第二話 空洞の目
じいちゃんの寝息が落ち着いたのを確かめてから、俺は家に帰らず、構内の研究所棟に寄った。
収蔵室の照明は、展示ケースの上に一つだけ点いていた。
ガラスの中に、例の壺がある。
緑青の浮いた肌に、文字らしい刻みが二行。どの字典にも載っていない形で、研究所の誰も、まだ一文字も読めていない。
文字の横に、あの像がいる。
太い線で彫られた体に、盛り上がった肩と、高く上げた頭。
えぐれた目の窪みには、墨のように黒い石が二つ、はめこまれていた。
石は、光を少しも返さない。
見ているうちに、像の顔が動いた気がした。
窪みの縁から黒いものが垂れて、頬を伝う。口の両端が、頬の肉ごと上へ引き上げられていく。
笑っていた。
「その壺、もとは中身が入っていたそうです」
背中から声がして、肩が跳ねた。
入口に、溝口さん――隊長が立っている。ガラスに目を戻すと、黒い石はただの石だった。
「隊長。……中身、ですか」
「拾った山守の方の話では、底に琥珀色の、膠のようなものが溜まっていたと。揮発が早くて、こちらに届いたときにはほとんど残っていませんでした」
「何だったんですか、それ」
「まだ何とも。底に残っていたわずかな分を、分析に出しています」
「出してから、もう何週間も経ってますよね。検査で分かったのは、どこまでですか」
「畑野くん、その点はまだ確認が取れていません。追加の検査中で、今週中には返事が来ます。……出発は来週です。今週は休んでください」
「隊長。あの目の石は、出てきたときから嵌まっていたんですか」
「出土時からです。外してみようと言い出した人間は、まだいません」
隊長が出ていってから、携帯で前の隊の資料を開いた。
洞窟の中の集合写真。笑っている隊員たちの足元に、大腿骨が一本横たわっている。
長さは3メートル近く、人が抱えても腕が回りきらないほど太い。
人類の進化の枝。じいちゃんの最後の報告にあった言葉を、口の中で転がした。
その夜は睡眠薬を二錠飲んで、ようやく眠った。
*
朝、病院から電話が来た。
通された小部屋で、監視カメラの映像を見せられた。担当の職員が、早送りのボタンに指を置いている。
「先生は、日付が変わるころから窓の前に座っておられました」
早送りの間も、画面の中の背中は形ひとつ変わらなかった。
「ここからです」
「音は、出ますか」
「出ます。上げましょうか」
「お願いします」
職員が再生速度を戻した。隅の時刻表示は、5時を少し回ったところだった。
じいちゃんが立ち上がり、窓に打ちつけてあった遮光板に指をかける。爪で、一枚ずつ剥がしていく。
窓の外が、白みはじめていた。
「止めましょうか」
「続けてください」
朝日が昇るにつれて、じいちゃんの顔が少しずつ上を向いていく。光をまともに受けた頬が引きつり、口元が歪む。
涙が流れているのが、粗い画面でも分かった。
それでも、目を逸らさない。
太陽が山の端を離れたあたりで、その顔から力が抜けた。眉が開き、口元がほどけて、穏やかな寝顔のような表情になる。
じいちゃんの両手が、自分の目へ上がった。
「畑野さん」
「続けてください」
スピーカーが割れた音を立てた。じいちゃんが笑っている。
「見えなくなった。もう見えんぞ。わしが見えんだろう。ははは、ははははは」
机に上り、ベッドの下にもぐり、ロッカーに体ごとぶつかる。止まらない。
そのうち、画面から消えた。
いきなり、レンズの真ん前に顔が来た。画面いっぱいのじいちゃんの顔。
目のあったところが、暗い。
唇が動く。
「太陽を、直視するな」
そう言ってから背を向け、窓の外へ出ていった。
映像は、そこで終わり。
職員が停止ボタンを押すまで、俺はもう何も映っていない窓枠を見ていた。
*
昼過ぎ、研究所の会議室に、調査隊の5人が呼ばれた。
隊長が、届いたばかりの書類を机に置く。
「壺の残留物の結果です。人体由来の組織液。眼球が溶けたもの、と考えられるそうです」
「眼球」
口に出したのは、俺だった。
「その『人』に、巨人も含むんですか」
江崎さんが、ペンを止めずに訊いた。
「私が答えられるのは、検査で確かめた範囲だけです。種までは特定できていません」
「でも、もし巨人のものだったら、とんでもない発見ですよ」
根津さんが身を乗り出した。隣の吉岡さんは、手元の装備リストから顔を上げない。
「サンプルの採取手順、追加になりますか。容器の数を確認しておきたいので」
俺は書類の「眼球」の二文字を見ていた。画面の中で、じいちゃんの両手が上がっていく。
席を立ったのは、俺が最初だった。
*
研究所の玄関を出ると、日差しが顔に当たった。
見上げる。
子どもの頃から何度も見てきた、白い太陽。縁に金色がにじんでいる。
これを、見てはいけない理由が分からない。
目の奥を針で刺されたような痛みが来て、俺は顔を下ろした。
駅へ続く商店街の眼鏡店の前で、足が止まった。店先の台に、サングラスが並んでいる。
「よろしければ、おかけになってみてください」
若い女性の店員が、ガラス戸から出てくる。
「いや、いいです。これをください」
手近な一つを指さした。黒いフレームの、どこにでもある形。
「ありがとうございます。お包みしますね」
店員が台からサングラスを取り上げ、つるを畳んで、レンズを伏せたまま手のひらに載せた。
その袖口から、何かがこぼれた。
白い紐。濡れた紐が何本も這い出して、サングラスのつるに巻きつく。
先端が、ひくひくと開いては閉じる。
後ずさった踵が、段差を踏み外した。尻もちをつく。
「お客様?」
店の奥から、スーツ姿の店長が出てきた。
「その人、その――」
「この子が、何か」
店長は首をかしげ、それから店員のほうへ後頭部を突き出した。
「ちょっと見てくれる? 頭の後ろがむずむずしてね」
「はい、店長」
白い紐が、店長の頭に伸びた。生え際に先端を差しこみ、頭の皮を蓋のように持ち上げる。
その下に、目があった。7つ。
黒い葡萄の房みたいに寄り集まって、ばらばらに瞬いている。
「何もついてませんよ」
店員の口の端から、白く細い舌が覗いた。
「そうか。気のせいかな」
店長が後頭部を掻くと、皮膚が剥がれて指についてきた。それを床へ捨て、しゃがんで俺の顔を覗く。
顔の真ん中で、渦を巻いた口が開いては閉じる。
「お客様、大丈夫ですか」
俺は跳ね起きて、通りへ走り出た。
日差しが、背中に温かかった。
「お客様、お客様! サングラス!」
追いかけてくる足音に、振り向く。
息を切らした店長が立っていた。四角い顔に、少し腹の出たスーツ。
手には紙袋。店の前では、20代半ばくらいの店員がこちらを見ている。
どちらにも、おかしなところは何一つなかった。
「お忘れですよ。それと、お代がまだで」
*
「……すみません。いただきます」
携帯で、店長が差し出したコードを読み取る。一緒に渡されたレシートは巻き癖がついていて、手のひらの上で勝手に丸まった。
店長は頭を下げて、店へ戻っていった。
人の流れは何も変わっていない。目をこすって、寝不足のせいだと思うことにした。
風が冷たくなってきた。紙袋を脇に挟んで、両手を上着のポケットに突っこむ。
右の指先に、硬いものが当たった。
円筒形。ポケットの底にちょうど収まる大きさで、ねじ式の蓋がついている。
こんなものを入れた覚えはなく、この上着を前に着たのは昨日の夜だ。
じいちゃんの病室だった。




