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坂井の家

翌朝、湊とナギは再び深守へ向かった。


昨日は日が落ちる直前まで山にいたため、二基目の印を確認したところで調査を切り上げている。


分かったことは多くない。


深守の家々は、過去にそれぞれ場所を変えていた。


そして二基の印は、現在の深守の境にも、古い地図から推測できる境にも一致しない。二基目に至っては、その先にも深守の旧宅が存在していた。


研究者自身も最後には、


《境標という仮称自体、再考を要す。》


と残していた。


だから今日は、印から離れることにした。


先に調べるべきなのは深守そのものだ。


「昨日の人、いるかな」


助手席でナギが言った。


「軽トラのおじさん?」


湊が聞き返すと、ナギはうなずいた。


「うん」


「名前聞いてないからな」


昨日は日暮れ前だったこともあり、ろくに話を聞けなかった。だが坂井家の場所は教えてもらっている。


谷を挟んだ反対側。


旧宅跡から徒歩で十二分。


二十一年前の研究者がそう記録した場所と、老人が指した方向は一致していた。


深守へ入る。


昨日は不気味に感じた《深守地区》の掲示板も、朝に見るとただの古びた看板だった。


畑では老人が草を刈っている。軒先には洗濯物が並び、道路脇には宅配便の車が停まっていた。


犬に吠えられた。


ナギが立ち止まる。


「犬、苦手?」


湊が聞く。


ナギは犬を見たまま答えた。


「分からない」


「便利だな、それ」


「湊は?」


「吠える犬は苦手」


そこでナギがようやく湊を見た。


「じゃあ同じ」


何が同じなのか分からないまま、二人は犬から少し離れて歩いた。


坂井家はすぐに見つかった。


研究者の地図では旧宅跡から谷を挟んだ場所だったが、現在は舗装された道が通っているため車でも来られる。


築年数までは分からないが、少なくとも古民家という感じではない。瓦屋根の二階建てで、横には軽自動車が停まっている。


昨日見た旧宅跡とは似ても似つかなかった。


「普通の家だね」


ナギが家を見上げる。


「普通じゃなかったら困るだろ」


湊が門の前で声をかけようとしたところで、背後から女の声がした。


「何か用ですか?」


振り返る。


二十代半ばくらいだろうか。肩に買い物袋を下げた女性が、少し警戒した顔で二人を見ていた。


湊は自分たちの姿を考えた。


知らない男女が朝から他人の家の前に立っている。


怪しい。


「すみません。坂井さんに、この辺の昔のことを聞きたくて」


「昔?」


女性が眉を上げた。


「家が前にあった場所とか」


女性の警戒が少し薄れた。


「大学の人?」


「違います」


「役所?」


「それも違います」


「じゃあ何の人?」


もっともな質問だった。


湊が答えに詰まっていると、隣からナギが言った。


「村を探してる」


女性の視線がナギから湊へ戻る。


湊はため息をついた。


「余計分かりにくくなっただろ」


「違った?」


ナギが首を傾げる。


「間違ってはいないけど」


そのやり取りを見て、女性が笑った。


「まあいいや。坂井さんならいると思いますよ」


そう言って坂井家の門へ向かう。


「知り合いですか?」


湊が尋ねると、女性は買い物袋を持ち直した。


「この辺、だいたい知り合いです。私、寺西なんで」


湊は足を止めた。


「寺西?」


「はい」


昨日見た研究者の資料にあった名前だ。


《旧・寺西家》。


「寺西さんの家も、昔は別の場所にあったんですか」


今度は女性の方が足を止めた。


「何で知ってるんですか?」


     *


女性は寺西紗季と名乗った。


深守で育ったが、今は町で働いている。今日は休みで、祖母の買い物を届けに来たらしい。


「昔の家って言っても、私が生まれるよりずっと前ですよ。ばあちゃんがたまに言ってるだけで」


紗季がそう言うので、湊は尋ねた。


「どこにあったんです?」


「下の方だったかな。ちゃんと聞いたことないです」


「家を移したときに何かした、とかは?」


「何かって?」


「儀式みたいな」


紗季は笑った。


「急に怪しくなりましたね」


「ですよね」


自分でもそう思う。


湊は少し言い方を変えた。


「石とか札とか、何か運んだとか」


「知らないです。引っ越しじゃないんですか?」


現代の感覚ならそうなる。


やがて坂井家から、七十代後半くらいの女性が出てきた。


紗季が事情を説明すると、坂井家の女性は意外なほどあっさり旧宅の話をしてくれた。


「あそこやろ。石垣残っとるとこ」


「昨日見てきました」


湊が答える。


「何もないやろ」


「はい」


「昔は家あったらしいけど、私も覚えとらんよ。親から聞いただけ」


「今の家に移ったのは?」


「戦争より前やったかなあ。もっと前かもしれん」


百年近く経っている可能性がある。


それでも女性は旧宅跡を、


「あそこ、坂井の昔のとこ」


と呼んだ。


湊は少し引っかかった。


「今のここも、坂井家ですよね」


女性が笑う。


「そりゃそうやろ」


「じゃあ、昔の方は?」


「あっちも坂井んちや」


「どっちも?」


湊が聞き返すと、女性は不思議そうな顔をした。


「昔の坂井んちと、今の坂井んち。何がおかしいが?」


おかしくない。


むしろ、それが普通なのだろう。


建物が変わっても、場所が変わっても、坂井家は坂井家として続いている。


「家を移したときに、何か決まりみたいなものはありました?」


湊が尋ねる。


坂井家の女性は少し考えた。


「さあ」


「寺に届けるとか」


「ああ、寺なら何か持っとるかもしれんね」


「記録ですか?」


「昔は家のこと、寺の和尚がよう知っとったから」


そこで紗季が口を挟んだ。


「円明寺?」


「そうそう」


坂井家の女性がうなずく。


聞いたことのない名前だった。


湊はスマートフォンにメモする。


円明寺。


「今もあります?」


「あるよ。ここから十分くらい」


「車で?」


「歩いて」


ナギが湊を見る。


「近い」


湊は首を振った。


「山の人の徒歩十分を信用するな」


紗季が吹き出した。


「それは正しいです」


     *


円明寺へ向かう途中、紗季も一緒についてきた。


「暇なんですか」


湊が聞く。


「休みなんで。それに気になるじゃないですか。自分ちの昔の場所とか調べてる人いたら」


「助かります」


紗季はナギにも目を向けた。


「彼女さんも?」


湊は一瞬、意味が分からなかった。


「違います」


「違うの?」


今度はナギが湊に聞いた。


「お前まで聞くな」


紗季が笑っている。


「じゃあ妹?」


「違います」


湊が答える。


「親戚?」


「それも違います」


紗季はますます分からないという顔になった。


「何なんですか」


それが一番説明しにくい。


昨日会った身元不明の女性です、と言っても事態が悪化するだけだ。


「一緒に調べてる人です」


結局、一番無難な答えになった。


ナギは特に不満もなさそうだった。


少し歩いてから、ナギが湊の袖を軽く引いた。


「付き合うって何?」


「あとで説明する」


「昨日もそういうのあった」


「何が」


「あとで説明するやつ」


「覚えてるなら進歩してるよ」


円明寺は集落から少し高い場所にあった。


想像していたより小さい寺だった。境内には新しい軽自動車があり、本堂の横には家庭用の物干し台まで置かれている。


住職に事情を説明すると、境印については知らなかった。


深守の家が昔から場所を移してきたことについては、特に驚きもしない。


「この辺なら珍しくないですよ。火事もあるし、崩れることもある。道が変われば下へ移る家もある」


住職の説明を聞いてから、湊は本題を切り出した。


「家を移すときの記録って残ってますか」


「古いものなら、多少は」


「何か儀式みたいなものも?」


「儀式?」


住職は首を傾げた。


やはり、すぐに答えは出ない。


古い帳面をいくつか見せてもらう。


過去帳とは別に、寄進や土地、家に関する雑多な記録があった。


崩し字の多くは湊には読めない。住職にも全部は分からないという。


それでも比較的新しいものなら拾える。


湊がページをめくっていると、《寺西家》という文字が目に入った。


「寺西さん。これ、寺西じゃないですか」


「ほんとだ」


紗季が横から帳面を覗き込む。


その横に、


《旧地ヨリ渡ス》


とある。


「渡す?」


ナギが声に出した。


湊は次の行を見る。


別の家名。


そこにも《渡》の字があった。


さらに数ページ後。


《家渡》


二文字。


その横には、人名と場所らしき記述が続いている。


「家渡……?」


住職も帳面を覗き込んだ。


「聞いたことはありますね」


湊が顔を上げる。


「何なんですか」


「いや、詳しくは。家を移すときの言い方だったかな」


湊は文字を写真に撮らせてもらった。


《家渡》。


ただの移転記録なのか。


それとも何かの作法を伴っていたのか。


まだ分からない。


だが、研究者が追っていた旧宅と現宅の間に、初めて具体的な言葉が出てきた。


     *


寺を出たところで、紗季のスマートフォンが鳴った。


「はい」


紗季が応答する。


「うん。今、寺」


少し間が空いた。


「え、届いてないの?」


湊は何となく振り返った。


紗季が立ち止まっている。


「でも配達済みになってるんでしょ?」


宅配便。


さっき深守へ入ったときに見た車を思い出す。


「玄関の横とかは?」


また沈黙。


「分かった。ちょっと見てみる」


通話が切れた。


湊が尋ねた。


「どうしたんです?」


「坂井さんです。荷物が届く予定だったらしいんですけど、配達済みになってるのにないって」


「置き配?」


「みたいです」


それだけなら珍しい話ではない。


配達場所を間違えたのかもしれない。


紗季が配送状況を確認するため坂井家へ戻るというので、湊たちも同行した。


家の前には、先ほどの坂井家の女性が立っていた。


「ないがよ」


女性は玄関脇を指した。


そこにもない。


物置にもない。


家族が取り込んだわけでもない。


配達完了の通知だけは届いている。


「写真ないんですか?」


湊が聞くと、紗季がスマートフォンを操作した。


「あ、ある」


紗季の手元を、湊とナギが覗き込む。


置き配完了時の写真が表示される。


段ボール箱。


地面。


その後ろに、石が積まれている。


湊は画面を見たまま動かなかった。


「これ……」


紗季が写真を拡大する。


玄関が写っていない。


壁もない。


家そのものがない。


ただ、草の生えた平らな土地と、低い石垣が写っている。


昨日見た。


間違えるはずがない。


ナギが先に口を開いた。


「ここ、知ってる」


湊はすでに走り出していた。


     *


旧・坂井家跡までは、車なら数分だった。


昨日と同じ石垣。


同じ水路。


同じ、何もない土地。


その石垣の前に、


段ボール箱が置かれていた。


遅れて近づいてきた紗季が足を止める。


「なんで……」


湊は箱の宛名を確認した。


住所は正しい。


現在の坂井家の住所だった。


配達先を旧住所にしていたわけではない。


そもそも、ここに家がなくなってから何十年も経っている。


ナギが箱と石垣を交互に見る。


「戻ってきた?」


その言葉に、湊は水守を思い出した。


町へ持っていったはずの鞄。


捨てたはずのジャケット。


森川家へ戻ってきた物。


今回も同じなのか。


現在の家へ届くはずだった物が、


昔の家へ戻った。


湊は石垣を見る。


昨日まで、ただの旧宅跡だった場所。


その前に置かれた新しい段ボール箱だけが、ひどく場違いだった。


「でも、これ……」


紗季の声だった。


湊が振り返る。


紗季はスマートフォンの配達写真を見ている。


「配達した人、ここを間違えたんじゃないですよ」


「どういうこと?」


湊が聞くと、紗季が画面を向けた。


配達記録に残された位置情報。


そこに表示されていた配達先は、


現在の坂井家だった。

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