第六話 立っている遺骸
通路が、急に開けた。
隊長のライトが、天井まで届かない。壁も見えない。
足元の岩だけが、白い輪の中に続いていた。
先を歩いていた鵜飼さんが、立ち止まった。
「……あそこだ」
視線の先を追った。
闇の奥に、人が立っていた。
大の字。両腕を左右に広げ、両脚を開いて、まっすぐこちらを向いている。
光は届いていないのに、その体だけが、うっすらと白く浮いて見えた。
盛り上がった肩。閉じた目。
両耳の、丸い穴。
写真の大人だった。
寝ていたんじゃない。立っていた。
写真の背景は、黒一色だった。
隊長がライトをそちらへ向けたまま、俺を見る。
「畑野くん。見覚えがありますか」
封筒は、ザックの底に入れたままだった。
「……前の隊の資料で、似たものを」
「そうですか」
隊長はそれ以上訊かなかった。
「行きましょう」
隊長の声が、わずかに上ずっていた。
「待ってください、隊長。距離が分かりません。比べるものが何もない」
「近づけば分かります」
「水が、もうあまりありません。ここで一度、残りを確かめたほうが」
「歩きながら確かめます」
隊長は、もう歩き出していた。鵜飼さんが黙ってそのあとに続き、俺も追う。
歩いた。それから、走った。
誰も、止まろうとは言わない。足元の石を踏み、つまずき、手をついて、また走る。
「溝口さん、ペースを落とせ。倒れたら、運べん」
「あと少しです」
息が喉で鳴る。
白い体は、いつまでも同じ場所にある。広げた腕の幅も、耳の穴の丸さも、さっきと変わらない。
2時間走って、巨人は少し大きくなっただけだった。
水筒を振ると、音がしなかった。
「水は」
「俺のも、空だ」
鵜飼さんが、自分の水筒を逆さにしてみせた。
「二人の分も、さっきので」
隊長が言いかけて、口をつぐんだ。
*
しばらく行ったところで、鵜飼さんがライトの先を指さした。
「水だ。溜まってる」
岩のくぼみに、黒い水面が広がっていた。
駆け寄ろうとした俺の前に、鵜飼さんの腕が出た。
「若いの、待て。俺が先に見る」
鵜飼さんと隊長が、先に岸へ下りた。隊長が膝をつき、水面に顔を寄せる。
その口が、長い管になって、水の中へ差しこまれた。
鵜飼さんは袖をまくって、腕を水に浸けていた。その腕の上で、口が3つ、交互に開いては水を吸っている。
水の中では、赤い糸のようなものが、数えきれないほどうごめいていた。
「隊長……鵜飼さん」
声が、かすれた。
「二人とも、汚染されてる」
隊長が顔を上げた。目が、4つ並んでいた。
「何を言ってるんですか、畑野くん」
鵜飼さんが、水から腕を抜いた。その顔一面に、濡れた鱗が浮いている。
「汚染されてるのは、お前だ」
俺が。
「違う。俺は見たんです。江崎さんが、根津さんと吉岡さんが、どうなったか」
「畑野くん、こちらを見てください。私の顔を」
「見てます。見てるから言ってるんです」
「若いの。今、お前の目に映ってるもんを、当てにするな」
二人の顔が、揺れていた。化け物の顔と人の顔が、交互に重なって、ずれて、また重なる。
どちらが本当なのか、目を凝らすほど分からなくなる。
肩から毛布が滑り落ちかけて、端を掴んだ。
石。石が要る。
足元を探る手の動きに、さっきの音が重なった。闇の奥で、石が岩に当たって転がっていく音。
岸のくぼみに、細かい砂が溜まっていた。その脇に、角の尖った石が一つ。
拾って、左の手のひらに突き立てた。
痛みが、頭のてっぺんまで抜けた。
息を吐いて、顔を上げる。
二人は、人の顔に戻っていた。隊長と、鵜飼さん。
濡れた口元を拭いながら、こちらを見ている。
「……見えました。もう、ちゃんと見えてます」
「畑野くん、手を見せてください」
隊長が岸から上がってきて、俺の手首を取った。傷口を覗きこみ、首に巻いていたタオルを外して、きつく縛る。
「行けますか」
「行けます」
鵜飼さんは何も言わずに、水を汲み直した水筒を一本、俺の胸に押しつけた。
毛布は、まだ肩にかかっていた。
*
それから、どれだけ歩いたのか分からない。
やがて、大人の真下に出た。
足が、地面に着いていない。
巨人の体は、宙に浮いていた。大の字のまま、足の裏が俺たちの頭よりはるか上にある。
その周りを、黒い霧が巡っていた。
真下に、祭壇がある。
石を積んだ、円い壇。外縁から中心の窪みへ向かって溝が何本も刻まれ、そのうち一か所だけ、外縁の石が途切れて口を開けていた。
壇の周りを、壺が埋め尽くしている。研究所のガラスケースにあったのと同じ、青銅の壺。
2,000個は下らない。
途切れた口の両脇に置かれた二つだけ、胴の像の顔が、壇の外を向いている。
「途切れているのは、あの口だけですね」
「ああ。壺の向きも、そのままだ」
鵜飼さんの爪先が、壺の一つに当たった。
倒れた口から、粘る液と一緒に、眼球が二つ転がり出た。西瓜ほどの大きさ。
後ずさった足の下で、乾いた音。
骨だった。地面一面に、骨が敷き詰められている。
人の形をした巨大な骨と、何の獣ともつかない、長く連なる背骨。
「鵜飼さん、足元、骨が」
鵜飼さんは、答えなかった。
鵜飼さんが、骨の上を歩き出した。祭壇に向かって、一歩進むごとに膝をつき、額を地面につける。
「大人の王よ。民は、終焉の地に着きました」
「鵜飼さん、何を」
隊長の手が、俺の肩を上から押さえた。膝が、骨の上に落ちる。
「崇。ここから動くな」
畑野くん、ではなかった。
「隊長、これは何なんですか。誰に、頭を下げて」
「高く懸かる日が落ちる時が、来た」
「供物。そこで待て」
鵜飼さんが、顔を上げずに言った。
供物。
聞き返そうとしたとき、頭上の霧が動いた。渦を巻き、薄くなり、また厚くなる。
その中に、何かの形が浮かびはじめていた。




