第2話:滑稽な反逆のプレリュード
肺を締め付ける鯨骨の硬い感触が、呼吸のたびに肋骨を軋ませ、微かな鈍痛を絶え間なく脳髄へと送り込んでいた。
本来ならば、美しく整えられた細いウエストのラインを社交界で誇示するための、名誉あるこの痛みが、今はひたすらに疎ましく、苛立たしい。コルセットの紐が皮膚に食い込むたびに、喉の奥にこびりついた、鉄の錆のようなひどく嫌な味が蘇ってくる。
数日前にあのアシュクロフト公爵家の冷え切った執務室で味わった、床に這いつくばるような泥土の記憶が、胃袋を何度も下から突き上げ、吐き気を催させた。
「……ジュリアン様? お顔の色が、少し優れませんわ。ご無理をなさらないで」
甘ったるい、砂糖漬けの果実のような香りが鼻腔を撫でた。
視線を落とすと、私の腕にすがりつくようにして、潤んだ上目遣いでこちらを見つめるリリアーヌの姿があった。
ふわふわと波打つ桃色の髪が、私の袖に重ねられた最高級のレースのフリルに擦れるたび、微かな衣擦れの音が立つ。彼女の指先は驚くほど細く、そしてマシュマロのように柔らかい。
その体温が、厚塗りの白粉の下で冷え切っていた私の皮膚に、じんわりと、まるで特効薬のように浸透してくる。
「いや……何でもない。ただ、あの冷血な女の顔を思い出しただけだ」
「ヴィクトリア……あの血の通っていない傲慢極まりない氷色の瞳を思い出すと、こめかみの血管が今にも破裂しそうに脈打つんだ。俺を、この俺をただの駒のように見下したあの視線が……!」
私は震えそうになる指先を誤魔化すため、テーブルに置かれたティーカップを乱暴に掴み取った。
中身がこぼれ、純白のソーサーに茶褐色の染みを作るが気にも留めない。生温かい紅茶を無理やり喉に流し込むと、安っぽい人工的な香料の匂いが鼻腔を突き抜けた。
アシュクロフト家で出されていた、あの鼻に抜けるような芳醇な茶葉の香りとは似ても似つかない。それがまた、私を不当な境遇に追いやったあの女への敵意を煽り立てる。
あの日の屈辱。
私をゴミを見るような目で一瞥し、見下ろしたヴィクトリアの冷徹な声。
そして、あの薄汚い首輪をつけた狂犬の、肌を切り裂くような圧倒的な魔力の圧。
思い出すだけで、指先から一気に血の気が引き、歯の根がカチカチと制御不能に噛み合わなくなる。額には冷や汗が滲み、せっかく整えた前髪がべたりと肌に張り付く感覚がある。
だが、それは決して怯えなどではない。
断じて違う。
王家の血を引く気高き私の魂が、あのような野蛮な暴力に対して発している、至極真っ当な拒絶反応なのだ。
「本当に、あの方はお労しい方。ジュリアン様のような、これほどまでに美しく、そして聡明な殿方を手放すだなんて。彼女の目はどうかしておりますわ」
「……でも、私にとっては幸運でした。こうして、貴方様の本当の素晴らしいお姿を、私だけが独占できるのですから。貴方様のその広いお心に触れられるのは、私だけの特権ですわ」
リリアーヌの熱い吐息が私の首筋に触れ、彼女の豊かな胸のふくらみが、私の腕に柔らかく押し付けられた。
その瞬間、硬く縮こまっていた私の背筋に、熱い痺れのようなものが走った。
そうだ。私を理解できないあの女が異常なのだ。女のくせに可愛げもなく、魔力と権力だけで男を支配しようとするあの氷の塊が間違っている。この私がどれほど価値のある存在か、リリアーヌのこの熱を帯びた瞳が、その甘い声が、完全に証明しているではないか。
私は、ペンスタンドから羽ペンを引き抜き、乱暴にインク壺に突っ込んだ。ボタリ、と黒い雫が羊皮紙の上に落ちる。私はその染みの上から構わず、力任せに文字を書き殴り始めた。
「見ていろ。あの氷の女の化けの皮を完全に剥がしてやる。アシュクロフト家が裏で手を染めている不正の証拠、領民を搾取しているというこの記録を、俺がすべて白日の下に晒してやる」
「王家の血を引く俺を蔑ろにし、あんな野蛮な狂犬を側に置く報いを、あの女の身体の隅々にまで刻み込んでやる。這いつくばって泣いて許しを乞う姿を、社交界の全員に見せつけてやるんだ」
ペン先が羊皮紙をガリガリと削る甲高い音が、静かなサロンに響き渡る。
書けば書くほど、私の耳の奥でドクドクと血が巡る音が大きくなっていった。
これは勝利への凱歌だ。私の手元には、ヴィクトリアを社会的に抹殺するための『確かな証拠』がある。
リリアーヌが、男爵家の伝手を頼りに、文字通り命がけで集めてきてくれた極秘の帳簿と、数名の証人たち。これさえあれば、あの女を公衆の面前で完全に断罪し、破滅させることができる。
「素晴らしいですわ、ジュリアン様……! 貴方様のその力強い筆跡、迷いのないその決断力、まるで英雄の剣のようです!貴方様が勝利の玉座に座るその時を、ずっとお側で見守らせてくださいね」
リリアーヌの甘い声が、耳たぶを舐めるように鼓膜を震わせる。
私は大きく息を吸い込んだ。コルセットの軋む音が、今度は心地よい旋律のように感じられた。あの冷たい執務室で嗅いだ埃っぽいインクの匂いとは違う、私自身の輝かしい栄光を書き記すインクの匂い。
私の頭の中ではすでに、次回の王宮の夜会で、ヴィクトリアが私の足元に崩れ落ち、ドレスを汚しながら涙と鼻水にまみれて許しを乞う姿が、極彩色の絵画のように鮮明に描かれていた。
こめかみの拍動は限界まで高まり、私の唇の端は、抑えきれない歪な弧を描いて、どこまでも高く吊り上がっていた。










