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深守はどこまでか

「試してみません?」


紗季が言った。


集会所の机には、草刈り機の替え刃が置かれている。


湊は顔を上げた。


「何を?」


「どこを家として扱ったかがおかしくなるんでしょう」


「たぶん」


「じゃあ、実際に行けばいいじゃないですか」


もっともだった。


話を聞いているだけでは、これ以上進まない。


     *


最初に向かったのは野上家だった。


替え刃を持っていった男性にも同行してもらった。


現在の野上家は、集会所から歩いて五分ほどの場所にある。平屋の家で、横にはトタン張りの納屋があった。


男性が納屋を指す。


「ここや。ここに置いた」


迷いはない。


「覚えてます?」


湊が聞く。


「覚えとるよ。野上にも声かけたし」


野上本人にも確認した。


替え刃を借りる話は聞いていた。


ただ、その日は外出していて、男性が置くところまでは見ていない。


「じゃあ、もう一人が見たのは?」


紗季が聞く。


川の向こう。


旧・野上家の近くには、確かに共同の小屋があった。


今も農機具を置くために使われている。


二つの場所を実際に見比べても、似てはいない。


納屋はトタン張り。


共同小屋は木造。


周囲の景色も違う。


「見間違えるかな」


紗季が言った。


「普通は無理だと思います」


湊は答えた。


ナギは共同小屋の前に立っていた。


扉を見る。


地面を見る。


少し離れる。


また近づく。


「何してる?」


「分からない」


「それは見れば分かる」


「ここ、野上さんの家?」


「違うよ」


「でも、さっきのおじいさんはそう言った」


「昔はこの辺に野上家があった」


「今は?」


「向こう」


ナギは川の向こうを見る。


現在の野上家は、ここからでは屋根の一部しか見えない。


「じゃあ、ここは?」


「旧宅跡」


「旧宅跡って、家?」


湊は答えかけて、止まった。


「……家ではない」


「坂井さんのところも?」


「今はな」


「でも、坂井さんのおばあさんは『坂井んち』って言った」


紗季が小さく笑った。


「ナギちゃん、面倒なところ突きますね」


「面倒?」


「褒めてます」


たぶん褒めてはいない。


ただ、ナギの疑問は正しかった。


人間は普通に使い分ける。


《坂井んち》と言えば現在の家を指すこともあれば、昔の坂井家があった場所を指すこともある。


文脈があれば困らない。


昔の家。


今の家。


どちらも坂井家。


どちらも寺西家。


どちらも野上家。


それでも普通は、宅配便が迷うことはない。


「人間は分かるんですよ」


湊は言った。


「何が?」


ナギが聞く。


「同じなのに違う、ってこと」


ナギはしばらく考えた。


「分からない」


「だろうな」


「湊は分かる?」


「普段は」


今は、少し自信がなかった。


     *


昼前、紗季に連れられて深守地区の掲示板まで戻った。


昨日も見たものだ。


《深守地区》


その下には自治会からのお知らせが何枚か貼られている。


ゴミ収集の日程。


熊の目撃情報。


道路工事。


そして、


《深守地区自治会統合に伴う説明会について》


湊はその紙を見た。


「これ、いつ決まったんです?」


「正式にはまだです」


紗季が答える。


「来年度から隣と一緒になる予定。たぶん」


「自治会がなくなる?」


ナギが聞く。


「深守だけの自治会は、ですね」


「じゃあ、深守は?」


第8話でも同じことを聞かれた。


あのとき、湊は答えなかった。


今回も紗季が先に答えた。


「別になくならないよ」


「どうして?」


「どうしてって……」


紗季が困る。


「自治会が一緒になるだけだから。住所は残るし」


「深守って住所なんですか」


湊が聞いた。


「え?」


「正式な住所に《深守》って入ってます?」


紗季は少し考え、スマートフォンを出した。


「入ってないですね」


近年の住所表示では、より大きな地区名に含まれている。


深守は通称に近かった。


それでも道路標識には《深守》と出る。


バス停にも残っている。


自治会名にもある。


住民は普通に、


「深守に住んでいる」


と言う。


「じゃあ何が残れば、深守は残るんだろう」


湊が言った。


紗季が怪訝な顔をする。


「何の話ですか」


「俺も今考えてます」


ナギが掲示板を見ている。


「名前?」


「それも一つだろうな」


湊は紙をスマートフォンで撮った。


自治会統合。


時期としては怪しい。


昔から続いてきた深守というまとまりが、制度上また一つ薄くなる。


家渡が廃れた。


家々が移った。


人口が減った。


共同作業も減った。


そして今度は自治会までなくなる。


もし、それが最後の一押しだったとしたら。


「原因、これじゃないですか?」


紗季も同じことを考えたらしい。


「自治会がなくなるから、昔の家とか今の家とか、おかしくなってる」


説明としては綺麗だった。


綺麗すぎるほどに。


     *


午後、統合の資料を見せてもらった。


集会所の棚にファイルがある。


統合の理由は、怪異とは無縁のものだった。


役員のなり手不足。


世帯数の減少。


共同作業の負担。


防災組織の維持。


ゴミ集積所の管理。


隣接地区との行事の共催。


一つ一つは現実的だった。


「今、何世帯くらいなんです?」


「二十ちょっと」


集会所にいた男性が答えた。


「昔は?」


「五十以上あったんじゃないか」


「若い人は?」


「だいたい出る」


紗季が手を挙げる。


「私もです」


男性が笑った。


「お前は帰ってこんがか」


「仕事くださいよ」


「畑ならあるぞ」


「それ仕事じゃないでしょ」


軽いやり取りだった。


誰も、深守が滅びるという顔はしていない。


自治会統合にも賛成と反対がある。


「楽になるなら一緒でいい」という人。


「名前くらい残せ」という人。


「どっちでもいい」という人。


湊はそれを聞きながら、少し違和感を覚えた。


誰も深守を終わらせようとしていない。


同時に、


誰も深守を今の形のまま残せるとも思っていない。


ファイルをめくる。


五年前。


十年前。


十五年前。


共同作業の縮小。


祭礼の簡素化。


集会所利用の減少。


消防団の再編。


子ども会の休止。


寺の檀家数減少。


一つずつなら、どこの地方にもありそうな話だった。


「統合が原因じゃないかもしれない」


湊が言った。


紗季が振り返る。


「さっき原因っぽいって言ってませんでした?」


「だから調べたんです」


「で?」


「遅すぎるんじゃなくて、逆かもしれない」


「逆?」


「自治会統合が始まりじゃない」


湊は古い資料を指で追った。


「ずっと前から、少しずつ変わってる」


家渡はもっと昔に消えた。


それでも問題は起きなかった。


住所がある。


郵便が届く。


道がある。


近所が誰の家か知っている。


自治会がある。


寺がある。


共同作業がある。


一つがなくなっても、別のものが補っていたのかもしれない。


だが、それらが少しずつ薄くなった。


何十年もかけて。


自治会統合は原因ではなく、


その流れの中で、たまたま今見えている一つにすぎない。


「じゃあ、何が原因なんです?」


紗季が聞く。


「たぶん、その聞き方が違う」


湊は答えた。


「何か一個が壊れたんじゃない」


そのとき、集会所の外で車のクラクションが鳴った。


短く二回。


男性が窓を見る。


「ああ、回覧板や」


「回覧板?」


「隣から来たんやろ」


軽トラックが停まり、年配の女性が降りてきた。


手には透明なケースがある。


中に紙の束が見えた。


女性は集会所へ入ってくると、


「これ、深守の分」


と言ってケースを置いた。


男性が受け取る。


「次どこやった?」


「坂井」


「いや、今月から寺西先や」


「ああ、そうやったか」


何でもない会話だった。


湊も最初は気にしなかった。


だが、ナギがケースを見ている。


「これも家に行くの?」


「順番に回すんだよ」


湊が答える。


「みんなの家?」


「そう」


ナギがケースの上に貼られた紙を指した。


回覧順が書かれている。


寺西。


野上。


坂井。


ほかにも十数軒。


その横に、手書きの矢印。


湊は何となく一覧を見た。


そして、一つの名前で目が止まった。


《寺西》


その下に、小さく住所が書いてある。


現在の住所ではない。


「紗季さん」


「はい?」


「これ、寺西さんの住所?」


紗季が覗き込む。


「違います」


「じゃあ何です?」


「……分かんない」


集会所の男性も見る。


「ああ、それ昔のやつやろ」


湊は顔を上げた。


「昔?」


「回覧順、前の表から写しとるから。住所まで直しとらんのじゃないか」


「いつの住所です?」


「さあ」


紗季がスマートフォンで確認する。


顔が変わった。


「これ」


湊を見る。


「うちの旧宅の方です」


寺西家。


旧宅。


まただ。


だが今回は、何も起きていない。


ただ古い住所が残っているだけ。


「他は?」


湊は表を見る。


野上。


坂井。


それぞれにも数字が書かれている。


確認する。


坂井は現在地。


野上も現在地。


寺西だけが旧宅。


統一されていない。


「雑だなあ」


男性が笑った。


「回ればええから」


その言葉に、湊は引っかかった。


回ればいい。


住所が古くても、住民は寺西家がどこか知っている。


紙の記録が間違っていても、現実では困らない。


人間が補正するからだ。


「次、寺西さんですよね」


湊が聞いた。


「そうや」


男性がケースを持つ。


「俺持ってくわ」


「待ってください」


湊は思わず止めた。


男性が怪訝な顔をする。


「何や」


理由を説明できない。


回覧板を持っていくだけだ。


何も起こるとは限らない。


むしろ何も起こらない可能性の方が高い。


それでも。


「俺たちも一緒に行っていいですか」


     *


男性は現在の寺西家へ向かった。


湊、ナギ、紗季も後ろを歩く。


何も起きない。


道も変わらない。


男も迷わない。


十分ほどで寺西家が見えてきた。


「ほら」


男性が言う。


「普通やろ」


「ですね」


湊は少し拍子抜けした。


考えすぎだったのかもしれない。


男性が門へ入る。


玄関前に立つ。


回覧板を置く。


「これでええか」


「はい」


紗季が苦笑する。


「何期待してたんですか」


「何も起きないのが一番です」


「絶対ちょっと残念そう」


「そんなことないです」


ナギだけが玄関ではなく、男性を見ていた。


「どうした?」


湊が聞く。


ナギは答えず、男性に近づいた。


「どこに置いたの?」


男性が笑う。


「見とったやろ。寺西んち」


「ここ?」


「ここや」


ナギがもう一度聞く。


「ここ、どこ?」


「寺西んちやって」


男性の声に少し苛立ちが混じる。


湊は玄関を見る。


間違いなく現在の寺西家だ。


何もおかしくない。


紗季もそこにいる。


そのとき、家の中から紗季の母が出てきた。


「何しとるが?」


「回覧板」


紗季が答える。


母は玄関前を見る。


「どこに?」


全員が黙った。


「そこ」


男性が指す。


何もない。


さっき置いたはずの透明なケースが消えている。


「え?」


男性が玄関脇を見る。


植木鉢の裏。


郵便受けの下。


ない。


湊はすぐに紗季を見た。


紗季も同じことを考えたらしい。


「まさか」


走る。


旧宅跡へ。


今度は湊も追った。


     *


十五分後。


寺西家の旧宅跡。


柿の木。


石垣。


小さな畑。


その真ん中に、


透明な回覧板のケースが置かれていた。


誰もすぐには近づかなかった。


「また移った」


紗季が息を切らしながら言った。


湊は答えない。


回覧板を見る。


ケースの上には回覧順の紙が貼られている。


《寺西》


その横に、


旧宅の住所。


ナギが聞いた。


「住所が間違ってたから?」


それなら説明は簡単だ。


古い記録が、物を古い場所へ引っ張った。


湊は一瞬そう考えた。


だが、すぐに首を振った。


「違う」


「どうして?」


「坂井さんの荷物」


宛先は正しかった。


現在の住所だった。


それでも旧宅へ行った。


「じゃあ、住所じゃない」


「うん」


「自治会?」


紗季が言った。


「これ自治会の回覧板ですよ。統合するから、おかしくなってるんじゃ」


それも違う。


坂井家の荷物は宅配便だ。


自治会とは関係ない。


一つの制度では説明できない。


住所でもない。


自治会でもない。


家渡でもない。


湊は旧宅跡を見渡した。


昨日までなら、ここを《昔の寺西家》と呼んでも何の問題もなかった。


今の寺西家は別の場所にある。


誰だって分かっている。


それなのに、現実の方がその使い分けをしなくなり始めている。


「深守が曖昧になってるから、家も曖昧になった?」


紗季が言った。


湊はすぐには答えなかった。


あり得る。


自治会。


住所。


寺。


共同作業。


人間関係。


それらが重なって、深守というまとまりを作っていた。


その一つ一つが薄くなっている。


だが。


何かが足りない。


湊は回覧板を拾った。


紙の一番上には、


《深守地区自治会》


と印刷されている。


その文字を見て、ふと気づいた。


「紗季さん」


「はい」


「自治会が統合されたあとも、ここを深守って呼びます?」


「呼ぶと思いますけど」


「住所から深守がなくても?」


「今も入ってないですし」


「じゃあ自治会も住所もなくても、深守は残る?」


紗季は困った顔をした。


「残るんじゃないですか。みんなそう呼ぶなら」


「みんなって?」


「……ここに住んでる人とか」


「紗季さんは住んでない」


「でも深守出身です」


「どこまでが深守です?」


紗季は答えようとして、


止まった。


昨日の老人たちを思い出す。


昔はもっと谷の奥。


川向こうまで。


寺の下から。


家々はそれぞれ動いてきた。


そもそも深守には、誰もが一致する一本の境界などなかった。


それでも長い間、


深守は深守だった。


「深守って」


ナギが言った。


二人が見る。


ナギは回覧板ではなく、周囲の山を見ていた。


「場所の名前じゃないの?」


湊は答えられなかった。


そのとき。


遠くから声がした。


「おーい!」


集落の方。


誰かが呼んでいる。


紗季が振り返る。


「何?」


男が一人、道を上がってくる。


集会所にいた住民だった。


息を切らしている。


「どうしました?」


湊が聞く。


男は一度息を整えた。


「野上さん、知らんか」


「野上さん?」


「家におらんがよ」


紗季が首を傾げる。


「出かけたんじゃないですか?」


「車ある。電話も家ん中」


「じゃあ畑とか」


「探した」


男は川の向こうを指した。


旧・野上家のある方角。


「さっき電話あったんや」


湊は眉を寄せる。


「誰から?」


男は答えた。


「野上さん本人」


「電話、家にあるんですよね」


「固定電話からや」


「何て?」


男の顔から、さっきまでの困惑とは別のものが消えなかった。


「迎えに来てくれって」


「どこへ?」


男はしばらく黙ってから言った。


「本人は、家におるって言うとる」

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