家を渡す
「現在の坂井家だった」
紗季がもう一度言った。
スマートフォンの画面には、配達記録と地図が並んでいる。表示された地点は、間違いなく谷の向こう側だった。
湊たちが今いる旧宅跡ではない。
「GPSがずれたとか?」
湊が聞く。
「ここまで?」
紗季が地図を拡大する。
直線でも数百メートルある。道を使えばさらに離れていた。
段ボール箱の宛名も確認した。
住所は現在の坂井家。
置き配の指定場所は玄関前。
それなのに箱は、玄関どころか建物さえ存在しない場所に置かれている。
「配達した人に聞けないかな」
ナギが言った。
「聞ければ早いけど」
湊は道路の方を見る。
朝、深守へ入ったときに宅配便の車を見ている。まだ近くを回っている可能性はあった。
紗季が配送会社へ連絡している間、湊はもう一度旧宅跡を見回した。
石垣。
水路。
雑草。
昨日と何も変わっていない。
箱だけが新しい。
「戻ってきた、か」
湊がつぶやく。
「違う?」
ナギが聞く。
「まだ分からない」
水守では、正一が町へ持っていったはずの鞄とジャケットが森川家へ戻っていた。
今回も似ている。
現在の坂井家へ届くはずだった荷物が、昔の坂井家へ来た。
ただ、一つ違う。
「これ、もともとここにあった物じゃないんだよな」
「うん」
ナギが箱を見る。
「初めて来た」
そうだ。
水守の鞄は、もともと森川家にあった。
この箱は違う。
配送センターから来た荷物だ。旧宅跡とは何の関係もない。
それでも《坂井家》を目指した結果、ここへ来た。
「家に戻ったんじゃなくて……」
言いかけて、やめた。
まだ早い。
「何?」
「いや。分からん」
ナギは少し考えてから、
「分からないままにする?」
と言った。
昨日、学芸員に言われた言葉を覚えているらしい。
「今はな」
十分ほどして、紗季のスマートフォンに連絡が入った。
担当の配達員はまだ深守の近くにいるという。
*
配達員は四十代くらいの男性だった。
こちらも困惑していた。
「いや、そこに置いたんですけどね」
坂井家の前で、男性は玄関脇を指した。
「ここですか?」
「はい。間違いないです」
湊は配達完了の写真を見せてもらった。
写真に写っているのは旧宅跡だ。
「でも、この写真」
男性が画面を見る。
眉を寄せた。
「……あれ?」
「ここじゃないですよね」
「ですね」
記憶を失っている様子でもない。
男性は今朝、いつも通り深守を回り、坂井家にも来たという。
車を停めた場所も覚えている。
「この玄関の横に置いた?」
「置きました」
「写真もここで撮った?」
「そのはずです」
そのはず。
写真の位置情報も現在の坂井家を示している。
なのに写真の背景だけを見れば、旧宅跡で撮影したとしか思えない。
男性は何度も画面と玄関を見比べた。
「会社に報告した方がいいですかね」
「した方がいいと思います」
湊には、それ以上言えなかった。
配達員が去ったあと、紗季が低い声で言った。
「何なんですか、これ」
「分かりません」
「昨日からそればっかりですね」
「俺もそう思います」
ナギが横から言う。
「湊、分からないこと増えてる」
「数えなくていい」
紗季が少し笑った。
緊張がわずかに抜ける。
湊は坂井家を見る。
目の前にある家は、どこから見ても普通の家だった。
ここが現在の坂井家であることを疑う理由はない。
それなのに、配達された荷物だけが昔の坂井家へ行った。
「円明寺、もう一回行きます」
湊が言った。
紗季が目を丸くする。
「さっき行ったばっかりですよ」
「だからです」
《家渡》。
今朝までは、ただの古い言葉だった。
今は少し違って見える。
*
住職は驚いた顔をしたものの、再び帳面を出してくれた。
今度は《家渡》の文字だけを追う。
同じ言葉は一冊だけではなかった。
年代の異なる帳面にも、似た記載がある。
《野上家 上ノ沢ヨリ渡》
《寺西家 旧地ヨリ渡ス》
《坂井家 家渡済》
読み取れるものだけでも数件あった。
「済」
湊はその一字を指した。
「これ、何をしたら済なんですか」
住職は首を振る。
「そこまでは分からないですね。私が継いだ頃には、もうやってませんから」
「いつ頃まであったんです?」
帳面の年代を確かめる。
最後の記録は昭和の前半だった。
少なくとも数十年前。
それ以降、《家渡》という言葉は消えている。
「家が移らなくなった?」
ナギが聞く。
住職が答えた。
「いや。そんなことはないですよ」
湊は顔を上げた。
「その後も?」
「あります。道路ができたときに移った家もありますし、昭和の終わり頃にも一軒あったはずです」
「そのときは家渡をしてない?」
「少なくとも寺ではしてません」
話が合わない。
もし《家渡》をしなくなったせいで、旧宅と現宅の区別がおかしくなったのなら、異常が起こるのが遅すぎる。
何十年も何もなかったことになる。
湊は帳面を閉じた。
「家渡をやめたから、じゃない」
紗季が尋ねる。
「じゃあ、何なんです?」
「それを今から考えます」
「また分からない」
ナギが言う。
「分からないものを減らすために、分からないものを増やしてるんだよ」
「効率悪いね」
「調査ってだいたいそういうもんだ」
言ってから、自分がいつから調査をする側になったのだろうと思った。
四日前まで、湊はただ芦倉へ帰ろうとしていただけだった。
その芦倉はいまだ見つかっていない。
母からの連絡もない。
ポケットからスマートフォンを出す。
メッセージは未読のままだった。
今日は休みの最終日だ。
本来なら、東京へ戻ることを考えなければならない。
画面をしばらく見てから、湊は母へ電話をかけた。
呼び出し音。
一度。
二度。
三度。
出ない。
留守番電話に切り替わる前に、湊は切った。
「お母さん?」
ナギが聞く。
「うん」
「まだ?」
「まだ」
紗季は何も聞かなかった。
湊はスマートフォンをしまう。
母のことは、もう「返信が遅い」で済ませていい段階ではない。
深守を出たら、確認する。
勤務先でも、知人でもいい。
それでも所在が分からなければ、警察にも相談する。
そう決めると、少しだけ頭が整理された。
「あと一つだけ確認して帰ります」
「何を?」
紗季が聞く。
湊は古い帳面を指した。
「寺西家です」
*
寺西家の旧宅跡は、現在の家から山側へ十五分ほど歩いた場所にあった。
紗季の祖母が場所を知っていた。
正確には、今でも使っている。
「畑なんですか?」
湊が聞くと、祖母は笑った。
「畑ってほどでもないちゃ。ちょっと植えとるだけ」
旧宅の建物は残っていない。
石垣の一部と、柿の木。
その横に小さな畑があった。
坂井家と違い、ここは完全に放棄された土地ではない。
寺西家の土地として今も使われている。
「ばあちゃん、昨日も来たって」
紗季が言う。
「よく来るんですか」
「週に何回か。家より元気なんで」
少し先で、祖母がナギに何か説明している。
ナギは畑に植わっているものを真剣に見ていた。
「それも分からないのかな」
紗季が小声で言った。
「たぶん」
「本当に何者なんですか、あの子」
「俺が知りたいです」
紗季が湊を見る。
「それ、本人の前で言わない方がいいですよ」
「気をつけます」
旧宅跡を歩く。
坂井家と同じような石垣。
だが、それ以上の共通点はない。
境印も見当たらない。
「昨日、ここに青い箱なかった?」
祖母の声がした。
紗季が振り返る。
「箱?」
「収穫入れるやつ。置いとったが」
畑の隅を指している。
そこには何もない。
「持って帰ったんじゃない?」
「持って帰っとらんよ」
「誰か使ったとか」
「誰が使うがよ」
湊は何となく、その会話を聞いていた。
青い箱。
ただの農業用コンテナだろう。
坂井家の荷物とは関係ない。
そう思ったところで、紗季のスマートフォンが鳴った。
画面を見た紗季が、
「お母さんだ」
と言って電話に出る。
「もしもし?」
数秒後、紗季の表情が変わった。
「え?」
湊を見る。
「いや、ばあちゃん今こっちにいるけど」
また数秒。
「どこに?」
紗季が黙った。
嫌な間だった。
「……分かった」
電話を切る。
湊が尋ねた。
「どうしました?」
紗季はすぐには答えなかった。
「青い箱」
祖母が反応する。
「見つかったが?」
「うん」
「どこに?」
紗季が湊を見る。
「うち」
「今の家?」
湊が聞く。
紗季はうなずいた。
「玄関の前に置いてあるって」
誰も声を出さなかった。
昨日、祖母がここへ持ってきた。
ここに置いた。
持ち帰ってはいない。
その箱が今、
現在の寺西家にある。
ナギが湊を見る。
「戻った?」
同じ言葉だった。
けれど今度は、
向きが逆だった。




