第一話 消灯の病棟
暗視ゴーグルは、思っていたより重かった。
ゴムのバンドが後頭部に食いこむ。担当の職員が俺の背後に回って、留め具をもう一段締めた。
「畑野さん、中では絶対に外さないでください。照明は全部落とします」
「祖父の顔を見るだけです。手元の灯りくらいは」
「駄目です。先生は光に、ひどく反応されるので」
マスクの上で、職員の目が廊下の奥へ動いた。
突き当たりの個室だけ、ドアの小窓に黒い紙が貼ってある。その端が一か所めくれていて、廊下の明かりが細い筋になって室内へ落ちていた。
筋のきわに、じいちゃんがいた。
ベッドの上ではなく、床。壁に背中をつけて座り、顔の前に細長い帯のようなものをかざしている。
黒い縁の帯。その向こうの顔が、まっすぐドアのほうを――俺のほうを向いていた。
「祖父は、ずっと床に?」
「ベッドは嫌がられるんです。窓から遠い場所のほうが、落ち着かれるようで」
「消します」
職員が壁のパネルに触れる。天井の蛍光灯が手前から順に落ちていき、最後に、小窓の筋が消えた。
ゴーグルの中で、廊下が緑色に浮かび上がる。床のリノリウムの継ぎ目が、白い線になって奥へ延びていた。
「鍵を取ってきます。ここで待っていてください」
職員の足音が遠ざかる。
*
ゴーグルをつけたままでは、資料も開けない。中身は、もう頭に入っている。
3か月前、北海道の東にある霜別山地で、一週間雨が降り続いた。
斜面の一つが崩れ、山の腹に大きな空洞が口を開けた。奥は、どこまで続くか分からない洞窟につながっていたという。
雨が上がってから見回りに入った地元の山守が、崩れた土砂の中から壺を一つ拾った。
青銅の壺。文化庁を経由して、大学附属・北域文化研究所――俺の勤め先に回ってきた鑑定の結論は、一行だった。
既知のどの文明にも属さない。
資料の一枚目に、その写真がある。胴に彫られた人の像。
肩の筋肉が盛り上がり、頭を高く上げているのに、目のところだけが深くえぐれて、空洞になっている。
調査隊を組んだのは、じいちゃんだった。名誉教授の畑野が自分で現地に入ると言い出したとき、止められる人間は研究所にいなかった。
3日目に、短い連絡が入る。
――巨人と思われる骨格を確認。人類の進化の枝の可能性あり。
そこで、通信が切れた。
次に隊の消息が届いたのは、それから10日後のことだ。帰り道のあちこちで、隊員たちは自分の目を抉り、背中を上にして、土の中へ自分から潜っていた。
息のあるうちに掘り出されたのは、じいちゃん一人。
ほかに二人が、まだ見つかっていない。
*
鍵の回る音がした。
戻ってきた職員がドアを押さえ、俺だけを中へ通す。
「じいちゃん。来たよ」
部屋の隅で、何かが動いた。
痩せた背中。床に座りこんだまま、首だけが右へ、左へ、何かを探すように振れている。
さっき手にしていた帯は、どこにも見当たらなかった。
「……崇か」
「うん、俺」
ゴーグル越しのじいちゃんの顔は、目のところだけが黒く抜けていた。緑一色の中に、穴が二つ。
本当に穴なのか、暗すぎてゴーグルの画素が潰れているだけなのか。この距離では、決められなかった。
「じいちゃん、俺、霜別に行くことになった。新しい調査隊に、自分で手を挙げたんだ」
首の動きが止まる。
「行くな」
「隊長は溝口さんだよ。じいちゃんの教え子の。装備も、前よりずっと」
「崇、わしの話を聞け。そこへは行くな」
「じゃあ教えてくれ。あそこで何があった。骨を見つけて、そのあと何を見たんだ」
答えはない。じいちゃんの肩が、細かく上下している。
「資料の最後のページに、じいちゃんの字で一行だけ書いてあった。太陽を直視するなって。あれは、どういう――」
床を蹴る音。
痩せた体が、思っていたよりずっと速く、俺の胸にぶつかってきた。
腕が背中に回る。骨ばった指が、上着の生地を握りしめた。
耳のすぐ横に、乾いた息がかかる。
「みんな汚染されている」
じいちゃんの顔は、俺の顔の真正面にあった。額と額が触れそうな距離で、黒く抜けた二つの穴が、俺だけを向いている。
「誰も信じるな」
背中を掴んでいた手が、ずるりと下へ降りた。脇腹を過ぎて、上着のポケットのあたりで止まる。
しばらく、そのまま動かなかった。
「誰もって……溝口さんも? 研究所の人たちも?」
「太陽を直視するな」
「じいちゃん」
「崇。お前は」
*
じいちゃんは、言いかけたまま俺から離れた。
二歩、後ろへ下がる。それから膝を折り、床へうつ伏せに倒れこんだ。
両腕と両脚を、いっぱいに広げて。
大の字だった。資料の中で掘り出された隊員たちと、同じ形。
背中を天井に向けたまま、じいちゃんは笑いはじめた。喉の奥でこすれるような、引きつった声。
「ひ、ひひ……ひひひ」
泣いているのと区別がつかない。
「先生!」
ドアが開いて、職員が二人駆けこんできた。一人がじいちゃんの肩を押さえ、もう一人が袖をまくる。
「畑野さん、下がってください。鎮静剤を入れます」
「待ってください、まだ話の途中で」
「下がって」
「先生、聞こえますか。少し、ちくっとしますよ」
床に頬を押しつけたまま、じいちゃんの口が動いていた。笑い声の切れ目に、言葉が混じる。
「崇……お前も、もう――」
針が入る。
広げられていた指が、床から一本ずつ浮いて、緩んでいった。




