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私が不要と捨てた元婚約者が身の程を知らずに「ざまぁ」を企てているようですが?  作者: あとりえむ


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第1話:氷の令嬢は無能な鳥籠を開け放つ

私は、ゆっくりと万年筆を休め、インクスタンドへと戻した。


カチャリ、と静かな音が室内に響く。


それだけの動作で、ジュリアンの肩がビクリと跳ね上がった。



私は背筋を伸ばしたまま、背もたれに身を預け、手元にあった黒革の扇を手に取る。指先でそれを弄びながら、私の氷色の瞳をゆっくりと彼へと向けた。




私の視線が彼の顔を捉えた瞬間、彼の瞳の奥に、一瞬だけ、本能的な恐怖の色が過ったのを私は見逃さなかった。


この世界において、魔力の絶対量こそが権力の象徴。


アシュクロフト公爵家の血を引く私の体内に眠る莫大な魔力の圧を、彼はその薄い皮膚で敏感に感じ取っているのだ。言葉ではどれほど強気を取り繕おうとも、彼の肉体は、私という捕食者を前にした小動物のように硬直していた。



「……お前の話、とは何かしら、ジュリアン」


「私の貴重な執務時間を割くに値する内容なのか、手短に証明しなさい」


私の口から滑り出た声は、低く、そして冷え切っていた。




室内の空気が一瞬で数度下がったかのような錯覚を覚える。


一人称を「俺」などと口にする不遜さ。女尊男卑が徹底されたこの帝国において、家督を継ぐ公爵令嬢に対して男性がそのような言葉遣いをするなど、本来であれば即座に領地追放、あるいは極刑に値する不敬である。



王家の遠縁という、蜘蛛の糸よりも細く頼りない血統だけが、彼の分不相応なプライドを支えているのだろう。彼を甘やかし、男の身でありながら我が物顔で振る舞うことを許してきた彼の生家もまた、この世界の理を忘れた愚者の集まりと言えた。




「な、何かしら、ではない! 俺は、お前のその冷酷で血の通わない態度に愛想が尽きたと言っているんだ!」


「 男爵令嬢のリリアーヌは、お前とは違う。彼女は俺の言葉にいつも熱心に耳を傾け、俺の美しさを心から称え、守ってあげたいと言ってくれる」


「アシュクロフトの権力に胡坐をかき、俺をただの飾り人形のように扱うお前など、もう限界だ! 婚姻を結んでやろうという俺の慈悲を、お前は踏みにじり続けてきたんだ!」


ジュリアンは己を鼓舞するように胸を張り、細い指先で前髪をかき上げた。



だが、その指先は微かに、しかし確実に震えている。




──リリアーヌ


あの可憐さを絵に描いたような、しかし私の盤上において最も忠実に動く密偵の少女の名前が、彼の口から飛び出したことに、私は内心で深い滑稽さを覚えた。


彼が「真実の愛」と信じ込んでいるものは、私が彼を合法的、かつ徹底的に破滅させるために仕掛けた、甘い毒の罠に過ぎないというのに。



リリアーヌが裏で私に送ってくる報告書には、ジュリアンがいかに簡単に彼女の甘言に踊らされ、公爵家の情報を流そうとしたかが克明に記されている。自分が愛されていると錯覚し、世界の王にでもなったかのように錯覚している彼の姿は、ただただ滑稽だった。




私は、言葉を返す代わりに、机の端へと一枚の白い羊皮紙を滑らせた。完璧に整えられた私の爪が、机のマホガニー材を微かに鳴らす。



羊皮紙の上部には、アシュクロフト公爵家の家紋である「氷狼」の金箔が、沈みゆく夕日に照らされて禍々しく、そして絶対的な威厳を放って光を反射していた。その紙面に刻まれたインクの色さえも、彼の未来を黒く塗りつぶすかのように冷たく定着している。




「それは……何だ? 俺に何の書類を差し出すつもりだ」


ジュリアンは眉をひそめ、不審げに書類を見下ろした。



きつく締められたコルセットのせいで、彼の呼吸はいよいよ浅くなり、肺が空気を求めて喘ぐように、フリルの胸元が不自然なリズムを刻んでいる。




彼の手が羊皮紙へと伸びるが、その動きには明確な躊躇があった。本能が、その紙に書かれた内容の恐ろしさを察知しているかのように。




「読みなさい、貴方のその貧弱な頭脳でも、そこに書かれた文字の意味くらいは理解できるでしょう」




私の一言に逆らう術を、彼は持たなかった。


怯えを隠すように、乱暴に書類をひったくったジュリアンの視線が、そこに並ぶ文字の羅列を追う。



一行、二行と読み進めるうちに、彼の顔面から完全に血の気が引いていった。白粉の白さを通り越し、まるで数日前に息絶えた死人のような土気色へと変わっていく。彼の唇が、小刻みに震え、せっかく整えたリップの紅が滲んでいく。




「こ、婚約……破棄……!?」




「お前、正気か!? この俺を、アシュクロフトの婿となるはずのこの俺を捨てるというのか!」


ジュリアンの声が、今度は完全に理性を失って甲高く裏返った。

怒声というよりは、首を絞められた鶏の、あるいは檻に閉じ込められた猿の悲鳴に近い。


彼の指先が、羊皮紙を破らんばかりの力で握りしめられる。




だが、私の心臓は、相変わらず冷徹なテンポを刻み続けていた。


彼の絶叫など、私の耳には夜風に揺れる木の葉の擦れる音、あるいは足元を這い回る虫の羽音と変わらない。私の視界の中で狂乱する彼の姿は、完全に私の関心の外へと追いやられていた。



「捨てる? 表現が不正確ね、ジュリアン」


「私はただ、我が公爵家にとって不要となった『不良品』を、本来あるべき廃棄場へ戻す手続きをしただけよ。貴方との婚姻によって得られるはずだった王家との繋がりは、すでに別のルートで完全に確保されたわ」



「……つまり、貴方の存在価値は、今この瞬間を以て完全に皆無となったの」



我が家が貴方の生家に支払っていた多額の援助金も、本日を以てすべて停止されるわ。貴方の着ているその豪奢なフリルも、そのコルセットも、明日からは維持できなくなるでしょうね」


扇を優雅に開き、口元を隠しながら私は告げる。




私の瞳の奥にある絶対的な無関心、そして一抹の憐れみすら含まれない完全な冷徹さに触れ、ジュリアンの瞳が大きく見開かれた。



彼は、自分が世界の中心であり、女性から傅かれるべき美しい存在だと信じて疑わなかった。


その歪んだ万能感が、音を立てて崩壊していくのが、彼の肌の粟立ちとなって現れている。呼吸のたびに、彼の細い肋骨がコルセットに圧迫され、悲鳴を上げているのが目に見えるようだった。



「ふ、ふざけるな! 俺を誰だと思っている!王家の血を引くこの俺を無下に扱えば、お前たちアシュクロフト家がどうなるか……!」



「そうだ、社交界でお前の悪逆非道な悪評を流してやる! 冷酷で、男を人間とも思わない悪魔の令嬢だと、全員に触れ回って、二度と婿が取れないようにしてやる! 俺を捨てたことを、泣いて後悔させてやる!」





──「我が主、この汚い口を、今すぐ引き裂いてよろしいでしょうか」


ジュリアンの狂乱を遮るように、部屋の空気が一瞬で、物理的な質量を伴って凍りついた。



執飾室の調度品が、ガタガタと激しく震え始める。私の椅子の背後、深い漆黒の帳が下りる影の中から、じわりと染み出してきたのは、肌を直接凍った刃物で撫でられるような、残虐極まりない魔力の圧だった。


それは、常人が浴びれば精神を崩壊させかねないほどの、圧倒的な暴力の気配……




「ひ、っ……あ、ああ……、息が……」


ジュリアンの喉から、言葉にならない悲鳴が漏れた。



彼は激しい過呼吸に陥り、その場に崩れ落ちそうになるのを、机の端を掴むことで私的なプライドを辛うじて繋ぎ止めようとしていた。


だが、その努力も虚しく、彼の細い両膝は、目に見えてガクガクと震え、きつく締め上げられたコルセットが、恐怖で肥大した肺を無慈悲に圧迫して、彼の顔を赤紫に変えていく。



血の巡りが悪くなった彼の指先が、青白く変色していくのが見て取れた。


影から姿を現したのは、濡れ羽色の漆黒の髪を無造作に揺らした男──『クロード』だった。




この世界において「男の闘争本能」は悪徳であり、排除されるべき狂気とされる。


だが、彼の身に宿るその規格外の戦闘力と、他者を文字通り塵にする強大な魔力は、私の絶対的な剣として、地下牢の暗闇から買い上げられたものだった。



衣服の上からでも容易に察せられる、鋼のように鍛え上げられた長身としなやかな筋肉。男性でありながら、コルセットなどという虚飾に頼る必要のない、圧倒的な野生の強靭さ。そして、闇の中で爛々と飢えた輝きを放つ黄金の瞳が、ジュリアンを冷酷に射抜いていた。



クロードの首元で、私の所有物であることを示す「銀のチョーカー」が、室内の灯火を反射してギラリと冷たい光を放ち、彼が私の忠実な飼い犬であることを周囲に誇示していた。




クロードが半歩、前に踏み出す。



それだけで、室内の床板がきしみ、圧倒的な殺意が目に見える波となってジュリアンへと押し寄せた。


ジュリアンの額からは、滝のような汗が流れ落ち、白粉がドロドロに溶けて見苦しい縞模様を作っている。



彼は恐怖のあまり、腰が抜け、ついに床へと無様に這いつくばった。


フリルの袖が床の埃を吸い、彼が誇りとしていた美徳は、今や見る影もない。男としてのプライドも、虚飾の美しさも、クロードが放つ本物の強者の前では、ただのゴミクズ同然だった。




「クロード」


私が、ただその名を低く呟いた。

ただそれだけだった。声を荒らげることもなく、ただ一言、彼の名を呼んだ。


ジュリアンを骨ごと噛み砕かんばかりに牙を剥いていた狂犬の気配が、その一瞬で、完全に消滅した。


部屋を支配していた暴力的で熱い魔力の圧が、ひび割れた大地が雨水を吸い込むかのように、一瞬でクロードの体内に霧散していく。




黄金の瞳に宿っていた残虐な光は、瞬時にして、切実な熱と、どこまでも深い従順さ、そして私への盲目的な崇拝へと塗り替えられた。


彼の身体から殺気が消え去るその鮮やかな変化は、まるで訓練された極上の猟犬のようだった。




クロードは音もなく私の足元へと進み出ると、長い膝を床につき、深く、深く頭を垂れた。


私の漆黒の乗馬ブーツのつま先に、彼の額が恭しく押し当てられる。彼の大きな身体が、私の存在を間近で感じるだけで、歓喜のあまり微かに震えているのが伝わってきた。



彼の呼吸は、先ほどのジュリアンとは対照的に、深く、そして熱い。




「……ああ、ヴィクトリア様。私の女神、私のすべて。あのような無能なゴミの言葉で、貴方様の美しいお耳を汚してしまった私をお許しください」



「私の不手際です。今すぐ、あの男の舌を引き抜き、我が主の盤上から完全に排除いたします。二度とその不快な声を響かせられぬよう、叩き潰して差し上げます。どうか、私にその栄誉を……貴方様の所有物たる私に、そのご命令をくだされば、世界すらも血の海に変えてみせましょう」


彼の喉から漏れ出たのは、先ほどまでの獣の唸り声とは似ても似つかない、甘く、そして狂おしいほどに濡れた吐息だった。




私以外のすべてを拒絶し、私の足元で息をすることだけを許された狂犬の、極上の甘え声。彼の言葉には、一寸の嘘もなく、私が「死ね」と言えばその場で自らの心臓を捧げるであろう狂気的なまでの重い愛が、その声音の端々にまで染み渡っていた。



私は、手にしていた扇を机に置き、彼の無造作な黒髪へとゆっくりと指先を差し入れた。


私の指先が彼の頭皮に触れた瞬間、クロードは小さく、甘やかな吐息を漏らし、私の手のひらに自らの頬を擦り寄せてきた。まるで、長い飢餓の果てに極上の甘露を与えられた獣のように、しかしどこまでも従順に、私の愛撫をねだるように。



彼の肌は、驚くほど熱い。その高い体温が、私の冷え切った指先を伝って、身体の奥深くへと甘く染み渡っていく。私の魔力が、彼の体内の魔力と微かに共鳴し、極上の心地よさを脳裏に刻みつける。



「いい子ね、クロード……でも、まだその時ではないわ」



「その男には、もっと相応しい、惨めで、逃げ場のない最高の破滅の舞台を用意してあるの。それまで、その鋭い牙は私のために隠しておきなさい。私の許可があるまで、獲物を生殺しにしておくのも、また一興でしょう?」




「御意のままに、我が主」


「貴方様のご命令とあらば、この命、この牙、すべてを檻に繋ぎましょう。貴方様が望むなら、私はいつでも牙を抜き、ただの愛玩動物にでもなり果てましょう。どうか、その細く美しい指先で、私を永遠に支配し続けてください……」


クロードは恍惚とした表情で、私の指先に自らの唇を押し当てた。何度も、何度も、狂気的なまでの執着を込めて、吸い付くような口付けを落とす。



その熱い感触が、私の肌に鮮烈な刻印を残していく。



彼の重すぎる愛、世界を敵に回しても揺るがないその狂信的な瞳が、私の胸の奥を心地よく満たしていくのを感じていた。彼を支配しているのは私だが、その重すぎる愛の鎖によって、私もまた彼という存在に心地よく囚われているのかもしれない。





床に這いつくばったまま、その異様な、そして濃厚な主従の光景を、ジュリアンはただ呆然と、信じられないものを見るかのように見上げていた。



彼の瞳には、かつての尊大な光など微塵もなく、ただ理解を超えた恐怖と絶望だけが泥のように澱んでいる。自分が美しい男として君臨していた世界が、目の前で完全に否定され、ただの無力な駒として扱われている現実。



彼がいくら虚勢を張ろうとも、私の盤上では、すでに彼は詰んでいるのだ。




私は彼を見下ろすことすらやめ、再び万年筆を手に取った。


アシュクロフト公爵家の執務室に、再び冷徹な摩擦音が戻ってくる。それが、愚かな道化への、無言の退室許可だった。



ジュリアンは、引き裂かれたフリルを引きずるようにして、這うように部屋から逃げ出していった。その背中を見送ることもなく、私は次の書類へとペンを走らせるのだった。

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