第6話:愚者の断罪劇1
肺を極限まで圧迫するコルセットの鯨骨の締め付けが、今夜は一段と心地よい。
屋敷を出る前、従者に命じて限界まで紐を引かせたウエストは、誰の目から見ても完璧な、そして痛々しいほどの細さを形作っているはずだ。一歩足を踏み出すたびに、硬い骨組みが肋骨の隙間に食い込み、呼吸は浅く、小刻みになる。
酸素が足りず視界の端が微かに明滅するが、その息苦しささえも、今の私にとっては勝利の美酒を煽る前の極上のスパイスに過ぎなかった。
王宮の巨大な大広間。天井から吊るされた幾百ものクリスタルシャンデリアが、暴力的なまでの眩い光を床の大理石に叩きつけている。空気は、何百人もの貴族たちが纏う香水と、肌から立ち上る熱気、そしてローストされた肉の脂の匂いが混ざり合い、ひどく重く、粘り気を帯びていた。
額の裏側で、ドクン、ドクンと耳障りなほど大きな血の音が鳴り響いている。
レースの手袋に包まれた掌にはねっとりとした冷汗が滲み、せっかく厚く白粉をはたいた肌が、内側から燃え上がるような熱でじっとりと湿り、溶けていくのがわかった。
周囲の貴族たちの視線が、一斉に私へと向けられているのを感じる。
彼らのヒソヒソとした囁き声が、シャンデリアの光に反射して私の鼓膜を心地よくくすぐる。それは決して、私を哀れむ声ではない。この女尊男卑の狂った世界において、絶対的な権力を持つ『氷の公爵令嬢』に反旗を翻そうとする、この美しく勇敢な男への称賛のざわめきに違いないのだ。
私が真実を暴けば、彼らは皆、私の足元にひざまずき、この偉業を永遠に語り継ぐだろう。
「……見つけたぞ、ヴィクトリア」
広間の最奥。一段高くなったVIP席で、深紅のワイングラスを優雅に傾けている女の姿が目に入った瞬間、私の胃袋の底から、黒く濁った泥のようなものが一気に喉元までせり上がってきた。
口の中に、鉄の錆と、酸っぱい胃液の味が広がり、私は唾液を無理やり飲み込んだ。
軍服をアレンジした漆黒のイブニングドレス。装飾を削ぎ落としたその出で立ちは、女性としての艶やかさなど微塵もなく、ただただ傲慢な権力と暴力の象徴としてそこにあった。
そして彼女の背後には、あの薄気味悪い漆黒の狂犬が、巨大な影のようにピタリと張り付いている。あの首輪の男を思い出すだけで、指先が微かに震えそうになる。
私は、硬直しようとする膝を必死に叱咤し、大広間の中央へと歩みを進めた。
カツン、カツンと、ヒールの高い靴が床を叩く音が、私の歩みに合わせて静まり返り始めた広間に異様に大きく響き渡る。
私の手の中には、筒状に丸められた一枚の分厚い羊皮紙。リリアーヌが命がけで手に入れてくれた、アシュクロフト公爵家の不正を暴く決定的な証拠。
羊皮紙のザラザラとした感触が、今の私を支える唯一の骨格であり、世界を反転させる魔法の杖だった。
「ヴィクトリア・アシュクロフト! そこで優雅にグラスを傾けていられるのも、今のうちだけだ!」
私の喉から飛び出した声は、自分でも驚くほど甲高く、ひっくり返りそうになっていた。コルセットのせいで肺に十分な空気が入らず、言葉の端々が掠れ、不様な擦過音になる。
だが、そんなことは問題ではない。私のこの声は、彼女を断罪し、この世界の頂点に立つための正義の鉄槌なのだ。
ヴィクトリアの氷色の瞳が、ゆっくりとこちらに向けられた。
一切の感情を排した、あの這い回る虫けらを見るような冷酷な視線。その視線を浴びた瞬間、私の背筋にゾクリと鋭い氷の刃のような悪寒が走り、指先の体温が急速に奪われていくのを感じた。
だが、私は下唇を強く噛み締め、口の中に確かな血の味を滲ませることで、その肉体の震えを無理やり封じ込めた。
「俺は、お前のその血の通わない暴虐な振る舞いを、すべて白日の下に晒すためにここに来た! 王家の血を引くこの俺をコケにし、無能な不良品として切り捨てたお前の大罪を、この社交界の全員の前で完全に証明してやる!」
私は羊皮紙の束を頭上に高く掲げ、声を限界まで張り上げた。呼吸が足りず、視界の端がチカチカと激しく白く点滅し始める。
顔中から脂汗が噴き出し、丁寧にセットした金髪の前髪が額にへばりつく不快感。
厚塗りのメイクが崩れていくのが肌感覚でわかる。
だが、その崩壊していく感覚すらも、私が今、歴史的な勝利の舞台に立っているという強烈な陶酔感へと変換されていく。
「ここにあるのは、お前たちアシュクロフト家が、領民から不当に魔石を搾取し、裏で他国に莫大な額で横流ししているという確たる証拠だ!」
「さらには、罪なき男たちを不法に拘束し、非道な人体実験の材料にしているという記録もすべて揃っている!」
「お前は、この国の法と秩序を根底から踏みにじる、悪魔のような女だ!」
私の絶叫が、シャンデリアのクリスタルにぶつかって広間全体にこだまする。
静寂。
完璧な、耳鳴りがするほどの静寂。
周囲の貴族たちは、誰も一言も発しない。
グラスを触れ合わせる音すら完全に消え失せた。
そうだ。彼らは皆、私の持ち出した圧倒的な真実の前に、息を呑んで驚愕しているのだ。
あの絶対不可侵のアシュクロフト公爵家が音を立てて崩壊する様を、固唾を呑んで見守っているのだ。
「どうした、ヴィクトリア! 何か言い訳があるなら言ってみろ! いつものその傲慢な口調で、俺を見下してみろ!」
「できないだろう!? お前の化けの皮は、今、この俺の手によって完全に引き剥がされたんだからな!」
私は高笑いを上げようとした。
だが、極限まで締め上げられたコルセットが肺を激しく圧迫し、喉から出たのは情けない空気の漏れる音だけだった。
それでも構わない。私の全身は、かつてないほどの熱い高揚感に包まれている。
足のつま先から頭頂部まで、すべての血管に極上の麻薬が打ち込まれたかのように、視界が極彩色に歪み、体がふわふわと宙に浮いているかのような錯覚。
──これが、絶対的な勝利の感覚。
私を蔑んできた世界を、私の足元に屈服させた絶頂の瞬間なのだ。










