二 珠光
〽春浅み雪の下なる椿かな
春浅み雪の下なる椿かな
落ちてぞ色はまさりける
客は、約束なしに来た。
春とは名ばかりの、底冷えのする朝であった。
庭の椿が、ひとつ、ふたつ、落ちはじめた頃おいである。
案内も乞わず、女はにじり口の外に膝をついて、茶を一服、と言った。
黒い椿を、一輪、髪に挿していた。
わしは問わなかった。
どこの誰か。何用か。
炉の湯は、ちょうどたぎっていた。
それで足りる。
湯のたぎる音を、松風と呼んだのは誰であったか。
耳を澄ませば、あれはたしかに、遠い松山を渡る風の音がする。
風は吹きながら、古いものを運んでくる。
奈良の在の生まれである。
寺に入れられ、寺を出た。
経よりも、茶が好きであった。
あの頃の茶は、賭け事であった。
本非を飲み当て、唐物を並べ、風呂を焚き、酒が出た。
座敷には、宋の絵。棚には、天目。
どれもまばゆく、どれもよそよそしかった。
まばゆいものばかり見ていると、目は、だんだんと飢えてくる。
その飢えの名を、わしは長いこと知らなんだ。
大徳寺に、恐ろしい坊主がいた。
茶をいかに心得るや、と問われた。
わしは、点てて見せた。
精いっぱいの、それは見事な点前であったと思う。
坊主は、鉄如意をふるって、碗を打ち砕いた。
膝の前で、湯気が畳に沁みていった。
割れた碗のかけらが、ばらばらの白い光をしていた。
不思議と、腹は立たなんだ。
ただ、砕けた碗のあったところに、ぽっかりと、何もない場所が空いて——
その何もないところが、座敷じゅうの唐物のどれよりも、深く見えた。
〽割れて砕けて散りぢりに
白き光は失せながら
失せてのちに残るもの
器ならざるうつろこそ
底ひも知らぬ深さなれ
わしの茶は、あの何もないところから始まった。
坊主は後に、一幅の墨蹟をくれた。
圜悟の筆である。
わしはそれを、花を飾るはずの床に掛けた。
花の代わりに、字を。
まばゆさの代わりに、黒い痕を。
人は笑うたが、あの黒い字の前で湯がたぎると、四畳半が、山寺ほどにも広くなった。
女は、にじり口をくぐって、座についていた。
所作に、音がなかった。
わしは碗を取った。
いつもの碗である。
青磁は青磁でも、火の甘い、出来損ないの青磁。
肌は曇り、釉は薄く、枇杷の色に濁っている。
唐土では捨て値の碗であろう。
だが、雲ひとつない月ばかりが月ではあるまい。
曇りを抱いた碗の底で、茶はいちばん深い緑になる。
点てた。
わしの一生ぶんの、なんの変哲もない一服である。
女は、押しいただいて、飲んだ。
その飲みようを、わしはうまく言えぬ。
ただ、湯の最後のひとしずくまで、余さず受け取られた、という心地がした。
碗の中だけではない。
この四畳半の、囲炉裏の炭の、庭に落ちた椿の、わしの来し方の——最後のひとしずくまで。
軽く、なった。
肩の荷を下ろしたというのとも、違う。
書き終えた文を、たしかな飛脚に手渡したときの、あの軽さに似ていた。
「よい茶でございました」
女はそれだけ言うて、碗を返し、にじり口を出ていった。
名は、ついに聞かなんだ。
聞けば、この一服が、二度あるものになってしまう気がした。
庭を見ると、椿がまた一輪、落ちるところであった。
枝を離れてから土に着くまでの、そのあいだの黒を、わしは長いこと見ていた。
碗を、洗った。
棚に、戻した。
わしが死ねば、これはまた、ただの出来損ないの青磁に戻るのであろう。
わしの見た深い緑は、誰の目にも映らぬまま、どこへともなく消えるのであろう。
それで、よい。
湯は、まだ鳴っている。
松風の運んでくるものを、わしはもう、追わぬことにした。
〽なにせうぞ
まばゆきものは目の飢ゑよ
曇りて深き碗ひとつ
一期は夢よ ただ汲め




