七 狂言「ひょうげ」
堺の浜に近い外れに、暖簾ばかりが古い店がある。
名は、ない。みな「あの店」と呼ぶ。
止まり木の端では、今宵も貧乏神が寒い寒いと言うている。冬の入りである。今度ばかりは、道理である。
隅の暗がりでは、黒い椿を髪に挿した女が、袱紗の碗で黙って飲んでいる。
センセの止まり木は、空いている。
「センセはどうした」
「読む本がない晩は、来ないんですよ」
女はそう言うたが、誰も深くは聞かなかった。
その晩、転がり込んできたのは、どこぞのお屋敷の下人であった。
銭がない。だが飲みたい。よくある話である。よくある話の常で、懐から風呂敷包みが出てきた。
「酒代のカタじゃ。殿さまの手慰みの、しくじりものを頂戴してきた」
包みを解くと、茶碗が出た。
座が、しんとした。
歪んでいる。
沓のかたちに、ぐにゃりと歪んでいる。口はうねり、腰はねじれ、緑の釉が片側にだけ、なだれのように流れている。
「……焼き損ないか」
「焼き損ないじゃな」
「いや、待て」
待ったのは、痩せた唐物屋である。玉柏の一件このかた、心の目利きを自称している男だ。
「歪みも景色、と言うてな。近頃のお数寄はこういうのを」
「こういうのを、何とする」
「……何とするのであろうなあ」
大工が碗を取り上げ、ためつすがめつした。
「轆轤の芯がぶれとる。わしなら直せる」
「直してどうする」
「まっすぐになる」
「まっすぐになったら、ただの碗じゃ」
「ただの碗の、何が悪い」
誰も答えられなかった。こういう時に限って、センセが居ない。帳面に書いてあることなら、いくらでも聞けたものを。
試しに、と碗は座を回された。
唐物屋が持てば、指の置き場がない。大工が持てば、重心が逃げる。回れば回るほど、碗は誰の手の内でも、座りどころを探してもぞもぞした。
しまいに貧乏神のところへ回ってきた。
爺は、注いでもらった酒を、その碗で飲もうとした。
うねった口の、思わぬところから、酒が手の甲へこぼれた。
「……寒い」
こぼれた酒は、寒いのである。
座がどっと笑い、爺の一言はそれきり流れた。
「しかしなぜ、わざわざ歪ませるかなあ」
誰かが言うた。もっともな問いである。もっともな問いには、たいてい答えがない。
女が、碗を引き取って、布で拭いていた。
「——まっすぐ立てない晩ってのが、あるんでしょ」
酔うた誰かの話だと、みなは笑った。酔うた誰かの話である。それは間違っていない。どこの誰が、どの晩に、どの盃の底で漏らした話かを、女は言わなかっただけである。
唐物屋が、割れ物の値で引き取ろう、と切り出した。下人は喜んだが、いざ渡す段になって、唐物屋の手の中で碗がまた、座りどころを失ってもぞりとした。
「……やめておく。わしの手には、合わぬ」
結局、碗は酒代のカタとして、店に残った。
女が棚に置きにいくと、欠け茶碗が抜けたあとの隙間に、歪んだ碗は、ぴたりと収まった。
誰の手にも収まらなかったものが、棚の欠けには、収まるのである。
貧乏神が、棚を見上げて、ぽつりと言うた。
「あれは、いつか高うなるよ。前に見た。……いや、先に見たのか」
誰も聞いていなかった。
隅の暗がりで、椿の女が、伏せた碗の上に手を置いたまま、棚の歪みを長いこと見ていた。
〽まっすぐばかりが道かいな
ゆがんだ碗にも湯は入る
入れて漏るのはご愛嬌
なう 世も漏るものを




