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動いていないもの

青いコンテナは、本当に寺西家の玄関前にあった。


深守を出る前、湊たちは紗季と一緒に現在の寺西家へ戻った。


ありふれた農業用のコンテナだった。側面には白いペンで《寺西》と書かれている。


「これ?」


ナギが聞く。


紗季の祖母がうなずいた。


「これや。昨日、畑に持ってった」


「誰かが運んだ可能性は?」


湊が尋ねる。


「知らんよ。私は置いてきた」


紗季の母にも聞いたが、運んでいないという。


もちろん、それだけで怪異とは言えない。


誰かが動かしたのかもしれない。


だが坂井家では、現在の家へ届くはずの荷物が旧宅跡へ行った。


寺西家では、旧宅跡に置いた物が現在の家へ来た。


向きが逆だ。


「戻る、じゃないね」


ナギが言った。


「少なくとも、昔の場所に戻るわけじゃない」


湊はスマートフォンのメモを開いた。


《坂井 現→旧》


《寺西 旧→現》


二行を並べる。


「行ったり来たりする?」


ナギが画面を覗く。


「それもまだ分からない」


「また?」


「また」


紗季が横から覗き込んだ。


「でも、二つとも昔の家と今の家ですよね」


「そうなんです」


そこだけは一致している。


湊は《家渡》と書き足した。


昔の深守では、家を移すときに何らかの形で《家渡》をしていた。


しかし、それは昭和の前半には記録から消えている。


その後も家の移転はあった。


何十年も問題は起きていない。


なら、《家渡》をしなくなったこと自体が原因ではない。


「昔のやり方がなくても、困らなかった」


湊が言う。


紗季が首を傾げる。


「そりゃ、引っ越せば住所変わりますから」


湊は顔を上げた。


「住所」


「はい?」


「いや、それでいいんです」


「何が?」


ナギも分かっていない顔をしている。


湊は二人を見た。


「昔は家を移したら、周りに『今日からこっちが寺西家です』って分かってもらう必要があったんじゃないですか」


紗季が少し考える。


「まあ、それはそうでしょうね」


「今なら?」


「住所変えて、郵便とか電気とか……」


「登記もある。住民票もある。地図も変わる」


ナギが聞く。


「家渡はいらない?」


「同じことをしてるとは限らない。でも、昔みたいなやり方じゃなくても困らなくなった理由にはなる」


湊は自分で言ってから、少し引っかかった。


役所の書類そのものに何か力がある、という話ではない。


水守でもそうだった。


重要だったのは、古い作法を再現することではなかった。


正一が今どこに住み、この家をどう扱うのか。それを本人と周囲が現実のこととして確かめた結果、異常は収まった。


だとすれば。


昔の《家渡》も、儀式だから必要だったのではないのかもしれない。


家が移った。


前の家は終わった。


これからはこちらが同じ家として続く。


そのことを、人が扱える形にしていた。


「変わらないためじゃない」


湊がつぶやく。


ナギが見る。


「何が?」


「家渡。たぶん」


まだ断定はできない。


それでも言葉にしてみる。


「変わっても、同じでいるためにやってたんじゃないか」


ナギはしばらく考えていた。


「変わったのに、同じ?」


「人間はそういうことするんだよ」


「難しい」


「俺も今そう思ってる」


     *


深守を出たのは昼過ぎだった。


そのまま実家へ戻り、湊は母の勤務先へ電話をかけた。


母が今もそこで働いていることは確認できた。


だが、数日前から出勤していないという。


休暇を取っているのか、欠勤なのか。


電話口の相手は詳しいことまでは答えられないと言った。


湊は親族にも連絡した。


母の居場所を知っている者はいなかった。


実家には母の靴も何足か残っている。


生活用品もそのまま。


旅行へ出たと断定できるものは見つからなかった。


警察にも相談した。


成人であり、本人の意思で連絡を絶っている可能性もある。事件性を示すものが現時点ではない以上、すぐ大規模な捜索になるわけではない。


それでも相談した記録は残った。


母の電話番号と写真、分かる範囲の情報を伝えた。


家を出たとき、午後二時を過ぎていた。


休みは今日で終わる。


明日は仕事だ。


東京へ戻るなら、そろそろ限界だった。


ナギは助手席で黙っていた。


「帰るの?」


しばらくして聞いた。


湊は答えなかった。


母がいない。


芦倉もない。


ナギのこともある。


この状態で東京へ戻り、明日の朝から何事もなかったように働ける気はしなかった。


会社へ電話した。


事情を全部説明したわけではない。


家族と地元で問題が起きている。


もう数日休みたい。


それだけ伝えた。


有給を追加で使えることになった。


電話を切る。


「帰らない?」


ナギが聞く。


「もう少しだけ」


「深守?」


「その前に、もう一個確認する」


車を深守へ戻した。


     *


午後三時過ぎ。


深守地区の集会所には、三人の住民がいた。


紗季が話を通してくれていた。


坂井家と寺西家で起きたことを、そのまま説明する。


怪異だとは言わなかった。


物が妙な場所へ移っている。


それだけだ。


「他に似たことありませんでしたか」


最初は誰も思い当たらなかった。


当然だ。


荷物が一つ変な場所にあった程度なら、誰かが動かしたと思う。


しばらく話していると、一人の男性が言った。


「そういや、草刈り機の刃」


湊が見る。


「何かありました?」


「替え刃。自治会のやつ。先週、野上に持ってったはずなんやけど」


「なくなった?」


「いや、ある」


男性は集会所の物置を指した。


話が見えない。


「野上さんが返したんですか」


「返してない言うとる」


「じゃあ、誰か別の人が?」


「それが分からん」


男性は立ち上がった。


「見た方が早いわ」


物置に入る。


棚の上に、工具や農作業用品が並んでいた。


男性が一枚の円形の刃を取り出す。


「これ」


側面に油性ペンで《深守》と書いてある。


「先週、野上に持ってった」


「誰が?」


「俺」


「どこへ置きました?」


「野上んちの納屋」


「今の?」


湊が聞く。


男性は妙な顔をした。


「今のって?」


「昔、別の場所に家があったとか」


「ああ。野上も移っとるよ」


まただ。


「どこから?」


「川向こう」


第8話で見た研究者の記録を思い出す。


《旧・野上家》。


「替え刃を置いたのは、どっちです?」


「そりゃ野上んちや」


「だから、今住んでる方ですか?」


男性は少し苛立ったように答えた。


「今住んどる方に決まっとるやろ」


湊は刃を見る。


「それが、ここに戻ってた?」


「そう。次の日にはな」


坂井家と同じ。


現宅へ持っていった物が別の場所へ移る。


そう思いかけた。


「戻ってきたとき、誰が見つけたんです?」


「俺」


「ここで?」


「ここ」


「誰かが返したんじゃなくて?」


「だから知らんて」


男性が面倒そうに言う。


その横で、別の老人が口を開いた。


「お前、野上んちに持ってってないぞ」


男性が振り返る。


「は?」


「先週やろ。あの日、俺もおった」


「おったから何や」


「お前、向こうに置いとったやろ」


老人が窓の外を指した。


川の方だった。


湊の背中に冷たいものが走る。


「向こうって、どこです?」


老人が答える。


「野上んち」


「今の野上さんの家は?」


「こっち側や」


紗季が言った。


老人もうなずく。


「今はな」


湊は立ち上がった。


「ちょっと待ってください」


男性を見る。


「あなたは、今の野上家の納屋に置いたと思ってる」


「思っとるんじゃなくて、置いた」


次に老人を見る。


「あなたは、それを見ていた」


「見とったよ」


「どこで?」


「昔の野上んちの方」


「建物は?」


「ないよ」


「じゃあ、どこに置いたんです」


老人は少し考えた。


「共同の小屋あるやろ。あそこ」


話を整理する。


替え刃は集会所にある。


つまり、今ここに存在している。


誰かが返した可能性もある。


そこは問題ではない。


問題なのはその前だ。


同じ出来事について、


一人は現在の野上家へ置いたと言っている。


もう一人は、同じ場面を見て、


旧・野上家の近くへ置いたと言っている。


記憶が食い違っている。


だが、水守とは違う。


誰かが消えたわけでもない。


存在しない納屋が現れたわけでもない。


刃が二つになったわけでもない。


「これ……」


紗季も気づいたらしい。


「物が動いたんじゃない?」


ナギが言った。


湊は答えなかった。


頭の中で、出来事を並べ直す。


坂井家。


配達員は、現在の坂井家へ置いたと記憶していた。


GPSも現在の坂井家を示していた。


しかし写真と荷物は旧宅跡にあった。


寺西家。


祖母は旧宅跡の畑へコンテナを置いた。


それが現宅にあった。


そして野上家。


同じ一つの行動について、二人が別の場所を《野上んち》として記憶している。


旧宅から現宅へ。


現宅から旧宅へ。


そうではない。


最初から、移動の向きなどなかったとしたら。


湊は窓の外を見る。


川の向こう。


どこかに、もう家のない野上家の旧宅跡がある。


「坂井さんの荷物」


湊が言った。


「配達員は、間違えてなかったのかもしれない」


紗季が眉を寄せる。


「でも、荷物は昔の家にありましたよ」


「うん」


「じゃあどういうことですか」


湊は少し考えた。


まだ言葉にするには早い。


それでも、一つだけは分かった。


「俺たち、ずっと」


机の上の替え刃を見る。


「物がどこからどこへ動いたかを考えてた」


ナギが聞く。


「違うの?」


湊は首を振った。


「たぶん、そこじゃない」


窓の外では、深守の家々が谷の斜面に点々と見えていた。


今の家。


昔の家。


移った家。


残った家。


人間なら、どれも区別できる。


そのはずだった。


「おかしくなってるのは、物じゃない」


湊は言った。


「《どこをその家として扱ったか》の方だ」

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