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死に戻り妻は、推しの確定ファンサをお断りしたい。

作者: あとりえむ
掲載日:2026/03/09

冷たい雨が、容赦なく肌を打ち据えていた。


灰色の空から降り注ぐ無数の水滴は、まるで世界そのものがサラ・ヴィル・ルクセリアを拒絶し、嘲笑っているかのようだった。


荒々しく腕を引かれ、ぬかるんだ石畳を引きずられるようにして歩かされる。

周囲を取り囲む群衆の憎悪に満ちた罵声も、石を投げつけられる痛みも、今のサラにはひどく遠い出来事のように感じられた。


向かう先は、領都の中央に設えられた無骨な処刑台。

雨水を吸って黒ずんだ木の階段を一段上るごとに、サラの心は削られ、死への恐怖よりも深い絶望が全身を侵食していく。



どうして、こんなことになってしまったのだろう。


処刑台の中央に引き据えられ、冷たい雨の溜まる床に膝をつかされたサラは、ゆっくりと顔を上げた。


視線の先、群衆を見下ろすように設えられた特等席には、一人の男が座っている。

万象を断つ静寂の刃と恐れられる帝国最強の公爵であり、サラの夫であるヴォルティス・ザル・グラディウス。


艶やかな黒髪は雨に濡れて額に張り付き、彫刻のように整った顔立ちは、この世のものとは思えないほど美しい。

しかし、その氷のように冷たい青の瞳には、妻であるサラに対する同情も、憐れみも、怒りすらも微塵も存在していなかった。

ただ、領地を蝕む害悪を排除するという、機械的な義務感だけがそこにある。


私はただ、あなたに愛されたかっただけなのに。


政略結婚であったとはいえ、サラはヴォルティスを心から愛していた。

感情を殺して領地運営と戦闘に明け暮れる孤独な彼を支えたいと願い、不器用ながらも必死に公爵夫人としての責務を果たしてきた。


彼が好むと聞いた茶葉を自らブレンドし、彼が少しでも安らげるように屋敷の環境を整え、冷たい言葉を投げかけられても決して笑顔を絶やさなかった。

いつか、あの冷たい瞳に自分への愛情が宿る日を夢見て。


しかし、現実は残酷だった。

悪意ある罠に嵌められ、領地の機密を敵国に流したという濡れ衣を着せられたサラを、ヴォルティスは一切の迷いなく切り捨てた。


無実を訴え、泣き叫んで足にすがりついたサラを、彼は汚いものでも見るかのような目で見下ろし、ただ冷徹に証拠という名の紙切れだけを突きつけたのだ。


サラの心など、彼にとっては最初から存在していなかった。

彼が見ていたのは、合理性と秩序という名の歯車だけだった。


「執行せよ」


ヴォルティスの薄い唇から紡がれたその一言が、決定的な刃となってサラの心臓を貫いた。


その瞬間、サラの中で張り詰めていた何かが、音を立てて砕け散った。

愛も、希望も、祈りも、すべてが無駄だったのだ。

どれほど尽くしても、どれほど愛しても、この男には決して届かない。


鈍く光る巨大な刃が、頭上高く振り上げられる。

首筋にじっとりと張り付く雨の冷たさと、死の気配。

私は、あの男に殺される。

愛した人に、ゴミのように捨てられて死ぬのだ。


恐怖と絶望が頂点に達し、刃が風を切って振り下ろされた刹那。

サラの意識は、深い暗闇へと真っ逆さまに堕ちていった。





「はっ、あ……っ!」


サラは弾かれたように身を起こした。

肺に無理やり空気を送り込もうとするが、喉がひゅるひゅると奇妙な音を立てるばかりで、上手く呼吸ができない。


ガチガチと歯の鳴る音が、静まり返った部屋に響き渡る。

シーツを握りしめる両手は血の気が引いて真っ白になり、全身が冷たい脂汗でびっしょりと濡れていた。


首をさする。

繋がっている。

切断された鋭い痛みも、血の熱さもない。


ここは、どこだ。


ランプの仄暗い灯りに照らされた室内を見回す。

豪奢な天蓋付きのベッド、見覚えのある重厚なアンティークの家具。

そこは間違いなく、ヴォルティスとの結婚初夜に用意された公爵家の寝室だった。

窓の外からは、冷たい雨の音ではなく、穏やかな夜風が木々を揺らす音が聞こえる。


過去に戻った。

死に戻ったのだと理解した瞬間、安堵よりも先に、強烈な吐き気と底知れぬ恐怖がサラの全身を支配した。


「あ、ああ……っ、嫌、いやだ……」


過呼吸を起こし、毛布をかきむしりながら後ずさる。


視線の先、ベッドの隣には、静かな寝息を立てて眠るヴォルティスの姿があった。

シーツから覗く鍛え上げられた広い肩、無防備に散らばる黒髪。

その姿を見た瞬間、断頭台で見下ろされたあの冷たい青の瞳がフラッシュバックする。


また、あの男に殺される。

どれだけ愛しても、どれだけ尽くしても、最後には無惨に切り捨てられる。

あの冷たい床に這いつくばらされ、首をはねられるのだ。


「ひっ、あ……!」


喉の奥から悲鳴が漏れそうになるのを、両手で必死に口を塞いで押し殺す。


逃げなければ。

今すぐこの屋敷から逃げ出さなければ、また殺される。


しかし、帝国最強の武力を持つ公爵家から、か弱い令嬢一人が逃げ出せるはずもない。

実家に助けを求めたところで、政略結婚の駒である自分を見捨てることは前世で証明済みだ。


逃げ場など、どこにもない。

隣で眠る死神と共に、これから先の人生を生きていかなければならない。

その絶望的な事実に直面し、サラの精神は完全に崩壊しかけていた。

恐怖で視界が明滅し、発狂の淵に立たされたその時。


サラの極限状態にあった脳は、彼女の命と精神を繋ぎ止めるため、一つの強力な防衛本能を作動させた。


ふと、隣で眠るヴォルティスの顔に視線が吸い寄せられる。

長い睫毛が美しい影を落とし、スッと通った鼻筋から薄い唇へのラインは、神が精魂込めて削り出したかのように完璧だった。


彼の人間性に期待するから、裏切られて絶望するのだ。


自分を愛してくれる一人の夫だと思えば、心が壊れる。

彼に心などないと、なぜ気づかなかったのか。


そうだ、あれは人間ではない。

三次元に顕現した、至高の芸術作品だ。

感情も、温もりも持たない、ただそこにあるだけで価値のある美しい彫像だ。

そう思えばいい。

いや、そう思い込まなければ、今すぐにでも恐怖で狂い死んでしまう。


サラは震える両手で自身の顔を覆い、大きく、長く深呼吸をした。

空気を肺の奥底まで吸い込み、ゆっくりと吐き出す。


その呼吸のたびに、心臓の奥底で燃えていたヴォルティスへの愛情も、殺されたことへの憎しみも、死の恐怖すらも、すべてが冷たく凍りついていくのを感じた。

感情という名の不純物を完全に排除し、分厚い氷の檻の中に厳重に閉じ込める。

そして代わりに、一つの歪な情熱だけが、暗い泥の中から頭をもたげた。


「あなたの顔面と才能は、至高の芸術です。でも、私の心臓は前世の断頭台で、とうの昔に止まっているんですよ」


誰に聞かせるわけでもない呟きは、夜の闇に吸い込まれて静かに消えた。

覆っていた両手をどけた時、サラの顔から先程までの絶望と恐怖は完全に消え去っていた。


私はもう、彼に愛など求めない。

人間としての彼に、一切の期待をしない。

彼はただの観賞用コンテンツであり、私が崇めるべき最推しだ。

推しに恋愛感情を抱くなど言語道断。


私はただ、彼の顔面と戦闘スキルという才能を愛で、パトロンとして彼を徹底的に保護する、完璧なモブに徹するのだ。


サラの唇の端がゆっくりと吊り上がり、張り付いたような明るい微笑みが浮かんだ。

それは、絶望の淵で心が壊れきった果てに辿り着いた、狂気という名の平穏だった。


新しい朝が来たら、まずは彼に同担拒否のルールを宣言しなければならない。

推しと同じ寝室で眠るなど、おこがましすぎるのだから。



サラは静かにベッドを抜け出すと、美しい推しの寝顔をただ静かに、感情のない瞳で見つめ続けた。




朝の淡い光が、重厚なカーテンの隙間から滑り込んできた。


小鳥のさえずりが微かに聞こえる静寂の中、サラ・ヴィル・ルクセリア……いや、昨晩からサラ・オブシディアンとなった彼女は、すでに完璧な身支度を終えていた。


鏡の前に立つその姿に、昨夜の恐怖に震えていた面影はない。

背筋を伸ばし、新緑の瞳には一切の濁りがなかった。


かつての彼女なら、初夜の翌朝、冷たい夫にどう接すれば少しでも愛されるかと、震える手で何度も髪を梳かし直していただろう。

だが、今のサラの心にあるのは、崇高な推しを拝む前の身禊に似た清々しさだけだった。


背後のベッドで、シーツの衣擦れが微かに鳴る。

サラは振り返り、美しい彫像が目覚める瞬間を、呼吸を止めて見守った。



「……」


ヴォルティス・ザル・グラディウスが、ゆっくりと青い瞳を開いた。

寝起き特有の気怠さを微かに漂わせながらも、その視線は瞬時に鋭さを取り戻し、室内の状況を把握しようと動く。

そして、窓際で静かに微笑んで立っている妻の姿を捉え、わずかに眉を動かした。


彼にとって、政略結婚の妻など、領地経営のための合理的な配置の一つに過ぎない。

泣きすがってくるか、あるいは公爵夫人としての権力を求めて媚びへつらってくるか。

そのどちらかだろうと予測していた。

だが、目の前のサラは、そのどちらでもなかった。


「おはようございます、閣下。昨夜はよくお休みになれましたか」


サラは完璧な、100点満点のカーテシーで挨拶をした。

声のトーンは明るく、淀みがない。


しかし、ヴォルティスは微かな違和感を覚えた。

新妻が夫に向けるような、恥じらいや媚び、あるいは怯えといった人間としての感情が、その声からも、張り付いたような笑顔からも、一切読み取れなかったのだ。


まるで、精巧に作られた人形が、プログラムされた通りに動いているかのような不気味さ。


「ああ。……お前は、随分と早起きだな」


短い返答に、サラの心臓がトクンと跳ねた。

推しの生声である。

前世では、この低く冷たい声にどれほど胸を痛め、怯えていただろうか。


だが、今は違う。

感情のフィルターを外し、単なる音響として捉えれば、これほど耳に心地よい重低音はない。

脳髄が痺れるような素晴らしい声帯の響きに、サラは内なる熱狂を必死に抑え込んだ。


「恐れ入ります。本日は、今後の生活について閣下に重要なご提案があり、早起きいたしました」


「提案?」


ヴォルティスはベッドから上体を起こし、冷ややかな視線を妻に向けた。

早くも公爵家の財産や権力への口出しが始まるのかと、彼の思考は瞬時に冷徹な計算へと移行する。

だが、サラの口から紡がれた言葉は、彼の合理的予測を完全に斜め上から打ち砕くものだった。


「はい。これより先、私と閣下の生活空間、および寝室を完全に分離していただきたく存じます」


静寂が、部屋に落ちた。

万象を断つ静寂の刃と恐れられる彼でさえ、予想外の言葉に一瞬だけ思考が停止した。


初夜の翌朝に、妻の方から完全な別居を申し出てきたのだ。

それは、貴族の妻としての義務や、彼からの寵愛を一切放棄するという宣言に等しい。


「……どういう意味だ。俺に不満があるということか」


「滅相もございません!」


サラは食い気味に、力強く否定した。

その瞳には、嘘偽りのない純粋な畏敬の念が宿っている。


「むしろ逆でございます。閣下は、帝国が誇る至高の存在。その尊いお時間を、私のような取るに足らない女が奪うなど、万死に値する行為です。閣下のプライベートな空間は、いかなる不純物にも侵されない、絶対不可侵の聖域であるべきなのです」


息継ぎも忘れるほどの早口で、サラは力説した。

前世で、彼に少しでも触れたくて、隣を歩きたくて、必死にすがりついた日々。

その結果が、あの冷たい断頭台だった。


だからこそ、今世では絶対に線を引く。

推しと同じ空気を吸うことすら、本来はおこがましいのだ。

同担拒否ならぬ、自担拒否。


推しと自分を同じ世界線に並べてはならないという、限界オタクとしての絶対的な生存戦略だった。


「……つまり、俺の顔も見たくない、と?」


ヴォルティスは、感情の読めない低い声で問い返した。

合理的に考えれば、妻が干渉してこないのは領地経営において非常に都合が良い。


だが、何かがおかしかった。

彼女の言葉は、表面的には極端なへりくだりであり、夫への絶対的な服従を示しているように聞こえる。


しかし、その新緑の瞳の奥には、熱狂的な光があるだけで、ヴォルティスという一人の男に対する関心や執着が、綺麗に抜け落ちているのだ。

まるで、遠くの星を眺めるような、あるいは博物館の美術品を鑑賞するような目。

そこには、人間同士が結ぶべき精神的なつながりが、一片たりとも存在しなかった。


「まさか!閣下のお姿を拝見することは、私の人生における最高の喜びです。ですが、それは遠くからお見守りするだけで十分なのです。どうか、ご自身のお心と体を最優先に、ご自由にお過ごしくださいませ」


サラは満面の笑みで言い切った。

これ以上彼に近づけば、前世のトラウマがフラッシュバックして呼吸ができなくなる。

これは、心を守るための分厚い防壁だった。


笑顔の下で、彼女の心臓は冷たく凍りついたまま、ただ生き延びるために警鐘を鳴らし続けている。


ヴォルティスはしばらくの間、無言で妻を観察していた。

氷のように冷たい青の瞳が、サラの表面的な笑顔の奥にあるものを探ろうとする。


しかし、完璧に作り上げられた熱狂的なファンという強固な仮面を前に、彼でさえもその奥に隠された深い絶望と虚無を見抜くことはできなかった。


「……わかった。お前がそれを望むなら、好きにしろ」


「ありがとうございます!閣下のご寛大な処置に、心より感謝申し上げます」


サラは再び深く、完璧なカーテシーをして見せた。


ヴォルティスは静かに立ち上がり、身支度を整えるために部屋を出ていく。

扉が閉まる瞬間まで、サラは美しい彫像の挙動から目を離さず、しかし一切の未練を見せなかった。



重厚な扉が閉まり、足音が遠ざかっていくのを確認した瞬間。

サラは、ふうっと長く息を吐き出し、その場にへたり込んだ。

冷や汗が背中を伝う。

張り詰めていた糸が切れ、微かに手が震えていた。

しかし、その顔には、先程までの作り笑いではない、心からの安堵の笑みが浮かんでいた。


「第一関門、突破……っ」


これで、彼から理理尽に殺されるリスクも、彼に無駄な期待をして心をすり減らすリスクも、大幅に減らすことができる。

生活空間を分ければ、彼と顔を合わせる機会は劇的に減る。


つまり、推しの美しい姿を安全な場所から観賞しつつ、裏から全力でパトロン活動に勤しむ環境が整ったのだ。

心が壊れるのを防ぐために始めた狂気の防衛策は、見事に機能した。



一方、廊下を歩くヴォルティスの心の中には、微かな、しかし決して無視できないノイズが残っていた。


妻との距離を置くことは、合理的であり、彼自身も望むところであったはずだ。

彼には、領地を守るという絶対的な使命がある。

そこに、女の感情などという不確定要素は必要ない。

そう思っていた。


だが、なぜだろうか。

自分を見つめる彼女の瞳から、本来そこにあるべき温度が決定的に欠落していたことに、ひどく冷たい喪失感のようなものを覚えるのは。


静寂の刃と呼ばれ、感情を殺して生きてきた彼の心に、わずかな波紋が広がっていた。

それが、やがて彼自身を狂わせる致命的な嵐の始まりであることに、この時のヴォルティスはまだ気づいていなかった。



サラは立ち上がり、ドレスの皺をパンパンと叩いて払った。

ここからが本番だ。


推しが安全に、そして最高に輝ける舞台を用意するためには、莫大な資金と、完璧な裏工作が必要になる。

前世の知識を総動員し、まずは実家の資産を動かす手筈を整えなければならない。

そして、あの天才職人をいち早く見つけ出すのだ。


「さあ、推し活という名のサバイバルの始まりよ」


誰もいなくなった寝室で、サラの決意の声が明るく、そしてどこか狂気を孕んで響いた。




帝都の華やかな大通りから外れ、迷路のように入り組んだ路地を抜けた先。

陽の光さえも届かないスラム街の奥深くは、腐敗と泥の不快な匂いが立ち込めていた。


サラは目立たない灰色の外套に身を包み、ぬかるんだ地面を躊躇いもなく進んでいく。

公爵夫人という立場になれば、本来このような場所に足を踏み入れることなど許されない。


しかし、今のサラにとって「公爵夫人」という肩書きは、推しを最前列で保護し、資金を動かすためのただのフリーパスに過ぎなかった。


前世での彼女は、夫の愛を得るために己を殺し、ただ清く正しい令嬢であろうと努めた。

その結果が、あの冷たい断頭台での理不尽な死である。


今世ではもう、誰かに評価されるための生き方などしない。

己の精神を守るための「推し活」という名の生存戦略において、不要な常識はすべて切り捨てるつもりだった。



サラの足が、崩れかけたレンガ造りの小屋の前でピタリと止まる。

隙間風の吹き込む薄暗い室内では、銀色の髪を無造作に伸ばした痩せぎすの青年が、危険な瘴気を放つ魔石を素手でいじり回していた。


「……おい、そこをどけ。光の屈折率の計算が狂う」


青年は顔を上げることもなく、不機嫌な声で言い放った。

彼こそが、前世の記憶の中で数年後に『帝国一の魔導技師』として歴史に名を刻むことになる天才職人、ティアル・ルクその人である。


しかし現在の彼は、その異端すぎる発想と危険な実験の数々から魔導ギルドを追放され、このスラムで迫害されながら生きる日陰者だった。


サラは外套のフードを深く被ったまま、彼の作業台の上に、実家の商会を通じて引き出した莫大な金額の小切手と、ある設計図の束を無造作に置いた。


「あなたの才能を買いに来ました。この資金で、この設計図にある武具と魔導具をすべて、最高純度の素材で作り上げてください」


ティアルは怪訝な顔で小切手と設計図を一瞥し、そして鼻で笑った。


「貴族のお嬢様が、スラムのゴミ捨て場まで何の冗談だ?俺の作るものはギルドの老害どもには理解できない危険物だぜ。それに、この設計図……異常だろ。使用者の身体能力を極限まで引き上げる代わりに、一歩間違えれば魔力回路が焼き切れる。誰に装備させるつもりだ?」


「帝国最強の剣士です。彼ならば、この武具の真価を完璧に引き出し、至高の芸術として昇華させることができます」


サラの言葉に、ティアルはやっと手を止め、ゆっくりと顔を上げた。

薄汚れた前髪の隙間から覗く金色の瞳が、サラを射抜くように見つめる。


ティアルはスラムという泥底で生きてきたからこそ、人間の本性に敏感だった。

目の前に立つ令嬢の出で立ちは地味だが、その佇まいには隠しきれない気品がある。

しかし、問題はそこではない。

彼女の瞳だ。


「……あんた、笑ってるけど、目が完全に死んでるな」


ティアルの低い声が、薄暗い小屋の中に響いた。

その瞬間、サラの肩が微かに跳ねる。


「まるで、そうやって狂ったふりをしていないと、今にも泣き叫んで死んでしまいそうに見える。その異常な熱意も、その作り物の笑顔も……全部、自分を誤魔化すための鎧か何かか?」


図星を突かれたサラの脳裏に、再びあの冷たい雨と、断頭台の記憶がフラッシュバックする。


首筋を走る幻の痛み。

見下ろしてくる、ヴォルティスの氷のような青い瞳。


息が詰まりそうになるのを、サラは手のひらに爪が食い込むほど強く握りしめることで必死に耐えた。


ここで精神を崩壊させるわけにはいかない。

私はもう、彼に愛を求める惨めな女ではないのだから。


数秒の沈黙の後、サラはゆっくりと外套のフードを下ろした。

亜麻色の髪がこぼれ落ち、新緑の瞳が真っ直ぐにティアルを見据える。

その顔には、狂気的なまでの明るい微笑みが、隙間なく完璧に貼り付けられていた。


「ええ、その通りです。私の心臓は、とっくの昔に壊れきっています」


あっさりと肯定したサラに、ティアルはわずかに目を見開いた。


「私は、推し……私が崇拝するあの方の顔面と才能を保護し、愛でることでのみ、呼吸を続けることができるのです。あの方が舞台で最も美しく輝くためなら、私は自分のすべてを賭して完璧な裏方パトロンに徹します。私の狂気を形にするために、あなたのその異端の才能が必要なのです」


それは、悲鳴のような告白だった。

正気の世界では生きられないと悟った女が、自ら進んで狂気の底へ身を投じるための宣言。


ティアルは、薄暗い小屋の中で圧倒的な熱量と虚無感を同時に放つサラから、目が離せなくなった。


彼自身も、世間からは理解されず、狂人扱いされてきた人間だ。

自分の才能を注ぎ込む場所もなく、ただ泥の中で朽ちていくのを待つだけだった命。

しかし目の前の壊れた令嬢は、その圧倒的な資金力と狂気で、自分の才能を「必要だ」と断言したのだ。


「……はっ、なるほどな」


ティアルは乾いた笑いを漏らし、前髪を乱暴にかき上げた。

金色の瞳に、これまでにない鋭い光が宿る。


「あんたがどれだけ壊れていようが、俺には関係ない。だが、俺の作ったものを『至高の芸術』とやらで使いこなせる奴がいるってんなら、見てみたいもんだ。いいぜ、あんたのその狂った計画、俺が最高の技術で彩ってやるよ」


ティアルは小切手と設計図をひったくるように手に取った。

彼の中で、くすぶっていた天才の炎が爆発的に燃え上がるのを感じていた。


「お嬢様の心が壊れたままなら、俺がその破片を全部かき集めて、最高の額縁に入れてやりますよ。俺の魔導具で、あんたのその『推し』とやらを、誰も手出しできない最強のバケモノに仕立て上げてやる」


「……ありがとう、ティアル。あなたならそう言ってくれると信じていました」


サラの張り付いた笑顔が、ほんの少しだけ、人間らしい安堵の形に和らいだ。

互いに世間から弾き出され、欠落を抱えた二人が、泥に塗れたスラムの片隅で奇妙で強固な共犯関係を結んだ瞬間だった。


この日を境に、サラの莫大な個人資産とティアルの常軌を逸した技術力を掛け合わせた匿名組織『黒の百合』が、帝国の裏社会で産声を上げることになる。


すべては、帝国最強の公爵であり、サラの夫であるヴォルティスを、安全な距離から観賞し、保護するため。


彼が二度とサラを殺す理由を持たないよう、外敵をすべて排除し、彼を完璧な存在として祭り上げるための、狂気に満ちたパトロン活動の始まりだった。



その頃、公爵邸の執務室では、ヴォルティスが不可解な苛立ちを抱えながら書類にペンを走らせていた。


妻であるサラとの生活空間の分離は、初日に彼女が宣言した通り、完璧に実行されていた。

食事の席はおろか、すれ違うことすら皆無。

彼女は本当に、同じ屋敷の中にいるのかと疑うほどに、自分の視界から完全に姿を消したのだ。


「……合理的な判断だ。煩わしい手間が省けた」


ヴォルティスは独り言のように呟き、冷たい青の瞳を伏せた。


領地を守るための歯車である自分にとって、これ以上なく効率的な環境であるはずだ。

しかし、書類の文字を追うたびに、あの朝の、自分に対して一切の感情を向けてこなかった彼女の新緑の瞳が脳裏をよぎる。


その度に胸の奥底で、正体のわからない空洞が静かに、しかし確実に広がっていくのを、彼はまだ自覚することができずにいた。




剣戟の音が、石造りの訓練場に甲高く響き渡る。

硬質な響きの中に、微かな魔力の余波が青い火花となって散った。


帝国最強の武を誇る公爵、ヴォルティス・ザル・グラディウスは、手にした真新しい長剣の刀身を静かに見下ろした。

彼の息は全く乱れていないが、その青い瞳にはかつてない驚愕の色が浮かんでいた。


「……驚異的だな」


低い呟きが、静まり返った訓練場に落ちる。

彼の足元には、模擬戦の相手を務めた凄腕の騎士たちが、手も足も出ずに転がっていた。


ヴォルティスの身体能力は、その血脈に密かに流れる獣人の因子により、常人の枠を大きく逸脱している。

全力で剣を振るえば、いかに名工が鍛えた業物であろうと、数回の戦闘で刃がこぼれ、刀身が歪んでしまうのが常だった。

彼は常に武器の限界に合わせて、自身の力に無意識の枷をはめて戦わなければならなかったのだ。


だが、今日彼の元に匿名で届けられたこの漆黒の長剣は違った。

限界まで魔力を込め、膂力のすべてを乗せて叩きつけても、微塵の軋みすら生じない。


それどころか、剣の重心、柄の太さ、魔力伝導の効率に至るまで、まるで彼の筋肉の繊維一本一本の動きを計算し尽くしたかのように、恐ろしいほど完璧に馴染んだ。

自分でも無自覚だった踏み込みの癖すらも、この剣は完璧に補正してのける。


添えられていた手紙には、ただ一言、宛名もなく記されていた。


『至高の武に、ふさわしき供物を。──黒の百合』


黒の百合。

それが、最近突如として公爵家騎士団に莫大な資金と物資を援助し始めた、正体不明のパトロンの偽名だった。


ヴォルティスは剣の柄を強く握りしめた。

領地と民を守るための冷徹な歯車として、己の感情を殺し、孤独に戦い続けてきた。

周囲の者は彼を畏怖し、あるいは利用しようとするばかりで、彼という「個」の戦士としての本質を理解しようとする者など、ただの一人もいなかった。

しかし、この顔も知らぬ支援者は違う。


これほどまでに自分を深く観察し、理解し、最も求めていたものを無償で差し出してくる。

自分の存在を根底から肯定されたような、奇妙で熱い感情が、氷のように冷え切っていた彼の胸の奥で静かに産声を上げていた。



一方その頃、帝都の裏路地に隠された地下工房では、凄惨な徹夜明けの光景が広がっていた。


「……死ぬ。俺はもう、過労で死ぬ……」


床に大の字で倒れ込んだティアルは、虚ろな目で天井を見つめながら呪詛を吐いていた。

彼の顔は煤で汚れ、目の下には深い隈が刻まれている。


無理もない。

ヴォルティスに送られたあの漆黒の長剣は、北方の極寒の地でのみ採掘される希少鉱石を、ティアルの命を削るような魔力制御によって三日三晩不眠不休で叩き上げた狂気の産物だったのだから。


そんな死にかけの天才職人を跨ぐようにして、サラは上機嫌で報告書をめくっていた。

彼女の身なりは完璧に整えられているが、その白魚のような手には無数の小さな傷が絶えない。


「素晴らしいわ、ティアル!間者からの報告によれば、閣下はあの剣の性能を完璧に引き出してくださったそうよ!ああ、あの美しいお顔で、一切の枷なく剣を振るうお姿……想像しただけで寿命が延びるわ!」


「あんたの寿命が延びる代わりに、俺の寿命がゴリゴリ削られてるんだが……」


「経費はすべて実家の裏帳簿から引き出してきたわ。最高級の回復薬も用意してあるから、飲んだら次の防具の設計に入ってちょうだい。彼の足の可動域を一切邪魔しない、神の羽衣のような軽さの鎧が必要なの」


容赦のないサラの言葉に、ティアルは重いため息をつきながら上半身を起こした。


「……あんた、本当に狂ってるよ。あんなバケモノみたいな剣、普通の人間が振るえば一瞬で魔力を持っていかれて廃人だ。あいつのスペックを前提にするなんて、正気の沙汰じゃない」


ティアルの呆れたような視線を受けながら、サラは報告書を胸に抱きしめ、うっとりと目を閉じた。


彼女の心臓は、この異常なまでの忙しさと推しへの貢ぎ物を用意している間だけ、過去の恐怖から逃れることができた。

何もせずにいれば、冷たい雨の匂いや、首を落とされる瞬間の絶望がフラッシュバックし、呼吸ができなくなる。


夫を世界で一番安全で、完璧で、最強の存在に祭り上げること。

それが、彼に殺された記憶を持つサラにとって、唯一精神の崩壊を防ぐための鎮痛剤だった。


彼が誰よりも強ければ、政敵に足元を掬われることもなく、前世のように領地が危機に陥ることもない。

ひいては、妻である自分が濡れ衣を着せられて処刑されるというバッドエンドのフラグを、根こそぎへし折ることができるのだ。

狂信的な推し活は、彼女自身の命を繋ぐための血の滲むようなサバイバルでもあった。


「正気の世界になんて、とうの昔に用はないのよ。彼が至高の存在として君臨し続けるためなら、私はどんな泥でもすするし、いくらでも血を流すわ」


サラは微笑みながら、しかし瞳の奥に一切の光を宿さずに言った。


その凄絶なまでの覚悟と虚無の混ざり合った表情を見るたび、ティアルは背筋に冷たいものが走るのを感じていた。


彼女の心は、あの美しい公爵の手によってすでに殺されている。

その死体が、狂気という糸で無理やり動かされているだけなのだと、ティアルだけは正確に理解していた。


「……わかったよ。お嬢様の推し活とやらが極まるまで、とことん付き合ってやる。その代わり、俺の魔導具の実験台にもなってもらうからな」


「ええ、喜んで」


二人のいびつな共犯関係は、泥と血に塗れながらも、確かな絆として深まっていた。



その日の夜。

ヴォルティスは執務室のデスクで、黒の百合から送られてきた手紙の筆跡を食い入るように見つめていた。


情報網を駆使しても、資金の出処も、誰が工房を動かしているのかも、一切の尻尾が掴めない。

これほどまでの力を持つ組織が、見返りも求めず、ただ純粋に自分という存在を肯定し、支えてくれている。


彼は手紙の端にそっと指を這わせた。

顔も知らない相手に対する、奇妙な執着と熱が、冷たかった彼の心に確かに根を下ろし始めていた。


ふと、時計の針が深夜を回っていることに気づく。

ヴォルティスは立ち上がり、寝室へと向かうために廊下に出た。


足音だけが響く広大な屋敷。

自身の寝室へ向かう途中、彼は妻であるサラが与えられている別棟の入り口を通りかかった。


別棟は真っ暗で、人の気配すらない。

結婚初夜の翌朝、彼女から完全な別居を提案されて以来、ヴォルティスは本当に一度も妻の顔を見ていなかった。

領地経営においてはこれ以上なく合理的で、煩わしさのない完璧な環境であるはずだった。


「……」


ヴォルティスは暗い別棟の扉の前で、無意識のうちに足を止めていた。


自分を深く理解し、熱烈に支えてくれる顔の見えないパトロンの存在。

それとは対照的に、自分と同じ屋敷に住みながら、一切の関心を示さず、完全に存在を消している妻。


その極端なコントラストが、ヴォルティスの心に説明のつかない苛立ちと、微かな空虚感を生み出していた。


妻の顔を見たいわけではない。

ただ、自分に対して一切の感情を向けなかったあの新緑の瞳が、なぜか脳裏にこびりついて離れないのだ。



やがてヴォルティスは短く息を吐き、再び自身の寝室へと歩き出した。


自分が今、執着し始めている「黒の百合」の正体が、自分に一切の関心を持たない妻その人であるなどという残酷な喜劇に、彼が気づくのは、まだ少し先のことである。




帝都の片隅、没落寸前のアメトリン男爵邸の奥深く。


カビと薬草の入り混じった湿っぽい部屋で、エルナ・フィン・アメトリンは震える両手で顔を覆っていた。

ベッドから聞こえてくる幼い弟のひゅるひゅるとした苦しげな呼吸音が、彼女の心を容赦なく削っていく。


「お姉……さま……ごめんな、さい。僕の、薬代ばかり……」


「謝らないで。あなたは何も悪くないのよ」


エルナは掠れた声で答え、弟の熱い額に冷たいタオルを乗せた。


弟を蝕む奇病を治すには、莫大な魔力を持った高位の治癒魔導具か、帝国の国庫に眠るような霊薬が必要だった。

借金まみれの男爵家には到底手が届かない代物だ。


それを手に入れるための唯一の希望は、莫大な財力と権力を持つヴォルティス・ザル・グラディウス公爵の庇護を得ること。


しかし、彼にはすでにサラという正妻がいる。

エルナは過去数ヶ月間、ヴォルティスに接触しようと試みたが、彼は氷のように冷たく、取り付く島もなかった。

だから、正妻であるサラを失脚させ、公爵家の内情に入り込む隙を作るしかない。


今日の午後、公爵邸で開かれる小規模な茶会。そこでサラが他国の間者と通じているという偽の証拠を忍ばせ、公爵の目に触れさせる手筈が整っていた。


それは、無実の令嬢を社会的な死、あるいは本当の死へと追いやる極めて卑劣な行為だ。

エルナの良心は激しく痛み、夜な夜な吐き気に襲われていた。

温室育ちで、ただ夫の愛を求めているだけの無害なサラを陥れるなど、人間のすることではないとわかっている。

それでも。


「私が地獄に落ちてもいい。この子だけは、あの冷たい土の下にはやらない……!」


エルナは血の滲むような声で呟き、自らの魂を悪魔に売り渡す覚悟を決めた。



同じ頃、帝都の地下工房。

サラは鼻歌を歌いながら、ティアルが組み上げたばかりの淡い光を放つペンダント型の魔導具を見つめていた。


「完璧よ、ティアル!これほどの高純度な治癒魔導具、教会の最高司祭ですら作れないわ」


「当たり前だ。俺の最高傑作の一つだからな。……で、これをどうするんだ?まさかあの公爵に貢ぐわけじゃないだろ」


徹夜明けで死にそうな顔をしたティアルが、コーヒーの入ったマグカップを傾けながら問う。

サラは首を横に振った。


「ええ。これは、今日の茶会にやってくるエルナ・フィン・アメトリン男爵令嬢の弟君に贈るものよ」


サラの脳裏には、前世の記憶が鮮明に焼き付いていた。

エルナの巧妙な罠によって濡れ衣を着せられ、ヴォルティスに処刑されたあの日のことを。


本来ならば、自分を殺した元凶であるエルナを激しく憎み、今世では彼女を破滅させようと考えるのが普通だろう。

しかし、心が壊れきったサラの思考回路は、全く別の次元にあった。


エルナが推しに接触しようとすることは、推しのブランドに傷をつけるスキャンダルだ。

それに、彼女が罪を犯せば、領地を治める推しに『裁きを下す』という無駄な実務と心労をかけてしまう。


推しの尊い時間を、あんな泥沼の愛憎劇で消費させるわけにはいかない。

推しの視界は常に清らかで、美しいもので満たされていなければならないのだ。


それに、エルナの事情は前世で死ぬ間際に知っていた。

弟を救いたいという狂気は、推しを保護したいという自分の狂気と、どこか似ている。

原因である弟の病さえ完治させてしまえば、エルナは二度と推しの視界に現れることはない。

完璧なアンチ対策であり、物理的な厄介払いであった。


「お嬢様は、本当に狂ってるよ。自分を殺そうとしてる奴を助けるなんて、聖女ぶるにも程がある」


ティアルは呆れたように肩をすくめたが、その金色の瞳はサラの抱える深い虚無を正確に見透かしていた。


サラにとって、他人の命も自分の命も、そして復讐すらも、どうでもいいのだ。

すべてはあの公爵を完璧な状態で観賞するため。

その異常な執着だけが、彼女を動かしている。



午後。公爵邸の別室。

茶会が始まる直前、エルナは侍女に呼び出され、人気のない応接室に通された。


そこに待っていたのは、他でもないサラ・オブシディアンその人だった。

エルナは心臓が跳ね上がるのを必死に抑え、完璧な令嬢の笑みを浮かべた。


「奥様、このような場所でいかがなさいましたか?」


「単刀直入に言いますわ、エルナ様。あなた、今日の茶会で私の手荷物に偽の書簡を忍ばせるおつもりね」


エルナの顔から、一瞬で血の気が引いた。

なぜ、知っている。

誰にも言わず、自分一人で完璧に準備したはずの計画だった。


震えそうになる膝を必死に堪え、エルナはシラを切ろうと口を開きかけた。

しかし、サラがテーブルの上にことりと置いたものを見て、その言葉は完全に凍りついた。


淡い光を放つ、美しいペンダント。

一目見ただけで、それが途方もない魔力を秘めた極上の治癒魔導具であることが、貴族であるエルナには理解できた。


「これは……?」


「あなたの弟君の病を、完全に癒すことができる魔導具です。使い方は手紙に記してあります」


サラの声には、怒りも、憎しみも、そして同情すらもなかった。

ただ淡々と、事務手続きを進めるかのような冷たさがあった。


エルナは呆然とサラを見つめた。

自分の罪を暴き、断罪するのではなく、最も欲しかったものを無償で差し出されている。

その事実が、エルナの理解を超えていた。


「なぜ……私があなたを陥れようとしていたと知っていて、どうしてこんな……っ」


「理由なんてありませんわ。強いて言うなら、これ以上、公爵様のお手を煩わせたくないからです。公爵様の尊いお時間は、あなたのような方の個人的な悲劇で消費されるべきではありませんから」


サラは新緑の瞳でエルナを真っ直ぐに見据えた。


その瞳の奥にある絶対的な拒絶と、人間的な感情の欠落に、エルナは背筋が凍るような畏怖を覚えた。

目の前にいるのは、温室育ちの無知な令嬢などではない。

底なしの虚無を抱え、ただ一つの目的のためだけに動く、美しい化け物だ。


そして同時に、エルナの心に激しい自己嫌悪と後悔が押し寄せた。

自分は、こんなにも恐ろしく、そして慈悲深い相手を罠にかけようとしていたのか。

弟を救うためとはいえ、罪のない彼女を破滅させようとした自分の浅ましさが、どうしようもなく醜く感じられた。


「ああ……っ」


エルナはその場に泣き崩れた。

張り詰めていた糸が切れ、両手で顔を覆って号泣する。


「ごめんなさい……っ、ごめんなさい!私が欲しかったのは、公爵様の愛じゃない。ただ、あの冷たい部屋から弟を救い出したかっただけなの……!私は、悪魔に魂を売ろうとしていた……っ!」


床に額を擦り付けんばかりにして泣きじゃくるエルナを見下ろし、サラは微かに首を傾げた。


前世で自分を殺した女が、今、目の前でボロボロになって懺悔している。

本来ならば、ここで最高のカタルシスを得るはずだった。

しかし、サラの心は一切の痛痒を感じなかった。

ただ、厄介なスキャンダルの種が一つ確実に摘み取られたことに、事務的な安堵を覚えるだけだ。


「弟君の回復を祈っておりますわ。……もう二度と、公爵様の御前に姿を見せないでくださいね」


サラはそれだけ言い残し、冷たく踵を返した。

背後から聞こえるエルナのむせび泣きは、推しを保護するための完璧な防音壁によって、サラの心には全く届かなかった。



数日後、エルナ・フィン・アメトリンが社交界から一切の姿を消し、領地に引きこもったという噂が流れた。

奇跡的に病が完治した弟の看病に専念するためだという。


その不自然なほど静かな幕引きの裏にある報告書を、ヴォルティスは執務室で静かに見つめていた。


アメトリン男爵令嬢が、何らかの陰謀を企てていた痕跡がある。

しかし、それが実行に移される前に、何者かの手によって完璧に処理され、彼女自身も救済を与えられて舞台から降りた。


「……また、黒の百合か」


ヴォルティスの低い呟きが、静まり返った執務室に溶けた。

自分の周囲の不穏な空気を、ことごとく裏から排除し、完璧な環境を整え続ける見えざる支援者。


武具の提供だけではない。

政治的な障害すらも、彼が気づく前に排除されている。

これほどの手腕と財力、そして自分に対する執着を持つ存在が、帝都にいるはずがない。


ヴォルティスは立ち上がり、窓の外を見つめた。

彼の心の中に芽生えた「黒の百合」への興味は、すでに単なる好奇心を超え、強烈な探求心へと変貌しつつあった。


そして、その正体を暴くための包囲網は、確実に、そして静かに、妻であるサラの周辺へと狭まり始めていた。


獣の血が、見えない獲物の匂いを微かに感じ取っていたのだ。




深夜の公爵邸、執務室。

魔力灯の青白い光が、重厚なマホガニーのデスクの上に散乱する膨大な書類を照らし出していた。


万象を断つ静寂の刃と恐れられる男、ヴォルティス・ザル・グラディウスは、その中央に置かれた一枚の羊皮紙を、瞬きすら忘れたかのように見つめ続けていた。


彼の端正な顔立ちから、いつもの氷のような冷徹さは完全に消え失せている。

代わりに張り付いているのは、理解を超えた事象に直面した際の、深い驚愕と混乱だった。


「……これが、真実だとでも言うのか」


低く掠れた声が、静まり返った部屋に落ちる。

彼の視線の先にあるのは、公爵家直属の諜報部隊が数ヶ月をかけて調べ上げた、「黒の百合」に関する最終報告書だった。


エルナ・フィン・アメトリン男爵令嬢が失脚未遂に終わった一件。

彼女の弟の不治の病を完治させたという、規格外の治癒魔導具。

そして、ヴォルティス自身に贈られ、彼の膂力と魔力を完璧に引き出したあの漆黒の長剣。


それらに微かに残存していた魔力紋を帝国随一の鑑定士に解析させた結果、すべての製作者が同一人物であることが判明した。


帝都のスラム街に身を潜めていた異端の天才職人、ティアル・ルク。

そして、その天才職人を莫大な資金力で囲い込み、素材を与え、公爵家への支援を指示していた「黒の百合」の正体。


報告書の末尾には、信じがたい名前がはっきりと記されていた。



サラ・オブシディアン。


他でもない、ヴォルティスが自ら娶り、そして初夜の翌朝から完全に放置している妻の名前だった。


「あり得ない……」


ヴォルティスは無意識のうちに報告書を強く握りしめ、紙が嫌な音を立てて歪んだ。

彼の合理的な思考回路が、激しい警鐘を鳴らして事実を否定しようとする。


あの朝、自分に対して一切の感情を向けなかった彼女。

夫である自分に近づくことすらおこがましいと笑い、生活空間の完全な分離を提案してきた女だ。


結婚してから今日に至るまで、一度たりとも顔を合わせておらず、言葉を交わすこともなかった。

彼女の瞳には、ヴォルティスという一人の男に対する愛情も、関心も、執着も、一片たりとも存在していなかったはずだ。


だが、報告書に記された資金の流れは、紛れもなく彼女の実家であるルクセリア商会の裏帳簿と完全に一致している。

彼女は自身の個人資産を限界まで切り崩し、ティアルという職人を酷使して、ヴォルティスの武力と政治的基盤を盤石にするためだけに、血を吐くような奔走を続けていたのだ。


なぜだ。


ヴォルティスの胸の奥底で、重く冷たい塊が急速に熱を持ち始めていた。

自分をあそこまで徹底的に避けながら、なぜ、裏でこれほどの無償の献身を捧げるのか。


彼を政敵の罠から守り、彼が戦場で一切の枷なく剣を振るえるように、己の身を削ってまで環境を整え続ける。

それは、損得勘定や政略といった言葉では到底説明のつかない、狂気的なまでの執着と、深すぎる「愛」の証明ではないのか。


「俺は……彼女を、何も見ていなかった……?」


震える手で顔を覆う。


静寂の刃として感情を殺し、領地と民を守るための歯車として生きてきた。

女の感情などという不確定要素は、自分の人生には不要だと切り捨てていた。

妻が自分を避けるなら、それはそれで合理的だと納得し、彼女の心の奥底にあるものを見ようとすらしていなかったのだ。


だが、現実はどうだ。

彼女は誰よりも自分を理解し、自分のためにすべてを投げ打って、見返りも求めずに暗闇の中から手を差し伸べ続けていた。

表向きは無関心を装いながら、裏では自分という存在を完全に肯定し、守り抜こうとする彼女の壮絶な覚悟。


その矛盾した、しかしあまりにも深く重い想いに触れた瞬間。



──ドクンッ



ヴォルティスの心臓が、これまで経験したことのない異様な脈打ちを始めた。

全身の血が逆流するような感覚。

視界の端が赤く染まり、理性という名の分厚い氷が、内側から発せられる圧倒的な熱量によって音を立ててひび割れていく。


公爵家の血脈に古くから受け継がれ、そしてヴォルティス自身が最も恐れ、深い底に封じ込めてきたもの。


獣人の因子が、ついに覚醒の産声を上げたのだ。


獣人は一生に一度だけ、魂のレベルで惹かれ合う「運命の番」を見つけ出す。

番に出会った獣人は、相手に対する強烈な執着と所有欲に支配され、それを失うことは精神的な死を意味する。


ヴォルティスはこれまで、自分が何かに執着し、理性を失うことを極度に恐れていた。

だからこそ感情を殺し、万象を断つ静寂の刃として己を律してきたのだ。


しかし、無償の献身という形で妻の魂の美しさに触れてしまった今、強固だったはずの理性はあっけなく崩壊した。


「サラ……」


掠れた声で、初めて妻の名を呼ぶ。

その響きだけで、脳髄が痺れるほどの甘い快感が全身を駆け巡った。


欲しい。

彼女が欲しい。

誰よりも自分を愛し、裏で自分を守り続けてくれたあの女を、今すぐこの腕の中に閉じ込めたい。

彼女のすべてを暴き、自分だけのものにしたい。

他の誰にも触れさせず、その視線も、微笑みも、流す血の一滴に至るまで、すべてを自分が支配し、永遠に囲い込みたい。


それは、人間としての愛を遥かに超越した、獣の本能がもたらす暴力的なまでの所有欲だった。


「ああっ……!」


ヴォルティスは喉の奥から獣のようなうなり声を漏らし、デスクに手をついた。

息が荒くなり、青かった瞳には、獲物を狙う捕食者のような赤黒い光が混じり始めている。

領地のためでも、民のためでもない。

ただ一人の女を求めるという、極めて個人的で利己的な狂気が、彼の全身を支配していく。


あの朝、自分に向けて完璧なカーテシーをして見せた彼女の姿が脳裏に蘇る。

自分を神聖な不可侵の領域だと語り、遠くから見守るだけでいいと言い切ったあの笑顔。


違う。

遠くから見守るなど、絶対に許さない。

俺のそばにいろ。俺の腕の中で、俺の熱を感じて、俺だけを見て生きろ。

お前が俺のためにすべてを捧げるというのなら、俺もお前のすべてを喰らい尽くしてやる。


ガシャン、と大きな音を立てて、ヴォルティスは椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。


もはや、執務室に残された書類の山など、彼の視界には入っていなかった。

帝国最強の公爵としての矜持も、静寂の刃としての理性も、すべてが獣の業火に焼き尽くされた。

今、彼を突き動かしているのは、運命の番を求めて泣き叫ぶ、魂の渇望だけだった。


「サラ……待っていろ。今すぐ、お前を迎えに行く……!」


重厚な執務室の扉が乱暴に開け放たれる。

深夜の冷たい廊下に、ヴォルティスの荒々しい足音が響き渡った。

向かう先は、結婚初夜の翌日から彼自身が一度も足を踏み入れなかった、別棟にある妻の寝室。


彼の中で暴れ狂う本能は、これから待ち受ける残酷な真実──彼女の心に、自分への「愛」など微塵も存在しないという絶望的なすれ違い──に気づく由もなく、ただ盲目に運命の番を求めて突き進んでいく。


静寂は、完全に壊れた。


狂気的な推し活で自らの心を守ろうとする女と、本能のままに女を貪ろうとする獣。

決して交わることのない二つの狂気が、今、正面から衝突しようとしていた。




深夜の公爵邸。

別棟の自室で、サラは分厚い羊皮紙の束に向かっていた。


ティアルから上がってきた新しい魔導具の設計図と、実家の商会から引き出した裏帳簿の照合。

推しであるヴォルティスを安全圏から完璧に保護するための、極めて重要で幸福なパトロン業務である。


羽ペンを走らせるサラの口元には、穏やかで狂気的な笑みが浮かんでいた。

今日も推しが美しく、そして最強であったという間者の報告を思い出すだけで、寿命が延びる思いだ。

このまま平穏に、そして誰にも邪魔されることなく、遠くから至高の芸術を観賞し続ける日々が永遠に続くのだと信じて疑わなかった。



突然、重厚な扉が乱暴な音を立てて開け放たれた。


ビクッと肩を揺らし、サラは顔を上げた。

そこに立っていたのは、深夜であるにも関わらず、軍装の胸元を大きくはだけさせたヴォルティスの姿だった。


息は荒く、広い肩が上下に大きく揺れている。

しかし、サラを最も硬直させたのは、彼のその瞳だった。

いつも氷のように冷たく、一切の感情を排していたはずの青い瞳。

それが今は、どろどろに溶けた熱を帯び、獲物を狙う獣のような赤黒い光を放ってサラを射抜いていた。



彼は無言のまま、ゆっくりと、しかし逃げ道を塞ぐような確実な足取りで部屋の中へと足を踏み入れる。


「サラ……」


地を這うような、低く掠れた声。

その響きに、サラの心臓が早鐘のように打ち始めた。


ヴォルティスの中で、獣人の血が完全に目覚めていた。

目の前にいる、自分を裏から誰よりも支え続けてくれた運命の番。

彼女の微かな匂いを嗅いだだけで、脳髄が痺れ、理性が蒸発していく。


今までどうして、この狂おしいほどの愛しさに気づかなかったのか。

彼女が自分を避けていたのは、献身を知られることを恥じらう、いじらしい乙女心だったに違いない。


そう都合よく解釈したヴォルティスの心には、ただ彼女を抱きしめ、己のすべてを与え尽くしたいという強烈な所有欲だけが渦巻いていた。


「俺が愚かだった。お前が俺のためにどれほど……いや、もういい。ただ、俺のそばにいてくれ。お前のすべてが愛おしい」


ヴォルティスが手を伸ばし、サラの頬に触れようとする。

その瞬間。


サラの脳裏に、冷たい雨の匂いと、断頭台の記憶が鮮烈にフラッシュバックした。


彼が近づいてくる。

あの氷の瞳で私をゴミのように見下ろし、冷酷に処刑を命じた男が。

私の心をズタズタに切り裂き、命を奪った死神が、今まさに私に手を伸ばしている。


首筋に幻の激痛が走り、死の恐怖で喉が引きつる。

ヒュー、ヒューと喉が鳴り、肺から酸素が急速に奪われていく。

恐怖で発狂しそうになったその時、サラの精神を繋ぎ止めるための強固な防衛本能が、瞬時にその危機的状況を別の概念へと強制変換した。


違う。これは命の危機ではない。

推しからの、確定ファンサだ。


私が裏でパトロン活動を頑張りすぎたせいで、VIP待遇の特別ファンサービスが発生してしまったのだ。

三次元の推しが至近距離で甘い言葉を囁き、直接触れようとしてくるなど、限界オタクにとっては致死量の刺激に他ならない。

心臓が止まる。


いや、それ以上に、私のようなモブが推しの視界に入り、ましてや接触するなど、物理的にスキャンダルになって推しのブランドに致命的な傷がついてしまう。

推しの価値を下げる行為だけは、絶対に許されない。


サラは血の気を引かせた顔に、全力で狂気的な笑顔を貼り付けた。

そして、ヴォルティスの指先が頬に触れる寸前で、弾かれたように後ずさった。


「推し……いえ、閣下!確定ファンサなど心臓が止まるのでやめてください!」


「……ふぁん、さ?」


ヴォルティスは空を切った己の手を見つめ、間の抜けた声を漏らした。

彼にはサラの言葉の意味が全く理解できない。

ただ、妻が照れてパニックを起こしているのだと、獣の欲求に呑まれた脳で必死に処理しようとした。


「照れることはない、サラ。俺は本当のお前を知った。だから、もう逃げなくていい。俺はお前を……」


「スキャンダルになります!」


サラは悲鳴のような声で、ヴォルティスの言葉を遮った。


「私のようなどこの馬の骨とも知れないモブが、閣下のような国宝級の御方と半径二メートル以内に近づくなど、万死に値する大罪です!どうかご自身の価値を下げないでください!」


「何を言っている。お前は俺の妻だ。誰よりも俺を……」


「近寄らないでくださいませ!!」


早口でまくしたてると、サラはドレスの裾を強く握りしめ、窓枠に足をかけた。


このままでは死ぬ。物理的にも、精神的にも。

恐怖と狂気が入り混じった極限状態の中、サラは帝国最強の武人である夫を置き去りにして、夜の闇へと全力で逃走を図った。


窓から飛び降り、ドレスを泥で汚すことも構わず、暗い庭園を必死に走る。


「なっ……待て、サラ!」


ヴォルティスは慌てて窓から飛び降り、夜の庭園へと逃げ込んだ妻の後を追った。

獣人の身体能力をもってすれば、かよわい令嬢一人を捕まえるなど容易いことだ。


数歩で追いつき、その華奢な肩を掴もうと手を伸ばす。

今度こそ逃がさない。この腕の中に閉じ込め、二度と離さない。


しかし、その手がサラに届く直前。


──バチバチッ


二人の間に、青白い火花を散らす冷たい魔力の障壁が展開された。


「……そこまでにしておきな、公爵サマ」


闇の中から現れたのは、銀色の髪を揺らすティアルだった。

彼は普段の気怠げな態度を完全に捨て去り、両手に危険な光を放つ試作型の高火力魔導具を構えていた。


その金色の瞳は、ヴォルティスを氷のように冷たく、そして明確な殺意を持って見据えている。

深夜の密会を兼ねた武器の納品に訪れていた彼は、サラの異常事態を察知して飛び出してきたのだ。


「貴様……なぜこの屋敷にいる。そこをどけ、俺は妻と話がしたいだけだ」


ヴォルティスは低い声で威嚇し、獣の殺気を放った。

常人であればその気当てだけで気絶するほどの圧だったが、ティアルは鼻で笑って一歩も退かなかった。


彼の背後で、サラは恐怖と混乱でガタガタと震えながら、必死に推しが尊いという作り笑いを浮かべて己の心を守ろうとしている。

その痛々しく壊れた主の姿を見たティアルの目に、暗い炎が宿った。


「話だと?笑わせるな。あんたのその吐き気がする愛情ごっこは、あの方を殺す猛毒なんだよ」


「猛毒だと……?」


「そうだ。あんたは何もわかっちゃいない。あの方がどれほどギリギリのところで呼吸をしているか。……これ以上あの方に近づくなら、帝国の半分を吹き飛ばしてでも、あんたをここで灰にする」


ティアルの言葉は、決してハッタリではなかった。

その手にある魔導具のコアが、限界を超えて明滅している。


ヴォルティスは足を止め、目の前の異端の魔導技師と、その後ろで狂ったように震えて笑う妻を交互に見つめた。


なぜ、彼女はあそこまで怯えているのか。

なぜ、自分に向けられる瞳に、愛どころか、理解不能な狂気と絶対的な拒絶しかないのか。


照れ隠しなどという生易しいものではない。

彼女の魂は、ヴォルティスが触れることを何よりも恐れ、全力で拒絶している。


熱に浮かされていたヴォルティスの心に、初めて冷たい絶望の雫が落ちた瞬間だった。




深夜の冷たい空気が張り詰める庭園で、帝国最強の公爵とスラム出身の異端の魔導技師が対峙していた。


バチバチと青白い火花を散らす魔力障壁の向こう側で、ティアルは両手に構えた試作型の高火力魔導具の狙いを、寸分たがわずヴォルティスの眉間に定めている。


その背後では、泥だらけになったドレスの裾を握りしめ、サラがガタガタと小刻みに震えていた。

彼女の顔には、先程までの恐怖を引きつらせながらも、無理やり作り上げたような狂気的な笑顔がへばりついている。


「推しの……閣下の尊いお時間を、私のような者が奪ってしまって……ああっ、スキャンダルになってしまう……!」


焦点の合わない瞳で虚空を見つめ、うわ言のように繰り返すサラ。

その痛ましく壊れた姿を背に庇いながら、ティアルは憎悪に満ちた金色の瞳でヴォルティスを睨みつけた。


「……あの方がどれほどギリギリのところで呼吸をしているか。これ以上あの方に近づくなら、帝国の半分を吹き飛ばしてでも、あんたをここで灰にする」


ティアルの吐き捨てるような言葉が、夜風に乗ってヴォルティスの耳に届く。


ヴォルティスの血脈で暴れ狂う獣人の本能は、「番を取り戻せ」「邪魔者を排除しろ」と狂おしく咆哮していた。


彼の武力をもってすれば、ティアルの魔力障壁ごと薙ぎ払い、強引にサラを奪い返すことなど造作もないことだ。

しかし、ヴォルティスの足は泥に縫い止められたように微動だにしなかった。


なぜだ。

なぜ、彼女はあそこまで怯えきっているのか。

自分を裏から誰よりも支え、己のすべてを捧げてくれていたのではないのか。


照れ隠しなどという生易しいものではない。彼女の魂そのものが、ヴォルティスが近づくことを強烈に拒絶し、悲鳴を上げている。


ヴォルティスが呆然と立ち尽くす中、ティアルは障壁を維持したままサラの腕を強く引き、深い闇の中へと姿を消していった。


追うことはできた。しかし、どうしても追えなかった。

ティアルの言った「あんたの愛情ごっこは、あの方を殺す猛毒なんだよ」という言葉が、呪いのようにヴォルティスの脳内にこびりついて離れなかったのだ。



気がつけば、ヴォルティスは屋敷の別棟にあるサラの私室の前に立っていた。

彼女が逃げ込んだ先ではない。彼女が結婚初夜の翌朝から、たった一人で生活している空間だ。


「閣下のプライベートな空間は絶対不可侵の聖域」と彼女が笑顔で語り、生活空間を完全に分けて以来、彼が一度も足を踏み入れたことのない場所。


ヴォルティスは震える手をドアノブにかけ、重い扉をゆっくりと押し開けた。

魔力灯を点した瞬間、そこに広がっていた異様な光景に、ヴォルティスは言葉を失った。


「これは……なんだ」


ヴォルティスは息を呑み、ふらつく足取りで部屋の中へと足を踏み入れた。

広いはずの公爵夫人の寝室は、無数の書類、壁一面に張り巡らされた地図、そして複雑な魔導具の設計図で完全に埋め尽くされていた。


美しいドレスや宝石箱が置かれるはずの化粧台には、分厚い裏帳簿と、他国の間者や貴族たちの動向を記した報告書が山のように積み上げられている。


それは乙女の私室などではなく、まるで狂気に憑りつかれた軍師の作戦司令室、あるいは己のすべてを捧げる対象を祀り上げた異端の祭壇だった。

部屋の至る所に、ヴォルティスに関する情報が溢れ返っている。


ヴォルティスはデスクに近づき、無造作に広げられた羊皮紙の束に目を落とした。


そこには、ヴォルティスに関するありとあらゆるデータが、緻密な文字でびっしりと書き込まれていた。


剣を振るう際の筋肉の微細な可動域、魔力消費の効率化の計算式、政敵が企てる陰謀の予測、そして彼を陥れようとする者たちへの徹底的な物理的・社会的排除のシミュレーション。


自分がどれほど彼女の知略と血の滲むような努力によって守られ、生かされていたのかを容赦なく突きつけられる。

これほどまでに己を削り、自分という存在を肯定し、守り抜こうとする執念。


やはり、彼女は俺を深く愛しているのだ。

そうでなければ、ここまで狂気的な献身ができるはずがない。


そう信じようと、ヴォルティスはすがるような思いで、デスクの引き出しにあった彼女の手記に手を伸ばした。

震える指で表紙をめくり、そこに綴られた彼女の「心の内」を探ろうとする。


しかし、数ページをめくった瞬間、ヴォルティスの顔から完全に血の気が引き、手記が指先から滑り落ちて床に乾いた音を立てた。


そこには、一人の男に向けるような愛や温もりは、一切存在していなかった。



『本日の推し(対象:閣下)の作画も最高品質であった。遠目からの観賞にとどめ、存在を脳裏に焼き付けること』


『対象の戦闘スキルは国家の至宝であり、至高の芸術。絶対に傷をつけさせてはならない。パトロンとして完璧に保護し、障害はすべて私が排除する』


『注意:対象から半径二メートル以内に近づかないこと。生存本能が強烈な警鐘を鳴らすため、絶対に距離を保つこと』


『決して、一人の人間の男として見てはならない。あれは神が創り出した観賞用の芸術作品である。人間性に期待すれば、私は今度こそ完全に壊れて死ぬ』



綴られている言葉は、どこまでも冷徹で、対象を分析し、保護し、消費するための機械的な執念だけだった。


「愛している」「触れたい」「私を見てほしい」といった、妻が夫に抱くべき熱を帯びた感情の痕跡が、文字の端々から完全に、恐ろしいほど完璧に欠落しているのだ。


それはまるで、恐ろしい猛獣を檻の外から安全に観察し、餌を与えて管理している飼育員の手記のようだった。


いや、それ以上に歪で、徹底的な「拒絶」の記録だ。

彼女はヴォルティスを「人間」として扱うことを、自らの意志で、強烈な恐怖とともに禁じているのだ。


己の精神を守るための防壁として、彼を感情のない「偶像」に強制的に変換している。


「なぜ……どうしてだ、サラ……」


ヴォルティスは崩れ落ちるように床に膝をつき、散らばった書類を両手でかき集めた。

彼女の狂気的なまでの推し活の裏にある、深すぎる虚無と絶望。

あの張り付いたような明るい笑顔の裏で、彼女の心臓はとうの昔に止まっていたのだ。


ティアルの放った言葉が、再び脳内で残酷にリフレインする。


『あんたのその吐き気がする愛情ごっこは、あの方を殺す猛毒なんだよ』


ヴォルティスはようやく、その言葉の本当の意味を理解した。

彼女の心が壊れたのは、他でもない、自分自身のせいなのだと。


結婚初夜の冷たい態度、あるいはそれ以前からの無関心が、彼女から「愛されることへの希望」を完全に奪い去り、精神の死をもたらしたのだ。


俺が、彼女を壊した。

俺の冷酷さが、世界で最も自分を深く理解してくれていたはずの女の心を、ズタズタに切り裂いて殺したのだ。


獣人の血が「運命の番」を求めて狂おしく泣き叫んでいる。

彼女のすべてを手に入れ、抱きしめ、愛し、愛されたいと魂が血を流して渇望している。


しかし、自分が求めているその「番の心」は、自分の手によってすでに惨殺されていた。

いくら彼が愛を叫び、熱情をぶつけたところで、彼女にとってそれは「死の恐怖」を呼び起こす猛毒でしかない。


自分が近づけば近づくほど、愛を伝えようとすればするほど、彼女は壊れていく。

愛しているのに、触れてはいけない。


運命の番なのに、永遠に心を通い合わせることはできない。


「ああ……っ、あぁぁぁぁっ……!!」


静寂の刃と呼ばれ、氷のように冷酷だった男の喉から、獣の悲痛な慟哭が深夜の屋敷に響き渡った。


それは、自身の過ちによって永遠に取り返しのつかないものを失ったことに気づいた、絶対的な絶望の叫びだった。


ヴォルティスは床に額を擦り付け、彼女の冷たい文字が並ぶ羊皮紙を掻き抱いて、子供のように声を上げて泣き崩れた。

彼がこれまで築き上げてきた誇りも、武人としての理性も、すべてが音を立てて崩れ去っていく。


狂気の箱庭に逃げ込んだ妻と、己の過ちに気づき絶望の底なし沼に突き落とされた夫。


運命の番という呪縛に囚われた二人のすれ違いは、もはや引き返すことのできない、致命的で残酷な領域へと足を踏み入れていた。




冷たい夜風が吹きすさぶ中、帝都の裏路地を走る馬車の中で、サラは小さく身を縮めていた。

向かいの席では、魔力切れを起こして荒い息を吐くティアルが、鋭い視線で窓の外を警戒している。

公爵邸から逃げ出し、ティアルの隠れ家に向かう道中だった。


サラの耳には、まだあの時のヴォルティスの低く掠れた声がこびりついている。

彼が手を伸ばしてきた瞬間の、首筋が粟立つような恐怖。


どうして、推しが私に接触しようとしたの。


サラは震える両手を強く組み合わせ、必死に思考を正常な位置──狂気という名の安全圏──へと戻そうとしていた。


あれは、私が裏で資金を注ぎ込みすぎた結果、予期せぬVIPイベントが発生してしまっただけだ。

推しは私というモブを認識したわけではない。パトロンへの義務的なファンサービスだ。

そう思い込まなければ、今すぐにでも馬車から飛び降りて暗闇の中へ逃げ出してしまいそうだった。


隣でティアルが舌打ちをする。


「……くそっ、速すぎる」


その言葉と同時に、馬車が激しい衝撃とともに急停止した。

馬のいななきと、御者が弾き飛ばされる鈍い音が響く。

サラの心臓が、恐怖で早鐘のように打ち鳴らされた。

馬車の扉が、外から暴力的な力でへし折られ、吹き飛ぶ。


夜の闇の中に立っていたのは、軍装を乱し、肩で息をするヴォルティスだった。

その青い瞳は完全に赤黒い獣の光に染まり、理性のかけらも残っていない。


「俺の妻を、どこへ連れて行く気だ」


地鳴りのような低い声が、その場にいるすべての者の鼓膜を震わせた。


ティアルが即座に魔導具を構えようとするが、ヴォルティスの動きはそれよりも遥かに速かった。

彼の手刀がティアルの首筋を的確に打ち据え、天才魔導技師は一瞬にして意識を刈り取られて床に崩れ落ちる。


「ティアル……っ!」


サラが悲鳴を上げる間もなく、ヴォルティスの力強い腕が彼女の細い腰を抱え上げた。

抗う隙すら与えられない圧倒的な武力。

サラは恐怖のあまり声も出せず、ただ引きつったように目を大きく見開くことしかできなかった。


ヴォルティスは気を失ったティアルを一瞥し、彼を殺しはしなかった。

ここで彼を殺せば、サラの心が完全に自分から離れることを、獣の本能が理解していたからだ。


彼はサラを抱き抱えたまま、夜を駆ける獣のような速度で、再び公爵邸へと引き返していった。


気がつくと、サラは豪奢なベッドの上に放り出されていた。

背中を打つ柔らかい感触。

見覚えのある重厚な天蓋と、豪奢な調度品。


そこは、あの結婚初夜以来、サラが一度も足を踏み入れていなかったヴォルティスの寝室だった。



──ガチャン


重々しい音が響く。


ヴォルティスが扉に外から開けられないように特殊な鍵をかけ、その前に立ち塞がったのだ。


逃げ場はない。

密室に、帝国最強の武力を持つ男と二人きり。

前世で彼に命を奪われた記憶が、黒い泥のようにサラの脳裏に溢れ出す。


殺される。

今度こそ、本当に殺される。


いや、推しが私を殺すはずがない。私が何か、彼の機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうか。

パトロンとしての行動が目立ちすぎたのか。

サラの呼吸は浅く早くなり、顔から完全に血の気が引いていく。


「かっ……閣下、どうか落ち着いて……」


震える声で紡いだ言葉は、恐怖でひび割れていた。

それでもサラは、必死に口角を引き上げ、推し活の笑顔を作ろうともがく。


「私のような汚らわしいモブが、閣下の神聖な寝室を汚すなど……今すぐ、ご退室いたしますので……っ」


ベッドから逃げるように降り、這いつくばってでも扉へ向かおうとするサラ。

しかし、その細い腕を、ヴォルティスの大きな手が力強く、けれど絶対に傷つけないような絶妙な力加減で掴んで引き止めた。


「逃げるな……っ」


絞り出すような、悲鳴に似た声だった。

サラはビクッと肩を跳ねさせ、おそるおそるヴォルティスの顔を見上げた。


そこで彼女は、信じられないものを見た。

万象を断つ静寂の刃と恐れられ、前世ではあの断頭台で氷のように冷たい眼差しで自分を見下ろしていた男。


その彼の赤黒く染まった瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていたのだ。


「サラ……俺が、俺が悪かった。お前の心を壊したのは、俺だ……」


ヴォルティスはサラの腕を掴んだまま、彼女の目の前で、崩れ落ちるように床に両膝をついた。

帝国最強の公爵としての矜持も、貴族としての体面も、すべてが彼の中から消え失せていた。

彼はそのまま深く頭を垂れ、額を冷たい床の絨毯に強く擦り付けた。


土下座だった。

サラの足元に這いつくばり、己のすべてを否定し、懺悔する姿。


「俺は、何も見ていなかった。お前が俺のためにどれほど血の滲むような思いで裏から支えてくれていたか。俺という人間を、どれほど深く理解しようとしてくれていたか……」


嗚咽が、重厚な寝室に響き渡る。


ヴォルティスは先程サラの部屋で読んだ手記の束から、彼女の心が完全に死んでいることを知った。


自分を愛しているからこその献身だと思っていた。

しかし現実は、彼を人間として見ることを恐れ、感情のない偶像として扱うことでしか、彼女は自我を保てなくなっていたのだ。


俺の冷酷さが、彼女から愛を奪い、絶望の淵へと突き落とした。

その事実が、運命の番を求める獣人の本能と合わさり、ヴォルティスの精神をズタズタに引き裂いていた。


「頼む……っ、俺を、もう一度だけ人間として見てくれ。ただの観賞用の偶像ではなく、血の通った一人の男として……俺を愛してくれ……!」


涙と鼻水で美しい顔をぐしゃぐしゃにしながら、ヴォルティスは必死に哀願した。

床に這いつくばり、サラのドレスの裾を震える手で強く握りしめる。


許されないことはわかっている。

自分が彼女に与えた絶望の深さを思えば、今更愛してくれと乞うなど、あまりにも身勝手で醜悪だ。


それでも、獣の血が彼女を求めて狂おしく泣き叫んでいる。

彼女なしでは、もう呼吸をすることすら苦痛なのだ。

プライドも、地位も、すべてを投げ打って、泥に塗れながら愛を乞う男の姿。


それは、一般的な物語であれば、読者が最も溜飲を下げる最高のざまぁの瞬間であり、主人公の愛によって男が救済されるカタルシスの頂点であるはずだった。


しかし、サラの心は、微塵も動かなかった。


床で泣き崩れる至高の推しを見下ろしながら、サラの脳裏には一切の同情も、愛しさも湧き上がってこなかった。


彼女の心臓は、あの雨の日の断頭台で、とっくの昔に冷たく硬直しているのだ。


彼が今、どれほど美しい涙を流そうと、どれほど悲痛な声で愛を叫ぼうと、サラにとってそれは「自分を殺した死神が、なぜか発狂して泣いている」という、意味不明で恐ろしい光景に過ぎなかった。


これはいったい、何のイベントなのだろうか。


サラは極限の恐怖と混乱の中で、必死に思考を回した。

推しが私の足元で泣いている。私の愛を求めている。


あり得ない。この完璧な芸術作品が、私のようなモブに執着するなど、絶対に設定が間違っている。

これはきっと、私が彼の私生活に干渉しすぎたことに対する、強烈な拒絶反応なのだ。

推しを狂わせてしまった。私のパトロンとしてのやり方が悪かったのだ。

私が彼を「人間」として見ていないことがバレて、彼のプライドを傷つけてしまったのかもしれない。


「かっ、閣下……どうかお顔をお上げください。私のような者のために、その美しいお顔を涙で汚すなど……」


サラの声は震えていたが、その表情には張り付いたような無機質な笑みが戻っていた。


「私は、閣下のすべてを肯定しております。閣下は今まで通り、ただ気高く、美しく、最強でいてくだされば、それで良いのです。私などという泥は、閣下の視界には不要でございます」


その言葉は、ヴォルティスの耳には「お前など人間として愛する価値はない」という冷酷な死刑宣告として響いた。


彼女は自分を許さないのではない。

そもそも、許すとか憎むとかいう次元にすら立ってくれていないのだ。

完全に、絶対的に、自分という人間を拒絶している。


「違う……違うんだ、サラ!俺はお前に、俺を見てほしい!俺という男を……っ!」


ヴォルティスはサラの腰にしがみつき、子供のように泣き叫んだ。


その熱い涙がドレス越しに肌に伝わる感触に、サラは背筋が凍りつくような恐怖を覚えた。

触れられている。死神に、捕まっている。

過呼吸が再発しそうになるのを必死に堪え、サラはただ虚空を見つめ続けた。


私は何も感じない。何も期待しない。


あれは泣いているのではない。そういう演技のプログラムなのだ。

そう思い込まなければ、狂ってしまう。


豪華な密室の中で、帝国最強の公爵がすべてを捨てて愛を乞い、妻は恐怖の底で笑顔を貼り付けて心を閉ざし続ける。


二人のいびつなすれ違いは、もはや解けることのない呪いとなって、重苦しい夜の空気を支配していた。




豪華な寝室の床に、帝国最強と謳われた男が這いつくばっている。


その大きな背中は子供のように震え、美しい顔は涙と後悔でぐしゃぐしゃに歪んでいた。

サラのドレスの裾を強く握りしめる彼の手には、すがるような、そして決して離すまいとする狂気的な力が込められている。


部屋を支配するのは、ヴォルティスの悲痛な嗚咽と、サラの浅く早い呼吸の音だけだった。


「愛してくれ……っ、俺を……!」


血を吐くような哀願。

それは、前世のサラがどれほど望んでも決して与えられることのなかった、夫からの切切実な愛の言葉そのものだった。


あの冷たい断頭台で、ただ一度でいいから私を見てほしいと泣き叫んだ自分の姿が、今の彼と重なる。

因果は巡り、立場は完全に逆転していた。

だが、今のサラの心に湧き上がってきたのは、優越感でも、哀れみでも、かつての愛の再燃でもなかった。


極限の恐怖と混乱の中で、サラの脳髄はすっと冷え切っていくような、奇妙な静寂に包まれていた。


ああ、そうか。


サラはついに理解した。

この男は、狂ってしまったのだ。

私のパトロンとしての裏工作が完璧すぎたせいで、彼の中にあった『冷酷な公爵』というシステムに致命的なバグが生じてしまった。

彼自身に流れる獣人の血という設定が暴走し、私というモブを運命の相手だと錯覚している。


もう、あの氷のような瞳で私を処刑した死神は、どこにもいない。

目の前にいるのは、私なしでは呼吸すらできないほどに壊れ、完全に私に依存しきった哀れな獣だ。


サラの口角が、ゆっくりと吊り上がっていく。

それは恐怖を塗り潰すために貼り付けた笑顔ではなく、底なしの虚無から生まれた、真の狂気の微笑みだった。


「閣下。お顔をお上げください」


サラの声は、先程までの震えが嘘のように透き通っていた。

冷ややかな、けれどどこまでも優しい声。

ヴォルティスがハッと息を呑み、涙に濡れた青い瞳でサラを見上げる。


その瞳に一瞬だけ灯った希望の光を、サラは容赦なく、そして物理的に叩き割った。


「あなたのその美しい顔面と、唯一無二の才能は、私にとって至高の芸術です。それを守るためなら、私は自分のすべてを捧げても構わない」


「サラ……っ」


「ですが」


サラはヴォルティスの言葉を遮り、新緑の瞳で彼を真っ直ぐに見下ろした。

その瞳孔の奥には、絶対的な零度の氷壁がそびえ立っている。


「私の心臓は、前世のあの雨の日に、あなたが処刑を命じた瞬間に止まっているのです。人間としてのあなたには、一切の興味がありません。あなたの心にも、あなたの愛にも、私には何の価値もないのです」


静かな、けれど決定的な宣告だった。

ヴォルティスの顔から最後の血の気が引き、絶望がその美しい顔を白蝋のように染め上げる。


「今更、遅いのです。あなたがどれほど私を愛そうと、どれほど涙を流そうと、私があなたを一人の男として愛することは、永遠に、絶対にありません」


完全に拒絶された。

自分が彼女の心を殺したという事実が、重い鉄の塊となってヴォルティスの魂を粉砕した。

もう二度と、彼女の心からの笑顔を自分に向けてもらうことはできない。

愛情は、永遠に失われたのだ。


獣人の血が絶望に泣き叫び、本来ならば精神の死を迎えるほどの激痛がヴォルティスを襲う。


しかし、彼の手はサラのドレスの裾を離さなかった。

いや、離せなかったのだ。

彼女の心が手に入らないのなら、せめて。


「……それでも、いい」


ヴォルティスは掠れた声で呟き、サラの足の甲に自身の額を押し当てた。

それは、帝国最強の公爵が、一人の女に対する完全なる服従と隷属を誓った瞬間だった。


「俺の心など、見なくていい。俺の顔でも体でも、地位でも武力でも……お前の好きなように、偶像として消費してくれ。その代わり、俺を捨てないでくれ。一生俺だけを推して、俺のそばにいてくれ……っ!」


誇りも尊厳もすべて捨て去り、ただ彼女の所有物として生きることを乞う。



その悲惨で無様な姿を見下ろしながら、サラは心の底から安堵のため息を吐いた。

これで、私が処刑されるバッドエンドは完全に消滅した。


私を脅かす死神は消え去り、最高の権力と武力を持った『推し』が、自ら進んで私の鳥籠に入ってくれたのだから。


「ええ、もちろんですよ。私の閣下」


サラは優しく微笑み、ヴォルティスの艶やかな黒髪を撫でた。

その手つきは、愛する夫に向けるものではなく、よく懐いた美しいペットを慈しむものだった。




それから数年の月日が流れた。


帝国の歴史は、一人の異端の天才によって大きく塗り替えられていた。

かつてスラムで泥に塗れていたティアル・ルクは、今や帝国筆頭魔導技師として歴史にその名を刻んでいる。


彼が開発した画期的な魔導具の数々は、軍事だけでなく民衆の生活を劇的に豊かにし、彼に莫大な富と確固たる地位をもたらした。


だが、彼がそれらの名誉を手に入れた真の目的は、たった一つ。

彼を暗闇から救い出してくれた、少し壊れた恩人を守るための、絶対に誰にも破られない強固な城壁を築くためだった。


「お嬢様、新しい防壁用魔導具の調整が終わりました。これで、あの狂犬公爵が発狂して暴れても、お嬢様のティータイムは一ミリも邪魔されませんよ」


公爵邸の陽当たりの良いテラス。

洗練された装いのティアルが、呆れたような、しかし深い親愛の情を込めた瞳でサラに報告する。


「ありがとう、ティアル。あなたの技術は本当に世界一ね。おかげで今日も、推しの顔面作画が崩れることなく、最高のコンディションで観賞できるわ」


サラは優雅に紅茶のカップを傾けながら、満面の笑みで答えた。


彼女の視線の先、庭園の広場では、ヴォルティスが騎士団の訓練をつけている。

その剣さばきは相変わらず神がかっており、流れる汗すらが計算された演出のように美しい。


ティアルの用意した防音・防壁魔導具の結界の中から、サラは絶対的な安全圏に身を置き、ただ至高の推しを愛でるだけのストレスフリーな毎日を送っていた。


訓練を終えたヴォルティスが、サラの姿を認めてこちらへ歩いてくる。

ティアルは微かに眉をひそめ、結界を解除して一歩後ろに下がった。


「サラ。今日の俺の剣はどうだったか。お前が望むなら、もっと……」


「ええ、最高でしたわ!特にあの三撃目の踏み込み、筋肉の躍動感が芸術的でした!今日も生きててくれてありがとうございます、私の閣下!」


サラは目を輝かせ、ヴォルティスに向かって拍手を送る。

その熱狂的な言葉に、ヴォルティスの青い瞳が一瞬だけ悲痛に揺れた。


どれだけ彼女のために剣を振るおうと、どれだけ愛を囁こうと、彼女から返ってくるのは熱狂的なファンとしての言葉だけ。

妻としての愛情も、一人の男としての関心も、永遠に与えられることはない。

それでも、ヴォルティスは彼女のそばを離れることができない。


彼女が時折見せるその狂気的な笑顔すらも、彼にとっては手放せない命綱なのだから。


「……ああ。お前が喜んでくれるなら、それでいい」


ヴォルティスは寂しげに微笑み、サラの手をとって恭しく口付けを落とした。


彼の心には、決して報われることのない愛と、過去の冷酷な自分への激しい後悔が、永遠に消えない呪いのように刻み込まれている。

しかし、彼自身がそれを望んだのだ。彼女の偶像として、一生をこの歪な鳥籠の中で過ごすことを。



サラは推しを完全な自分の所有物にするという、ファンとしての究極の夢と平穏を手に入れた。


ティアルは自らの才能を証明し、何よりも大切な主を守り抜く力を手に入れた。

そしてヴォルティスは、報われない愛という無間地獄の中で、一生妻を溺愛し続ける。



青く澄み渡る空の下、三者三様の歪で完璧なハッピーエンドが、そこに完成していた。


(完)

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― 新着の感想 ―
ヴォルティスはティアルに手刀打ちした事を謝るべきだと思う 目が覚めたらサラとヴォルティスが良い感じになってて その時の彼の心境や如何に 最後を見るに納得できているのでしょうけれども
元サヤにならないところが最高でした。ありがとうございます!
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