第五話 土をかける
裂け目から出てきたのは、江崎さんの顔だった。
その顔が、眉間から縦に割れた。
左右に開いた皮膚の内側に、針のような歯が並んでいる。割れ目の奥から、白い触手が溢れ出す。
布を押し破って、胴が這い出てきた。脚がない。
白く、ぬめった、太い虫の胴。
それが、俺の首に巻きついた。
息が止まる。視界の縁が赤くにじむ。
地面を掻いた指が、何か硬いものに触れた。
石を握り、振り下ろした。もう一度。
首の締めつけが、ほどけた。
粘液でぬるつく重みの下から、這い出す。膝をつく。
「何があった」
隊長の声。男たちのテントから、次々に人が飛び出してくる。
根津さんと吉岡さんが、探照灯をこちらへ向けた。
「江崎さんが……化け物に、なって」
鵜飼さんが、倒れているものの横に膝をついた。首筋に指を当てて、しばらく動かない。
「死んでる」
「さっきまで、江崎さん、記録つけてたんですよ。俺、見てました」
「根津さん」
光の輪の中に、江崎さんが倒れていた。
作業着に、長い髪。顔は、ただの顔だった。
後頭部の下の地面に、黒っぽい染みが広がっていく。光の中で見ると、赤かった。
怪物も、人と同じなのか。
隊長の目が、俺の右手の石に止まった。
指を開くと、石は足元に転がった。
「自分を守っただけです。あれは、もう江崎さんじゃなかった。首を絞められて、俺は」
「畑野くん」
隊長は俺の前にしゃがみ、目の高さを合わせた。何か言いかけて、口を閉じる。
「もう、何もしないでください。あとは私に任せて。今は休んでいてください」
隊長はテントに戻り、自分の寝袋から毛布を引き抜いてきた。それを、俺の肩にかける。
乾いた、重い毛布だった。
「根津さん、吉岡さん、手を貸してください。鵜飼さん、江崎さんを」
鵜飼さんが、通りすがりに俺の首元を見た。
「若いの、怪我は」
「……ないです」
3人が江崎さんを運んでいく。俺は焚き火の前で、毛布の端を握っていた。
*
誰も眠り直さないまま、隊は動き出した。
「若いの、その毛布は置いていけ。濡れたら重いぞ」
「持っていきます」
根津さんと吉岡さんが、後ろで小声で話している。振り返ると、二人とも同時に目を逸らした。
「吉岡さん、さっき畑野さんが言ったこと、聞こえてました?」
「……今の話、隊長に確認してからにしませんか」
聞こえている。
俺は歩幅を広げて、隊長の横に並んだ。
「隊長、あの二人、様子がおかしくないですか」
「……気づいていましたか」
隊長は前を向いたまま、声を落とした。
「汚染されているかもしれません。畑野くんが、そう感じるなら」
「じゃあ、あの二人も江崎さんみたいに」
「まだ分かりません。私が見ています。いいですか、畑野くん。手は出さないでください。何があっても、私に任せてください」
「……分かりました」
前を行く鵜飼さんが、足を止めた。
「おい、来てくれ。人だ」
通路脇の岩棚に、体が二つ、並んで横たわっていた。
前の隊の作業着に、胸の名札。腐敗が進んで、顔の形はほとんど残っていない。
「行方不明だった二人です。名簿と合ってます」
吉岡さんが、名札とファイルを照らし合わせて言った。
俺はしゃがみ、根津さんの探照灯の光を顔に寄せてもらった。崩れかけた瞼の下に、黒いものがある。
指先で、瞼を持ち上げた。
眼球の上に、黒い膜が貼りついていた。
つまむと、簡単に剥がれる。薄く、しなやかで、表面に何かの像がうっすら焼きついている。
フィルムだった。目の形に合わせて、丸く切ってある。
じいちゃんのポケットの、3切れのネガ。どれも、顔の前にかざせば、ちょうど目元が隠れる長さだった。
「見るためか。見ないためか」
「畑野さん?」
江崎さんの声ではない。根津さんだった。
「……いえ。何でもないです」
隊長がもう一枚を剥がし、ルーペで覗いてから、保存袋に収めた。
「何が写っているかは、ここでは分かりません。持ち帰りましょう」
鵜飼さんが、二人に向かって短く手を合わせた。
*
それからしばらく歩いたころ、背後の明かりが遠くなっているのに気づいた。
振り返る。根津さんと吉岡さんの探照灯が、ずいぶん後ろで揺れていた。
それが、角を曲がって見えなくなる。
「止まりましょう。二人を待ちます」
隊長が足を止めた。
「俺、見てきます」
「畑野くん、ここにいてください」
「若いの、そこを離れるな」
鵜飼さんの声を背中で聞いた。俺は、来た道を引き返していた。
何があっても、私に任せてください。
あの二人も、江崎さんのように。そうなる前に、確かめなければ。
角を曲がったところで、湿った音がした。
身を低くする。
先の暗がりで、二つの体が組み合っていた。
服で分かる。根津さんと、吉岡さんだった。
根津さんの裂けた顔から伸びた黒い触手が吉岡さんの頭に巻きつき、吉岡さんの腹から突き出た節足が根津さんの体に刺さっていた。
10分もかからずに、終わった。
二人とも、動かなくなった。
足音が、後ろから近づいてくる。
「畑野くん」
隊長だった。肩で息をしている。
その手の中で、小型のライトが点いた。白い光が、地面の二人を照らし出す。
「隊長、二人とも汚染されてて、化け物になって、殺し合ったんです。俺が来たときには、もう」
隊長の顔から、色が引いていった。
「手を出すなと、言いましたよね」
「出してない」
「畑野くん」
「出してないです。俺は、見てただけで」
「どうして、戻ったんですか」
「二人が、遅れてたから。確かめないとって」
鵜飼さんが追いついて、二人のそばにしゃがんだ。転がっていた探照灯を拾い上げ、スイッチを何度か押す。
もう一つも。
「灯りは壊れてる。どちらもだ」
灯りは、壊れていた。
じゃあ、俺は何を見てた。
右手が重い。
見下ろすと、石を握っていた。拳ほどの大きさで、表面が赤黒く濡れている。
いつから持っていたのか、思い出せない。
鵜飼さんが立ち上がり、何も言わずに、俺の手から石を取った。背を向け、通路の先の闇へ放り投げる。
遠くで、石が岩に当たり、転がっていく音がした。
*
二人を、その場に埋めることになった。
通路の脇の、柔らかい土を選んだ。隊長と鵜飼さんと俺で、エンピを使って掘る。
刃が何度も小石に当たって、乾いた音を立てた。
穴の底に二人を並べ、上から土をかける。
「深さは、これで足りますか」
「足りる。もう少し、上に盛ってやれ」
隊長が二人の荷物から食料と水を抜き、自分のザックに詰め直した。ファスナーを閉めかけて、手を止める。
噛み合わせに、糸くずが一本挟まっていた。
隊長はそれを指でつまみかけて、やめた。そのまま、ファスナーを引く。
「行きましょう」
俺はエンピの土を払い、刃を折りたたんで、腰に戻した。
3人で、また歩き出した。




