浮き出したノイズ
『……あ゛ー……、……あ゛ー……』
それは、濡れた肉を床に叩きつけるような、湿った、喉の潰れた音。
けれど、ただの苦悶の声じゃない。
一定の抑揚――まるで、音程の狂った不気味な『メロディ』を奏でているように聞こえる。
「え……おい、響、なんか変だぞ……これ……」
奏多の顔から余裕が消え、血の気が引いていく。
いつもなら「神経質すぎる」と笑い飛ばすはずの相方が、ヘッドホンを握りしめたままガタガタと震えていた。
「最後、周辺の環境ノイズを完全に除去する……!」
僕がEnterキーを叩いた瞬間。
すべての雑音が消え去ったスピーカーから、完全に『擬態』を剥ぎ取られたその歌が、鼓膜を突き刺した。
『――おー……みーー……、――……ちーー……、ーー……』
脳が直接汚されるような、ねっとりとした不協和音。
一音ずつ区切られた濁った声が、奇妙な節回しに乗って、楽しげに、けれど完全に感情の死んだ響きで繰り返される。
それは、死者が口ずさむような呪いの鼻歌のように思えた。
「おみち……? 御道、か? それとも、どっかの方言……?」
僕が呟いた、その時だった。
「ひっ……!」
奏多が短い悲鳴を上げて、派手な音を立てて床に尻もちをついた。
恐怖に引き攣った顔で、僕のデスクにある一組のスピーカーを凝視している掠れた不協和音が、狭い六畳一間に響き渡る。
デジタルノイズを除去したはずなのに、その声の主は、まるで最初から僕たちの部屋の、すぐ目の前に立って歌っているかのような異様な生々しさがあった。
「消せっ! 響、それ消せよ、早くッ!」
我に返った奏多が、狂ったように叫ぶ。
僕は弾かれたようにマウスを掴み、編集ソフトの再生停止ボタンを連打した。
ブツッ、と音が途切れる。
途端、部屋の中には、深夜の静寂と僕たちの激しい呼吸音だけが残された。
エアコンの微かな駆動音さえ、今はひどく耳障りに聞こえる。
「……なん、だったんだよ、今の。あのトンネル、マジでヤバい奴が棲み着いてたんじゃねえのか……?」
奏多は床に座り込んだまま、膝を抱えてガタガタと震えている。
心霊スポットでどれだけ体を張っても、それは「映える動画」を撮るためのビジネスとしての恐怖だった。
だが、今スピーカーから聞こえたのは、明らかに脳の防衛本能が『関わってはいけない』と告げる、本物の異常者の、あるいは人ならざるものの声だった。
「……わからん。でも、今日のところはもう、編集は終わりにしよう」
僕はそう言ってパソコンの電源を落とした。 画面が真っ暗になり、完全に静まり返った部屋。
――けれど、消えなかった。
パソコンの電源を切ったというのに、僕の耳の奥には、まるで鼓膜にべっとりとこびりついたかのように、あのねっとりとしたメロディが残り続けている。
『おー……みーー……、……ちーー……』
それは幻聴なのか。それとも、僕の耳が良すぎるからなのか。
結局、僕と奏多は電気をつけたまま、お互い一言も喋らずに、朝が来るのをただじっと待つことしかできなかった。
この日からだ。
僕たちの、平穏だった日常の歯車が、少しずつ、けれど確実に狂い始めたのは――。




