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創作能楽小説 『銘 黒椿』 翁付き五番立て  作者: 堀吉 蔵人


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7/11

七 狂言「ひょうげ」


 堺の浜に近い外れに、暖簾ばかりが古い店がある。

 名は、ない。みな「あの店」と呼ぶ。


 止まり木の端では、今宵も貧乏神が寒い寒いと言うている。冬の入りである。今度ばかりは、道理である。

 隅の暗がりでは、黒い椿を髪に挿した女が、袱紗(ふくさ)の碗で黙って飲んでいる。

 センセの止まり木は、空いている。


「センセはどうした」

「読む本がない晩は、来ないんですよ」


 女はそう言うたが、誰も深くは聞かなかった。


 その晩、転がり込んできたのは、どこぞのお屋敷の下人であった。

 銭がない。だが飲みたい。よくある話である。よくある話の常で、懐から風呂敷包みが出てきた。


「酒代のカタじゃ。殿さまの手慰みの、しくじりものを頂戴してきた」


 包みを解くと、茶碗が出た。

 座が、しんとした。


 歪んでいる。

 沓のかたちに、ぐにゃりと歪んでいる。口はうねり、腰はねじれ、緑の(うわぐすり)が片側にだけ、なだれのように流れている。


「……焼き損ないか」

「焼き損ないじゃな」

「いや、待て」


 待ったのは、痩せた唐物(からもの)屋である。玉柏の一件このかた、心の目利きを自称している男だ。


「歪みも景色、と言うてな。近頃のお数寄(すき)はこういうのを」

「こういうのを、何とする」

「……何とするのであろうなあ」


 大工が碗を取り上げ、ためつすがめつした。


「轆轤の芯がぶれとる。わしなら直せる」

「直してどうする」

「まっすぐになる」

「まっすぐになったら、ただの碗じゃ」

「ただの碗の、何が悪い」


 誰も答えられなかった。こういう時に限って、センセが居ない。帳面に書いてあることなら、いくらでも聞けたものを。


 試しに、と碗は座を回された。

 唐物屋が持てば、指の置き場がない。大工が持てば、重心が逃げる。回れば回るほど、碗は誰の手の内でも、座りどころを探してもぞもぞした。


 しまいに貧乏神のところへ回ってきた。

 爺は、注いでもらった酒を、その碗で飲もうとした。

 うねった口の、思わぬところから、酒が手の甲へこぼれた。


「……寒い」


 こぼれた酒は、寒いのである。

 座がどっと笑い、爺の一言はそれきり流れた。


「しかしなぜ、わざわざ歪ませるかなあ」


 誰かが言うた。もっともな問いである。もっともな問いには、たいてい答えがない。


 女が、碗を引き取って、布で拭いていた。


「——まっすぐ立てない晩ってのが、あるんでしょ」


 酔うた誰かの話だと、みなは笑った。酔うた誰かの話である。それは間違っていない。どこの誰が、どの晩に、どの盃の底で漏らした話かを、女は言わなかっただけである。


 唐物屋が、割れ物の値で引き取ろう、と切り出した。下人は喜んだが、いざ渡す段になって、唐物屋の手の中で碗がまた、座りどころを失ってもぞりとした。


「……やめておく。わしの手には、合わぬ」


 結局、碗は酒代のカタとして、店に残った。

 女が棚に置きにいくと、欠け茶碗が抜けたあとの隙間に、歪んだ碗は、ぴたりと収まった。

 誰の手にも収まらなかったものが、棚の欠けには、収まるのである。


 貧乏神が、棚を見上げて、ぽつりと言うた。


「あれは、いつか高うなるよ。前に見た。……いや、先に見たのか」


 誰も聞いていなかった。


 隅の暗がりで、椿の女が、伏せた碗の上に手を置いたまま、棚の歪みを長いこと見ていた。


〽まっすぐばかりが道かいな

 ゆがんだ碗にも湯は入る

 入れて漏るのはご愛嬌

 なう 世も漏るものを

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