちゃんが入って来ると、当たり前のようにシャンプーの柔らかい匂いが広がるが、それに違和感を覚えることもなくなってきていた。
――ただ、やはり琴音ちゃんの声には、ごく僅かにノイズが混じって聞こえる。
予定が何もない午後。エアコンの効いた僕の部屋に三人で集まり、次回のコラボ動画の企画について話し合っていると、僕のスマホが鳴った。
画面を見ると、近くに住む姉からの着信だった。
通話ボタンを押すと、こちらの様子を聞くこともなく、姉の慌てた声がスピーカーから溢れてくる。
『響!! 急なんだけど、今からちょっと子供の面倒見ててくれない!? 急に職場に行かないといけなくて!! あんたしか頼める人いないのよ〜!!』
姉の旦那さんは単身赴任中で、実家の両親も今日は親戚の家に出掛けていることは知っていた。
4歳になる一人息子のゆうくんの世話だ。姉はフルタイムで事務員として働いている。滅多に休日に呼び出されることはないが、何か大きな問題でもあったらしい。
人より少し耳が良い僕にとって、スマホから漏れる姉のキンキンした焦り声は、鼓膜を直接叩かれているようでちょっと痛かった。
「今、友達といるんだけど……」
迷いながらそう言うと、姉がこちらを気遣う余裕もないといった風に、明るい声で返してきた。
「それじゃ、その友達と一緒に来ればいいじゃない!!」
スピーカーの声が大きすぎて、奏多と琴音ちゃんに話が筒抜けだった。2人の方に目をやると、「気にすんな」と言うように笑いながら数回頷いてくれた。
結局、姉に押し切られるようにして、僕たちは三人で姉の家へ行くことになった。
姉の家に到着し、インターホンを押す。
すると、1秒も経たないうちにドアが勢いよく内側から跳ね開いた。
「遅い! 響、待ちくたびれたわよ!」
髪を振り乱し、片方のパンプスを履こうとしている姉がそこにいた。手には通勤用のバッグと、車の鍵がジャラジャラと音を立てて握られている。
「いや、連絡もらってからまだ十五分しか経ってないんだけど……」
「いいから! ほら、ゆうくんは奥のリビングでミニカーで遊んでるから。冷蔵庫に麦茶とプリン入ってるから勝手に食べて! 夜遅くはならないと思うから!
じゃあよろしく!」
姉は機関銃のように言葉をまくし立てると、僕の後ろにいた奏多と琴音ちゃんに気づき、一瞬だけ足を止めた。
「ああ、お友達! 奏多君だけじゃなくて、こんな可愛い女の子まで……!
響と仲良くしてくれてありがとね〜!
あ、ごめんね急に! 息子と遊んでくれたらいいから!」
「は〜い、お姉さんお仕事頑張ってくださいねぇ〜!」
奏多がいつもの軽い調子で手を振ると、姉は「ありがとー!」と言い残し、嵐のようにエレベーターの向こうへと去っていった。
あとに残されたのは、静まり返った玄関と、僕たち三人。
お互い顔を見合わせて苦笑いしながら、僕たちはゆうくんの待つリビングへと足を向けた。
リビングのドアを開けると、ゆうくんがパッとこちらに顔を向けた。
「響にぃに!! みて!! これ買ってもらった!!」
そう言って、ゆうくんがパトカーのミニカーを自慢気に掲げて小走りで寄ってきた。
テレビには子供番組が流れている。その部屋は子供特有のお菓子のような甘い匂いが漂っており、机の上にはさっきまで食べていたのであろう、スナック菓子とジュースの入ったコップが置いてあった。
僕は、ゆうくんの視線に合わせるように身体を低くし、笑顔を向ける。
「いいな〜! かっこいいね、それ」
「うん!! おにきいりなんだ!!」
「ハハッ……、『おきにいり』ね」
不意打ちの言い間違いも愛おしくなり、頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
と、ゆうくんの視線が僕の後ろに向き、目を見開いた。
「おともだち?」
「あ、うん、そうだよ。ママがいない間、みんなでいっぱい遊ぼうか!」
「うん!!」
ゆうくんはミニカーを強く握りしめ、とても嬉しそうに満面の笑みを見せ、元気よく頷いた。




