現場検証のノイズ
コンビニで新品のミネラルウォーターを一本買い、奏多の運転する軽自動車に乗り込む。
目的地は、あの夜、僕たちに最悪の恐怖を植え付けた、山際の古い廃トンネルだ。
車内には、エアコンの冷気と一緒に、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
助手席の琴音ちゃんは、左手首の手作りミサンガをそっと握りしめている。その横顔は少し強張っていたけれど、どこか凛とした強さも感じられた。
「――見えてきたぞ」
ハンドルを握る奏多の声に、僕たちの視線が前方へ集まる。
ぎらぎらとした真夏の太陽が照りつける、緑の生い茂った山道。その突き当たりに、ぽっかりと不気味な黒い穴が口を開けていた。
昼間だというのに、トンネルの奥は光をすべて吸い込んでしまったかのように真っ暗だ。
車を近くの空き地に止め、外に出る。
アスファルトからは陽炎が立ち上るほどの猛暑のはずなのに、トンネルの入り口に近づくにつれて、肌を撫でる風がじっとりと冷たくなっていくのが分かった。
「……よし。サクッとお水供えて、琴音ちゃんの耳、治してもらいに行こうぜ」
奏多がペットボトルを握り直し、先頭を歩き出す。 僕と琴音ちゃんも、その背中に続くようにして、暗がりの領域へと足を踏み入れた。
外の明るい世界から、いっぺんに暗闇に入ったことで視界が悪くなり、僕たち三人は慣れるまでに時間を要した。ようやく慣れた所でその先が見えてくる。
トンネルの向こうには出口があり、その外の緑が青々と生い茂っているのが逆光の中に浮かんでいる。
一本道で、出口という『光のゴール』が見えていることだけが、今の僕たちの唯一の救いだった。
この『旧・山鳴トンネル』は、新トンネルが出来た数十年前から、今はもうほとんど使われていない。車がようやく一台通れるほどの狭いスペースしかなく、天井も最近のトンネルに比べるとだいぶ低くて圧迫感がある。
ネットの噂では、泣いている女の声が聞こえるだとか、通ると走って追いかけてくる幽霊が出るだとか、もう聞き飽きた、ありきたりな怪談話で溢れかえっていた。
けれど、そんな手垢のついた噂話よりも、一歩足を踏み入れた瞬間の『現実』の方がずっと不気味だった。
外の狂ったような暑さが嘘のように、トンネル内はひんやりと冷え切っている。
コンクリートの壁や天井の隙間から、ピチョン、……ピチョン、と水滴が滴る音が冷たく響いた。
人より少し耳が良い僕にとっては、その静寂を切り裂くような水音が、まるで誰かの冷ややかな足音のようにも聞こえて、聞こえるたびにピクッと身体が強張ってしまう。
「……暗いな。足元気をつけて進もうぜ」
奏多がスマホのライトで前方を照らしながら、ゆっくりと中央へ向かって歩き出す。
その光が、トンネルのちょうど真ん中あたり――壁際の窪みに、ぽつんと佇む『何か』の影を捉えた。
「あ、お地蔵さんだ……」
琴音ちゃんが声を漏らす。
そのお地蔵様は、長い年月ここに置かれているはずなのに、不思議と荒れた様子はなかった。手には数珠の代わりだろうか、手作りのミサンガが掛けられていた。
奏多が緊張した面持ちで歩み寄り、買ってきたばかりのペットボトルのキャップを開け、お地蔵様の足元へと丁寧にお水を供えた。
「これで……いいのかな」
奏多が振り返る。
僕はじっと耳を澄ませていた。だけど、あの不気味な『ジ……』というノイズも、ゆうくんが歌った恐ろしいメロディも、この暗闇からは一切聞こえてこない。
ただ、ピチョンという静かな水滴の音だけが優しく響いている。
「……ねえ、あたし、この近くに来たことあるかも」
お地蔵様を見つめていた琴音ちゃんが、ゆっくり口を開いた。
「ここから少し行ったところに、福祉施設があるの。私、そこに無料でアコギのチャリティー演奏をしに来たことがあって……。
その時に、これと同じお地蔵様の話を聞いた気がする。確か、大昔にトンネルの崩落事故があって、その犠牲になった子供のためのものだって……」
「崩落事故の子供……。じゃあ、やっぱりお水が欲しくて寂しかっただけなのかな」
僕が言うと、奏多の表情が一気に明るくなった。
「なんだよ、じゃあやっぱり俺の読み通りじゃん!
お水もたっぷりあげたし、これで琴音ちゃんの耳鳴りもバッチリ治るって!
よし、用件は済んだし、暗いからさっさと出ようぜ!」
その時、ふと気付いた。琴音ちゃんの左手首のミサンガとお地蔵様のミサンガが似ていることに。
「琴音ちゃん、そのミサンガどうしたの?」
琴音ちゃんは、自分の左手首を確かめるように触ってミサンガを軽く回している。
「ああ、これ? そのチャリティーの時に、来ていた人にもらったの」
似ていると思ったが、よく考えると、そもそもミサンガって全部似たような作りで、同じような形のような気がする。
僕は「そっか」と言った後、それ以上何も言わなかった。
そして僕たちは、そのまま何事もなくトンネルを通り抜け、眩しい夏の太陽の下へと戻ってきた。
暗いトンネルから出た外の光は、あまりにも眩しくて目が痛くなった。そしてまた、ジリジリとした痛みを伴う暑さを感じるようになる。
あまりの拍子抜け感に、僕はそれまでの恐怖が嘘のように心の底からホッと安堵していた。琴音ちゃんを見ると、同じように安心した表情たったので、僕と同じ気持ちだったんだと思う。
――昼間は、本当に何も起こらないのかもしれない。
あの不気味な穴蔵は、太陽の光の下では、ただの廃れた古いトンネルでしかなかった。
この『昼の安全さ』が、僕たちの警戒心を完全に麻痺させてしまった。
だからこそ、数日後、奏多が「今度は夜に行ってみようぜ」と言い出した時、僕も琴音ちゃんも、大した拒絶もせずに頷いてしまったのだ。




