夜のトンネルのノイズ
――大丈夫。昼間にあれだけ何も起きなかったんだから、夜だってサッと水を供えて帰ってくるだけなら、何の問題もないはずだ――
自分にそう言い聞かせながらも、僕たちの胸の奥には、拭いきれない冷たい不安が澱のように溜まっていた。誰もがその恐怖を隠し、あえて言葉には出さなかったように思う。奏多の運転する車は夜の道路を滑るように走っていった。
車内では、大学の次のクールの話や、最近見たネットの面白い動画のことなど、わざとらしいほど明るい会話が交わされていた。それが互いの恐怖を誤魔化すための、必死の空元気であることには全員が気づいている。だけど、誰もそれを指摘しないし、できなかった。
フロントガラスの向こう、街灯の少なくなってきた暗い夜道の先に、一軒のコンビニの看板が見えてきた。
お供え用の新しいミネラルウォーターを買うために、奏多がウインカーを出す。
駐車場に車を滑り込ませると、ガラス越しに溢れる煌々とした白い光が、車内を明るく照らし出した。
その人工的な光は、これから真っ暗な闇へと向かう僕たちにとって、まるで砂漠の中に見つけたオアシスのようだった。
自動ドアが開くチャイムの音や、並べられた商品、店員の無機質な挨拶といった『ありふれた日常』に触れるだけで、冷え切っていた心が、ほんの少しだけ温かく解きほぐされていく。
お供え用のミネラルウォーターをカゴに入れた後、僕は少しでも緊張を紛らわせようと、店内のお菓子コーナーに足を向けた。
いつもなら夏休みの夜食にと喜んで買うはずのポテトチップスや甘いチョコレート。
だけど、棚に並ぶそれらを目にしても、胃の奥がキュッと収縮して、酷い吐き気のような拒絶感がこみ上げてくる。
小さなお菓子ひとつすら、今の僕の身体は受け付けそうになかった。喉の奥がカラカラに乾いていて、食欲なんて完全に消え失せている。
隣にいる琴音ちゃんを見ても、ただカゴを握りしめたまま、お弁当の棚の前に力なく立ち尽くしていた。 彼女もきっと、僕と同じなんだと思った。
棚から冷たいペットボトルの水を一本取り出し、会計を済ませる。
――けれど、このオアシスの光から一歩外に出れば、その先にはもう、本物の暗黒しか残されていない。
僕たちは再び車に乗り込み、エンジンをかけた。ヘッドライトの光が、人工の明かりが届かない山道の闇を深く切り裂いていく。
トンネルの近くにある、舗装もされていない広場に車を止めた。
周囲には街灯の類が一本もなく、車のエンジンを切った瞬間、世界は完全な無へと塗り潰された。
僕たちはスマホのライトだけを頼りに、外へと這い出る。
奏多が、新しく買ったペットボトルを片手に先頭を歩き、僕たちは再びあの穴へと足を踏み入れた。
――ピチョン。……ピチョン。
昼間よりも不気味に、その水滴の音だけが、コンクリートの壁に反射して鮮明に、大きく響き渡る。他に遮る音が何もない分、その冷たい音が鼓膜を直接叩いてくるようで、背筋が音を立てて凍りついていく。
誰もが次第に無言になり、ただひたすらトンネルの中央を目指して歩いた。昼間に見えていたはずの向こう側の出口すら、今は底無しの真っ暗闇に覆われていて全く見えない。
まるで、自分から進んで巨大な怪物の胃袋の奥へと歩を進めているような、凄まじい錯覚に囚われる。
スマホのライトの白い光が、壁際の窪みを捉えた。 ゆっくりと、あの小さなお地蔵様の姿が闇の中に浮かび上がる。
――ヒッ、と誰かが息を呑んだ。
数日前にお供えしたはずのミネラルウォーターが、ペットボトルごと、跡形もなく消え去っていた。
代わりにそこに手向けられていたのは、数本の小さな花。茎の切り口はまだ瑞々しく、全く萎れていない。ついさっき、誰かがここに手折って置いていったような、真新しい花だった。
大昔に打ち捨てられた廃トンネルの暗黒と、そこに手向けられたばかりの生々しい花の鮮やかさ。その圧倒的な不釣り合いさに、脳髄が恐怖で痺れた。
ここに、僕たち以外の『誰か』がいる。
「……水、置いて、早く帰ろう」
奏多が震える手でお地蔵様の足元にペットボトルを置いた、その瞬間だった。
冷たい風が吹き抜けるような掠れた声が、鼓膜の奥へと直接滑り込んできた。
――お……み……ち……――
「急ごう!!」
僕は叫び、二人の腕を掴んだ。唐突に声を上げた僕に、奏多と琴音ちゃんは不審そうな顔を向ける。きっと、二人にはまだこの声は聞こえていない。
だけど説明している余裕なんてない……!
僕はとりあえず琴音ちゃんの手を強く引き、足早に出口へと歩き出した。握りしめた彼女の手首から、あの編み込まれたミサンガの手触りが、嫌な生々しさで手のひらに伝わってくる。
「あ……。今、おみち、って聞こえる……」
琴音ちゃんが怯えた声を漏らした。
「あ、俺も聞こえた! 歌、歌ってる……!」
奏多もスマホのライトを激しく揺らしながら声を上げる。二人にも、ついにあのメロディが届き始めたのだ。
――けれど。
僕の鼓膜には、二人の声に重なるようにして、さらにその『先』の言葉が、おぞましい音量で頭蓋骨に直接響き渡っていた。
――お、み……ちょう……だ、い……――
その瞬間、僕の脳内で、パズルのピースが最悪な形で噛み合った。
4歳のゆうくんが小さな唇をモゴモゴさせて歌っていた、あの舌足らずな発音。
『おみず』なんかじゃない。ゆうくんの拙い発音の正体は、この言葉だったんだ。
僕は全身の血の気が一気に引き、完全に青ざめた。
「違う!!! お水じゃない!!!
走れ!! 逃げろっ!!!」
僕の狂ったような叫び声に弾かれたように、みんなで闇の中を全力で駆け出した。
ズシャァァァッ!!!
背後で、激しく肉が地面に叩きつけられる音と、奏多の短い悲鳴が響いた。
「痛っ……! 先に行け!! 響、琴音ちゃんを連れて先に外へ出ろっ!!」
僕は必死に涙をこらえ、まずはパニックで泣き叫ぶ琴音ちゃんの手を引いて、暗黒のトンネルの外へと力任せに連れ出した。
じめっとした夜の生温かい空気が僕たちを包む。
「ここで待ってて!」
琴音ちゃんを安全な場所に残し、僕は奏多を助けるために、再びあの黒い穴へと戻ろうとした。
ライトの光を向けると、暗闇の中から、奏多が軽く足を引きずりながら、自力でよろよろとトンネルの外へと這い出てくるところだった。




