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創作能楽小説 『銘 黒椿』 翁付き五番立て  作者: 堀吉 蔵人


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6/11

六 阿国


〽水にうつろふ影なれや

 水にうつろふ影なれや

 流れて舞の跡もなし


 川風が、化粧の上を渡っていく。


 四条の河原に、うちは立っている。

 掛け小屋の裏、(むしろ)一枚の楽屋である。表では囃子(はやし)が、人を集める鳴り物を打っている。人は、もう十分に集まっている。集まりすぎて、橋の上まで鈴なりである。


 うちは、男の姿をしている。

 髪を束ね、太刀を落とし差しにして、胸には南蛮の飾りを提げた。異風である。(かぶ)いている。

 女が男になって、男が茶屋の女になって、それを巫女あがりが踊る。

 出雲では、こうはいかなかった。


 うちの舞は、神さまに向けて舞うものだった。

 拝殿の板の上、見るのは神さまだけ。人は、うしろから覗くだけのもの。

 ややこ踊りと人は呼んだ。童の踊りである。童のうちは、それでよかった。

 童でなくなった日から、うちの舞は、行き場をなくした。


 神さまは、大人の女の舞を、受け取ってくださらぬらしい。

 ならば、人に向けて舞うまでのこと。


 それが、どれほどのことか、うちは知っている。

 奉納が、興行になる。祈りが、銭になる。

 誰かが最初に、その橋を渡らねばならぬ。渡れば、もう戻れぬ。

 渡るのが、今日である。


 出囃子が変わった。


 舞台に出ると、光が違った。

 神前の光は、上から降る。河原の光は、人の目から来る。何千という目が、いっせいにこちらを向いて、それがひとつの、大きな熱いものになって押し寄せてくる。

 ああ、これは。

 これは、神さまより飢えている。


(かぶ)くや袖も刀も(かぶ)きて

 男は女、女は男

 呼べば出でくる死人さへ

 浮かれ出でたる河原かな

 まことも嘘も舞のうち


 うちは、茶屋のかかを呼ぶ段を踊った。

 死んだ男を呼ぶ段も踊った。名を呼べば、囃子の向こうから、死んだはずの伊達男が出てくる。作り事である。作り事と、みなが知っている。知っていて、人垣の女たちが泣いた。

 死んだ人間を舞台に呼び戻すなど、能楽のお家芸ではないか——と、あとで笑った者がいたそうな。笑えばよい。生まれたての芸は、みな親の癖を持って生まれる。


 舞いながら、うちは知っていた。

 この舞は、今日しかない。

 明日には、真似が出る。河原の向こうの小屋が、遊女屋が、装束ごと写すであろう。うち自身が、明日、今日のうちを真似るであろう。

 二度目からは、ぜんぶ真似である。

 最初の一度だけが、真似ではない。

 その一度が、いま、囃子の間を流れて、消えていく。惜しいとは思わぬ。舞とは、そういうものである。水の上に字を書くのと、同じことである。


 舞い納めて、面を上げた。


 人垣が、どっと沸いた。

 その手前——掛け茶屋の縁台に、茶碗を干す女がひとり、見えた。

 一服一銭(いっぷくいっせん)の、いちばん安い茶である。

 黒い椿を、髪に挿していた。

 飲み干して、碗を伏せて、置いた。


 それだけのことが、なぜか、静かに幕の引かれたように見えた。


 人垣の中に、酌取り女の顔もあった。芝居の中の茶屋のかかと、よく似た顔をして、こちらを観ていた。どちらが写したのか、うちには分からぬ。

 橋のたもとの祠に、誰かが灯を入れた。水の神さまの祠である。川面が、ひとしきり、楽の音のように鳴った。


 うちの終わりを、誰も書かぬであろう。

 どこで生まれたかも、諸説。どこで死ぬかは、無説。それでよい、と思うている。

 舞は、観た人の中でしか生きぬ。観た人が死ねば、舞も死ぬ。書けば残る、と言う人もあるが、書かれた舞は、舞ではない。字である。


 今日の最初の一度は、誰の中に残ったやら。

 川風が、化粧の上を渡っていく。汗が、ひいていく。

 もう一幕ある。ここからは、真似である。

 精いっぱいの真似を、して見せようぞ。


〽一度きりとは知りながら

 二度目を舞ふが芸の道

 水の上ゆく文字なれば

 なう 誰ぞ読みしや

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