九 狂言「七哲」
堺の浜に近い外れに、暖簾ばかりが古い店がある。
名は、ない。みな「あの店」と呼ぶ。
天正十九年の、正月である。
止まり木の端では、貧乏神が火鉢を抱くようにして、寒い寒いと言うている。正月であるから、道理である。道理であるが、それにしても、火にいちばん近い者がいちばん寒がるのは、毎度のことながら妙である。
隅の暗がりでは、黒い椿を髪に挿した女が、袱紗の碗で黙って飲んでいる。
その晩は、お供衆の寄り合いであった。
名だたる茶頭七人——世に言う七哲のお歴々の、草履取りやら小者やらが、主の留守に集まって、正月の酒である。
主の自慢は、供の商売。酒が三巡もすれば、始まった。
「なんと言うても、うちの殿よ。九十二万石の大身にして、お茶頭一の弟子」
「石高で茶が点つか! 茶は手前よ。うちの殿の点前は、お師匠様が向こう三年見んでも崩れぬと仰った」
「うちの殿など、南蛮の神まで捨てかねて、茶だけは捨てなんだわ」
「うちの殿は柄杓が長い」
「……それは自慢か」
「自慢じゃ」
そもそも七哲とは誰と誰か、で揉め出した。数えると、その座の主だけで九人になったからである。
センセが、盃を置いた。
「江岑の書によれば」
と、帳面をめくる手つきで宙をめくり、すらすらと七人の名を挙げた。
二人の供が、がっくりと肩を落とした。その書がいつの世に書かれるものかは、誰も問わなかった。この店では、誰も問わぬ。
「されば序列じゃ」とセンセは続けた。「まず石高。次に、お師匠様よりの書付の数。数えるに——」
「待て待て。跡継ぎの器を、書付の枚数で数えるやつがあるか」
「では何で数える」
「それは……その、心よ」
「心は、数えられぬ」
「数えられぬものを、どう比べる」
誰も答えられなかった。答えられぬまま、酒だけが減った。
「碗なら比べられるぞ」と、織部様お抱えの下人が胸を張った。「うちの殿の碗なら、そこの棚にもある」
一同が、棚を見上げた。
歪んだ緑の碗が、欠けた徳利の間に、ぬうと収まっている。
「……あれか」
「あれじゃ」
「…………」
「いまに分かるわ!」
女は、その晩、よく注いだ。
誰の盃も、底を見せる暇がなかった。減った端から、す、と満ちる。
「今夜の姐さんは、注ぎがいいのう」
「正月ですから」
それだけである。正月だから注ぐ。理屈は通っている。通っているから、誰も、それ以上のことを思わなかった。
火鉢の端では、爺の寒がりようが、だんだんと募っていた。炭は足りている。足りているのに、爺は袖の中へ、首の埋まるだけ埋まって、骨の芯から来るような声で、寒い、寒い、と繰り返す。
「御隠居、正月の寒さは今が底じゃ。二月にもなれば緩む」
誰かが言うと、爺は袖の奥から、妙な目でその男を見た。何か言いかけて、やめて、また、寒い、と言うた。
夜も更けた時分、ふと、誰かが言うた。
「——して、お師匠様ご本人は、近頃いかがなされておる」
座が、止まった。
思えば、誰の主も、この正月、聚楽第の話をせぬ。あれほど自慢の種にした茶会の話が、ぱたりと出ぬ。言われて初めて、供たちは、そのことに気がついた。
誰も、何も知らなかった。知らぬということだけが、九人ぶん、そこに並んだ。
「……ま、正月じゃ! お忙しいのであろうよ!」
「そうよ、正月じゃ!」
笑いが戻って、盃が回って、話は掃部様の柄杓の長さに戻っていった。
やがて夜が明ける前に、供たちはめいめいの主の屋敷へ、千鳥足で帰っていった。
女が、火鉢に炭を足した。
隅の暗がりで、椿の女が、碗を伏せる小さな音がした。
爺が、言うた。
「寒い」
〽今年もめでたと汲む酒の
底に沈むは去年の澱
知らぬが仏 飲むが極楽
なう 注いでおくれ




