余韻のノイズ
よろよろと足を引きずりながらも、奏多が少し引きつった笑みを浮かべて暗闇から這い出てきた。
その姿を見て、僕は「無事だったんだ」と激しい動悸の中で辛うじて胸をなでおろす。
だが――その身体がトンネルの外へ完全に抜け出た、まさにその瞬間だった。
「あ、が……ッ! 痛い、痛い痛い痛い!!!!」
奏多は突然、獣のような激しい悲鳴を荒らげ、右の耳元を両手で強く押さえて地面に激しく転がり込んだ。ライトが点灯したままのスマホが、手から離れて草むらへと無様に放り投げられる。
「……ちょっと、奏多? 大丈夫か?」
あまりにもオーバーでのたうち回るその動きに、僕はいつもの悪ふざけが好きな奏多の姿を思い出し、「おい、ふざけるなよー」と、強張った声を誤魔化すように軽く笑いながら声をかけた。
だけど、地面を掻きむしる彼の絶叫はあまりにも必死で、本物だった。僕は生唾を飲み込みながら、草むらに落ちていた奏多のスマホを拾い上げ、そのLEDライトの鋭い白光で彼の姿を真正面から照らし出す。
眩しい光に晒されながら、激痛に顔を歪めていた奏多が、上半身をなんとか起こそうとして耳に当てていた右手を離し、地面へとついた。
それを見た瞬間、後ろにいた琴音ちゃんが、引き裂かれたような悲鳴を上げた。
「血……っ!! 血が出てる、奏多くん……っ!!」
スマホの白い光に照らされた、奏多の右耳。そこから、どす黒いほどに真っ赤な鮮血が、ボタボタと絶え間なく地面へと滴り落ちていた。
地面についた奏多の手のひらが、自分の血で真っ赤に染まっていく。
起き上がろうとしていた奏多の動きが、ぴたりと止まった。あまりの異常事態に激痛すら忘れてしまったかのように、彼の顔から一気に血の気が引き、文字通り顔面蒼白になる。
ライトの光の中で、奏多が虚ろな目を大きく見開き、自分の右耳を震える指先で恐る恐る触りながら、掠れた声を漏らした。
「あれ……? おかしい。……響? 琴音ちゃん?」
目の前にいる僕たちを交互に見つめながら、奏多の瞳に本当の絶望がじわじわと広がっていく。
「左耳からは……お前らの声がちゃんと聞こえるのに。右耳が……なんか……聞こえない……」
「とにかく、一刻も早くここを離れて病院に行こう!」
僕は叫び、二人を促して広場の車へと走った。右耳を押さえてうめく奏多に運転なんてさせられるわけがない。ペーパードライバーに近い僕が代わりにハンドルを握るしかない。
暗闇の中、運転席のドアノブに手をかけた。
――ヌチャッ。
手のひらに、べっとりとした異様な油分と生温かい違和感がまとわりついた。
「うわっ……!?」
スマホのライトで慌てて自分の手を照らし出す。手のひらが、真っ赤に染まっていた。
驚いてライトの光を車体全体へと向ける。
言葉を失った。僕たちの乗ってきた軽自動車のボンネットからドアに至るまで、真っ赤なドロドロとした液体が、幾筋も不気味にぶちまけられていたのだ。
「きゃぁぁああああっ!!」
それを見た琴音ちゃんが、ついに限界を迎えて叫びながら後ろに尻もちをついた。奏多も自分の血と車の赤に挟まれ、呼吸を荒くしてパニック寸前だった。
――落ち着け。落ち着け、僕。
バクバクと狂ったように警鐘を鳴らす心臓を強引に押さえつけ、僕はじっと耳を澄ませた。
人より耳が良い僕の鼓膜。だけど……ここには、あの『ジ……』という不快なノイズも、例のメロディも一切聞こえてこない。
ただ、奏多の荒い息遣いと、琴音ちゃんのすすり泣きが聞こえるだけだ。
もしこれが怪異の仕業なら、絶対に僕の耳に『何か』が聞こえるはずだ。それがないということは……これは、幽霊なんかじゃない。人間の仕業……?
僕は無理やり冷静さを装い、手のひらに付着した赤い液体の匂いを嗅いだ。
「……血じゃない。絵の具か……ペンキだ」
鼻を突いたのは、生臭い血液の匂いではなく、油絵の具特有のツンとした油と溶剤の濃い匂いだった。指同士で擦り合わせても簡単には落ちない。水性ではなく油性のものだろう。
「二人とも、落ち着いて! これ、血じゃないから! 誰かのタチの悪いイタズラだ。だから、大丈夫! 車は動くから!」
僕はわざと声を張って二人に説明した。
内心は叫び出したいし、大騒ぎして今すぐ逃げ出したかった。
だけど、ここで僕まで取り乱してしまったら、二人は完全に崩壊してしまう。僕がしっかりしなきゃいけないんだ。
真っ赤に汚れた手でハンドルを握り、エンジンをかける。ワイパーを動かしてフロントガラスの油絵の具を強引に引き剥がしながら、僕は夜の山道を狂ったように飛ばし、最寄りの救急病院へと滑り込んだ。
病院に着くと、すぐに奏多は処置室へと運ばれていった。だが、看護師が俺の手や服についた真っ赤な色を見て、「あなたの方が重傷じゃないの!!」と取り乱したので、絵の具だと説明するのが大変だった。
待合室の白いベンチで、僕は絵の具で汚れた自分の両手をじっと見つめていた。怪異と、人間の生々しい悪意。その二つが同時に僕たちを襲ったという事実に、背筋の震えがどうしても止まらなかった。




