三 狂言「無銘」
堺の浜に近い外れに、暖簾ばかりが古い店がある。
名は、ない。みな「あの店」と呼ぶ。
あの店で通じるのだから、名などいらぬ。
止まり木の端では、貧乏神が寒い寒いと言うている。夏である。
隅の暗がりでは、黒い椿を髪に挿した女が、黙って飲んでいる。
どちらも、誰も気に留めぬ。この店の、暖簾のようなものである。
その晩、戸を蹴破らんばかりに入ってきたのは、近ごろ成り上がりで名高いお武家であった。
「名物を買うぞ」
挨拶より先に、そう言うた。
聞けば、月末に茶会を開く。呼ぶのは、身分でいえば呼べぬはずのお歴々。それを碗ひとつで座らせてみせる、という肚である。
「センセ。名物とは、どこで見分ける」
センセと呼ばれた男は、盃を置き、帳面をめくる手つきで宙をめくった。
「まず、銘。次に、由緒。次に、箱書き」
「肝心の碗は」
「碗?」
センセは、心底ふしぎそうな顔をした。
「碗など、見てどうなさる」
それから講釈が始まった。君台観に載るが第一、東山殿の御物とあらば申し分なし、極めは能阿弥ならば筆の癖はかようかようで、南方録にも曰く——その書がいつの世のものかは、誰も問わなんだ。この店では、誰も問わぬ。
女は、注いで回るばかりである。
三日ののち、お武家は箱を捧げ持って戻ってきた。
「買うたぞ! 東山殿御物、能阿弥極め、箱書き付きじゃ!」
店じゅうが沸いた。センセは由緒書きを押しいただき、一行ごとに膝を打った。
「帳面の通りじゃ。いや見事、寸分違わず、帳面の通りじゃ!」
寸分違わぬはずである。書いた者が、同じ帳面を写したのだから——とは、誰も言わぬ。
言えるとすれば、それは五日前の晩、この止まり木で売り主が酔うて、箱書きはな、ゆうべわしが書いたんや、と誰にともなく自慢するのを、酌をしながら聞いていた者だけである。
女は、箱を手に取り、灯りに傾けた。
「……いい墨の色」
「であろう!」
お武家は胸を反らせた。女は、それ以上は何も言わず、酌をした。
「して、茶会ではこれで一服振る舞うのだな」
誰かが言うと、センセが血相を変えた。
「ならぬならぬ。使えば値が落ちる。名物は、箱のまま床に飾って、由緒書きを読み上げるものじゃ」
なるほど、とお武家は深くうなずいて、碗を仕舞うた。
あの碗は、この先一生、湯の味を知らぬのであろう。
祝いじゃ祝いじゃと酒が回り、夜が更けて、みなが帰った。
女が皿を下げに行くと、隅の暗がりで、椿の女が碗を返してよこした。いつもの、店の雑器である。縁は厚ぼったく、釉はむらで、誰が焼いたかも知れぬ。
それが、その晩この店にあったどの器よりも——箱の中のあれよりも——良い顔をしていた。
毎晩、湯と酒を知っている顔である。
女は、その碗を取らなかった。
「あんたの手に、なじんでしまったから」
持っておいき、と碗を押し返した。
椿の女は一礼して、暖簾を出ていった。
名のない店から、名のない碗が、旅に出た。
止まり木の端で、貧乏神がひとこと、寒い、と言うた。
夏である。
〽名は千両よ 箱は万両
湯を知らぬ碗の あわれさよ
名無しは今宵も 酔うたる顔で
なう よい顔よ




