第四話 声のするテント
霜別山地の林道の終点で、作業着にダウンを羽織った男が待っていた。
60代くらい。日に焼けた首に、手ぬぐいを巻いている。
「鵜飼さん、ご無沙汰しています」
隊長が先に歩み寄って、頭を下げた。
「隊長、お知り合いですか」
「前に、この山の旧軍の地下施設跡を調べたとき、案内をお願いしたんです」
壺を拾った山守というのが、この人だった。
「あんたが、畑野先生のとこの若いのか」
鵜飼さんは俺を頭から足元まで眺めて、それだけ言った。
林の中を、しばらく歩いた。先頭で熊笹を分ける音が、途切れずに続く。
その鵜飼さんが、崩れた斜面の手前で足を止めた。
「ここから先、本気で入るのか」
「そのつもりです」
「前の隊は、何かあったんだろう」
誰も答えなかった。
「先生たちを案内したのも、俺だ。入っていく顔は見た。出てきた顔は、見てない」
鵜飼さんは帽子を脱ぎ、また被った。
「俺も下まで行く。連れて入った人間は、連れて帰る。それができないなら、ここから先は案内しない」
「鵜飼さん、中は調査区域です。部外の方の立ち入りは」
「鵜飼さんにも来てもらいましょう。道を知っている人が必要です」
江崎さんだった。記録用のタブレットを胸に抱えたまま、まっすぐ隊長を見ている。
「前の隊が中で何日迷ったのか、私の記録では空欄のままなんです。同じ空欄を、もう一つ増やしたくありません」
「同行するなら、入る前に署名が要ります。隊長、確認をお願いします」
吉岡さんが、背負っていた防水ケースを下ろした。
隊長はしばらく黙っていた。それから、ケースの中のクリップボードを取る。
「守秘義務の誓約書です。中で見たものは、外で一切話さないでください。それが条件です」
鵜飼さんは書類を受け取り、ボールペンで名前を書いた。誓約書の上の端に、クリップの跡が二つ、浅くへこんでいた。
これで、6人。
俺は腰のエンピの位置を直し、ザックの雨蓋の中にサングラスのケースがあるのを、外から手で確かめた。
*
崩れた斜面は、写真で見たよりずっと大きかった。
山の腹がえぐれて、その奥に黒い口が開いている。根津さんの探照灯が先頭を照らし、吉岡さんのが最後尾から足元を照らした。
洞窟の中は、進むほど冷えていく。
入口では背中に汗をかいていたのに、しばらく行くと、吐く息が白くなった。足音が壁に当たって、少し遅れて返ってくる。
「鵜飼さん。このあたりに、古い言い伝えみたいなものって、ありますか」
黙っていると、自分の足音ばかり耳につく。
「言い伝えなら、山ほどある」
「巨人とか。太陽を追いかけた話とか」
鵜飼さんの足が、半歩だけ止まった。
「年寄りは、この山を日伏山と呼んでた。日が伏せる山だ。地図には載ってない」
「日伏山。……海は、近いんですか」
「峠を越えれば、オホーツクだ。昔の人間は、北の海と言った」
北の海の辺に住む。古記の一行が、頭の中で、今いる場所に重なる。
「それ、記録していいですか。地名の由来として」
江崎さんがタブレットを構えた。
「ただの年寄りの呼び名だ。そう書いといてくれ」
さらに進んだところで、根津さんが手を挙げた。
「隊長、俺、ここで少し休みたいです。止まれますか」
「予定の地点まで、まだかなりあります」
「帰りの分も、水は要りますよね。歩きながら飲むと、残りの計算が狂うんで」
隊長は腕時計を見て、うなずいた。
「少しだけ休みます。荷物は下ろさないでください」
江崎さんは壁に貼った目印の番号を確かめ、記録をつけ終えてから、水筒の蓋を開けた。根津さんと吉岡さんも、喉を鳴らして飲んでいる。
俺は、それを見ていた。
水。
喉が渇いたら、水じゃないだろう。
……今、何を考えた。
慌てて自分の水筒を開け、一口含んだ。冷たい水が、喉を落ちていった。
*
途中で、骨を見つけた。
通路の脇に、太い骨が一本、半ば土に埋もれている。携帯に入れてある前の隊の集合写真と見比べた。
形も、太さも、同じに見える。
「ナウマンゾウの骨だな、こりゃ」
鵜飼さんが、探照灯の光の中で言った。
「この辺りじゃ、たまに出る」
「……そうかもしれません」
隊長が答えた。写真の話は、誰の口からも出ない。
その先の、天井の高い広場で、隊長が足を止めた。
「今日はここで野営します。入ってから8時間です。休めるうちに休みましょう」
テントは二つ。一つは江崎さん、もう一つを男5人で使う。
「探照灯は根津さんと吉岡さんが一つずつ、それぞれのテントの前に。見張りは男5人で交代します。最初は鵜飼さんと私、次が畑野くん、そのあと根津さん、吉岡さんの順で」
「その順番、記録しておきます」
江崎さんが書き終えるのを待って、吉岡さんが手を挙げた。
「俺の分の電池は確認しました。根津さん、そちらは?」
「満タン。予備も入ってる」
「江崎さんのテントの前、明かりをこっちに向けときますね」
「ありがとうございます。助かります」
寝袋に入る前に、俺はエンピを腰から外して、枕元に置いた。
*
「畑野くん、交代です」
肩を揺すられて、目を開けた。隊長が、テントの入口にしゃがんでいる。
「何もありません。向こうのテントも静かです。根津さんを起こすまで、お願いします」
「了解です」
「火は、絶やさないようにお願いします。寒いので」
「はい」
外に出ると、焚き火が小さく燃えていた。
二つの探照灯は光を絞って、それぞれのテントの前の地面を丸く照らしている。
ひひ、と声がした。
すぐ近く。耳のうしろあたり。
「誰だ」
振り向いても、誰もいない。焚き火のはぜる音だけが続く。
――ひ、ひひ。
今度は遠い。洞窟の奥なのか、天井なのか、分からない。
江崎さんのテントが、内側から揺れた。
「江崎さん?」
近づいて、声をかける。返事はなかった。
笑い声も、もう聞こえない。
聞き違いか。戻りかけたとき、爪先が探照灯の脚に当たった。
光の輪がずれて、まともにテントを照らす。
布が透けて、中の影が浮かんだ。
長い髪が肩に落ちている。膝を抱えて座る、人の形。
「……江崎さん。大丈夫ですか」
テントの中で、声がした。
助けて、と言ったはずの声が、俺には「来て」と聞こえた。
入口のジッパーに、手をかける。
隙間から指が伸びてきて、俺の手の甲に触れた。
冷たかった。濡れて、ぬるりと粘る。
その指を払おうとした手の先で、テントの布が、内側から縦に裂けた。




