振り返りのノイズ
十九時を過ぎた頃、姉がスーツ姿のまま慌てた様子で帰ってきた。よほど急いでいたのだろう、『今から帰る』という事前の連絡すらなかった。
「ごめんね〜!! 遅くなっちゃって! 本当に助かったわ〜!!」
姉の顔を見るなり、お風呂上がりで髪を濡らしたままのゆうくんが、パジャマ姿でパタパタと姉へと走って行く。
「ママぁ〜!!」
「ゆうと〜!! いい子にしてたぁ〜?」
姉はフローリングに通勤鞄をごとりと置くと、愛おしそうにゆうくんを抱きかかえて頬ずりをした。
そうして、リビングに残っていた僕の方に目を向けた。
「ありがとうね〜、お風呂まで入れておいてくれて……。あら? お友達は?」
「うん、キリがいいところで先に帰したよ。
……ねえ、姉貴。それよりさ、最近ゆうくん、変な歌うたったりしてない?」
姉はゆうくんを抱っこしたまま、不思議そうにその小さな顔を覗き込んだ。ゆうくんは赤いほっぺたをニコニコさせ、姉の顔を見返して甘えるように頬ずりをしている。
「え〜、歌ぁ〜? 保育園で習ったやつとか、テレビの曲とか色々歌ってるからよくわかんないな〜。なんか変だった?」
「いや……ちょっと変わった歌だなと思って。『おみじちょうだい』みたいな歌詞の……。
ねえ、ゆうくん、さっき歌ってたよね?」
僕が身を乗り出すようにして尋ねると、ゆうくんは僕の視線から逃げるように、首をブンブンと横に振った。
「しらないよ〜! ゆうくん、そんなのうたってないよ〜!」
姉は「ほら、本人が違うって」と笑いながらゆうくんを床に下ろした。
「よくわかんないけど、子供が自分で適当に作った歌じゃないの?
『お水ちょうだい』っていう歌なんじゃない?
……よし、ゆうくん。風邪ひいちゃうから髪乾かしに行こっか」
姉とゆうくんは仲良く手を繋いで、ドライヤーのある洗面所の方へ歩いて行った。
パタパタという小さな足音が遠ざかる。
……いや、違う。絶対に違う。
あれは自分で作ったような適当な鼻歌なんかじゃない。あの、背筋が凍りつくような音階の並び、そして僕の耳の奥を引っ掻いたあの微かなノイズ。
こんなにも恐ろしい偶然が、この狭い日常の中で重なるわけがないんだ。
姉が洗面所のドアを開けながら振り返り、「響、本当にありがとうね。もう夜遅いし、帰って大丈夫よ」
と、すっかり安心した表情で僕を気遣ってくれた。
ドライヤーのゴォォォという激しい駆動音が、洗面所から響き始める。
その遮断された音の向こうで、ゆうくんがまた、あの不気味なメロディを口ずさんでいるような幻聴が、僕の耳の奥でいつまでも鳴り止まなかった
――――――
数日後、僕の部屋にまた三人で集まった。
僕は意を決して、これまで何も知らず、何にも気づいていなかった奏多に、動画のノイズと琴音ちゃんの耳鳴り、そしてゆうくんが口ずさんだメロディが全て同じだったことを打ち明けた。
奏多は、僕と琴音ちゃんの深刻な話を茶化すこともなく、真剣な表情で何度も頷きながら聞いていた。
そして、すべての話を聞き終えた後、腕を組んで少し考え込むようにして口を開いた。
「じゃあさ、水持ってけばよくね?」
「え?」
「えぇ……?」
あまりにもあっさりとした奏多の答えに、僕の思考は一瞬で停止した。
僕だけじゃない。隣に座る琴音ちゃんをチラッと見ると、彼女もまた放心状態に近い顔で呆然としていた。
奏多は僕たちのそんな反応を気にする様子もなく、真面目な顔で言葉を続ける。
「だってさ、あのトンネルで聞こえた歌の歌詞が『お水ちょうだい』だったんだろ?
だったら、水が欲しくて出てきてるわけじゃん。じゃあ、その水をあげに行けば解決じゃない?
そしたら琴音ちゃんの……まあ、呪いかどうかはまだ分かんないけど、その難聴もすっきり治るかもしれないだろ?」
あまりにシンプルで、だけどどこか一理ある奏多の言葉に、僕と琴音ちゃんは思わず顔を見合わせた。
「……確かに、ただ怯えてるよりは、何かアクションを起こした方がいいのかも」
僕がぽつりと言うと、琴音ちゃんも小さく息を吐き、覚悟を決めたように力強く頷いた。
「うん。……行こう、あのトンネルへ。でも、夜はやっぱり怖いから、太陽が出ている昼間のうちに……!」
僕たちはそれぞれ、覚悟を決めて頷き、決意を新たに動き出した。




