近寄るノイズ
「はあ〜……」
奏多が深く重いため息をついた。今日は特に動画の企画について話し合うこともなかったが、お互いバイトが休みだったので、なんとなく僕の部屋に集まっていたのだ。
「何? なんかあった?」
僕が声をかけると、奏多は虚ろな目を向けてボソッと呟いた。
「昨日さ、バイト先の居酒屋に出勤したらさ……建物の周りの壁に、真っ赤な油絵の具みたいなやつで描かれた『耳』の形のマークが、いくつもべたべたと貼られててさ。もう気持ち悪いのなんのって。
……店長も気味悪がって大騒ぎだよ。俺が原因だろうなとは分かってたけど、流石に本当のことは言えんかったわ……」
「え!? お前の方にも……っ!?」
奏多の告白に、僕は思わず座っていたフローリングから身を乗り出した。
「実は……僕のバイト先のファミレスにも、昨日『不謹慎な動画配信者を雇っている』ってクレームの電話があったらしいんだよ。もちろん匿名だけど、確実に僕たちのことだ。それに、夜中の無言電話もまだ続いてるし……」
奏多は息を呑み、包帯は取れたもののまだ聴力が完全には戻っていない右耳を、震える指先でそっと触った。そのまま力なくベッドのフレームに背中を預ける。
「怖いな……。犯人の影が、どんどん俺たちの生活のすぐ近くまで迫ってきてる感じだよな……」
「ああ……。一応、琴音ちゃんにさっき連絡とってみたら、彼女の周りはまだ大丈夫だって言ってた。
でも、これ以上彼女に被害が出たら取り返しがつかない。心配だし、しばらくはあまり僕たちと関わらないようにしてもらった方がよさそうだよな……」
目に見えない犯人の悪意が、僕たちを一人ずつ孤立させようと暗闇から手を伸ばしてきている――。
部屋の重苦しい静寂が、僕たちの首をじわじわと絞めつけていくようだった。
――ピンポーン――
静まり返った部屋に、けたたましくインターホンの音が鳴り響いた。
ただの機械音のはずなのに、僕と奏多の身体はビクッと過剰に跳ね上がった。時計の針は20時を少し回ったところだ。こんな時間に、普通の訪問販売や郵便が来るはずがない。
ドクドクと狂ったように速くなる心臓の鼓動を感じながら、僕は奏多と視線を合わせ、無言で静かに頷き合った。
玄関の外の相手にこちらの気配を悟られないよう、すり足で足音を完全に殺しながら、二人でそろりそろりとドアへと近づいていく。
僕は息を止めてドアのドアスコープに目を押し当てた。そこに映る歪んだ人影の正体を確認した瞬間、僕は勢いよく鍵を開けてドアを引っ張った。
「琴音ちゃん……っ!?」
ドアの向こう側の薄暗い外廊下にぽつんと立っていたのは、身をすくめた琴音ちゃんだった。彼女は泣き出しそうな、心配そうな顔で僕たちを交互に見つめている。
「……ごめんなさい。響くんたちから連絡をもらって、来たら危ないって分かってたんだけど。でも、二人のことがどうしても心配で……じっとしていられなくて……」
自分の危険も顧みず、僕たちのためにここまで走ってきてくれた彼女の健気な優しさに、胸の奥がギュッと切なく締め付けられる。なんとも言えない愛おしさに不謹慎にも少しだけキュンとしながら、僕は「とにかく中に入って」と彼女を急いで部屋の中へと招き入れた。
けれど、この重苦しい空気のまま狭い部屋に閉じこもっていては、全員の精神が参ってしまう。
「……よし。少し空気を変えよう。家の中にお菓子類も切らしてるし、三人で近くのコンビニまで歩かない?」
僕の提案に、二人がホッとしたように頷いた。
アパートを出て、まばらな街灯が夜道を頼りなく照らす中、僕たちは身を寄せ合うようにして歩き出した。ジメジメとした真夏の夜風が肌にまとわりつく。
道すがら、僕は先ほど奏多と話していた『お互いのバイト先への嫌がらせ』の件を、声を潜めて琴音ちゃんに伝えた。彼女は手首のミサンガを無意識に握りしめながら、顔を曇らせて静かに話を聞いている。
――そう、僕たちは日常の延長のつもりで、暗い夜道を歩いていたんだ。
コンビニの明るい光を目指して進む僕たちのすぐ後ろに、あの、油絵の具で両手を真っ赤に染めた『復讐者』の生々しい足音が迫っていることにも気づかずに。




