二つある家
「本人は、家におるって言うとる」
男の言葉を聞いて、紗季はすぐ川向こうを見た。旧・野上家のある方角だ。
「行きましょう」
「いや、先に今の家を見ます」
歩き出しかけた紗季を、湊は止めた。
「でも、今の家にはいなかったんですよね?」
「だからです」
旧宅にいるはずだと決めてから探しに行けば、また同じ考え方をすることになる。
坂井家の荷物も、寺西家の回覧板も、物が旧宅と現宅の間を移動したように見えた。だが野上家の替え刃では、同じ一つの行動を見た二人が、置いた場所を別々の《野上んち》として記憶していた。
問題が場所そのものではなく、その場所をどう扱ったかにあるのなら、まず確かめるべきなのは現在の野上家だった。
現在の野上家までは、歩いて数分だった。
車はある。玄関は施錠され、カーテンも閉まっている。
集会所から来た男が呼び鈴を押し、続けて玄関を叩いた。
「野上さーん!」
返事はない。
家の周囲を回ったが、勝手口も閉まっていた。窓から覗ける範囲にも人影は見えない。
「ほら、おらんやろ」
「さっきの電話、本当にここの固定電話からですか」
「番号はな」
男がスマートフォンの着信履歴を見せた。表示されているのは、間違いなく野上家の番号だという。
ナギは玄関から少し離れたところで、家全体を見上げていた。
「野上さん、ここにいると思ってるのかな」
「本人はそう言ったんですよね」
紗季が答えると、ナギは首を振った。
「そうじゃなくて。野上さんは、自分がここにいると思ってる?」
湊は玄関を見る。
姿が見えないことと、本人がそこにいないことは、今の深守では同じ意味なのだろうか。
「旧宅も見よう」
今度は湊が先に歩き出した。
*
旧・野上家跡は川向こうにある。
現在の家とは直線距離ならそれほど離れていないが、橋を回るため歩けば十分以上かかった。
建物はもうない。杉林の手前に古い石垣が残り、その脇には、替え刃の話に出てきた共同小屋が建っている。
「野上さーん!」
男が呼んだ。
返事はなかった。
共同小屋を開けても、中にあるのは農具や肥料、長靴だけで、人がいた形跡はない。
紗季が周囲を見回した。
「じゃあ、どこにいるんだろ」
湊は野上家の固定電話へ電話をかけた。
呼び出し音が三度鳴ったところで、繋がった。
『……もしもし』
「野上さんですか。高瀬です。さっき集会所にいた」
少し間があった。
『ああ』
声は落ち着いている。
「今、どこにいます?」
『家』
「家のどこです?」
『居間やけど』
湊は目の前の旧宅跡を見た。草の生えた地面と石垣があるだけで、居間などどこにもない。
「ちょっと変なこと聞きます。今、目の前に何があります?」
『何って……テレビと、仏壇と、テーブル』
現在の野上家にあるものだろう。
少なくとも、ここには一つもない。
「窓から外を見てもらえますか」
『何なんや、お前』
「確認したいことがあるんです。お願いします」
電話の向こうで何かが擦れる音がした。
『見たぞ』
「何が見えます?」
『川。山』
湊は顔を上げた。
旧宅跡からも川と山は見える。現在の野上家も同じ谷にある以上、それだけでは区別できない。
何を聞けば、二つを切り分けられる。
建物の中ではない。
昔の家には存在せず、現在の家だけにあるものでもない。
逆だ。
湊は旧宅跡の石垣のそばに、草に半分埋もれた平たい石を見つけた。
「玄関を開けられますか」
『開くよ』
「まだ外には出ないでください。開けたところから、足元を見てください」
『さっきから何なんや』
「お願いします」
しばらくして、野上が答えた。
『石がある』
集会所の男が眉を寄せる。
「石?」
「今の野上家の玄関前に、平たい石あります?」
「ないぞ。コンクリや」
湊は目の前を見る。
草の中に、平たい石がある。
「どんな石です?」
『でかくて平たいやつ。昔からあるやろ』
全員の視線が、同じ石に集まった。
野上は現在の家の居間にいると言う。実際、そこにあるテレビや仏壇を見ている。
だが玄関を開けると、外には旧宅跡の石がある。
二つの場所が重なっているのか。
一瞬そう考えたが、目の前の旧宅跡には家などない。現在の家にある物がこちらへ現れたわけでも、存在しない建物が見えているわけでもなかった。
湊は電話を握り直した。
「野上さん。今いる家って、いつ建てた家ですか」
『俺が子供の頃にはもうあったぞ』
現在の家の話だ。
「川向こうにあった昔の家は?」
『もっと前や。親父らが移ったんやろ』
「今、俺たちはそこにいます」
電話の向こうが静かになった。
『何しに』
「野上さんを探しに」
『だから、俺は家におるって』
「はい。それは分かってます」
否定する必要はない。
むしろ、そこを否定してはいけない気がした。
野上は嘘をついているわけでも、場所を忘れているわけでもない。現在の家にいるという認識も、居間にある物の説明も正しい。
それなのに玄関の先だけが、もう一つの《野上家》へ繋がっている。
「野上さん。昔の家と、今の家って、同じ家ですか」
『は?』
「場所が同じかって意味じゃなくて。川向こうにあった野上家と、今住んでる野上家です」
野上は少し考えたらしい。
『そりゃ、野上は野上やろ』
坂井家の老女と同じだった。
昔の坂井家も、今の坂井家も、どちらも坂井家。
建物も場所も変わった。それでも家は続いている。
「じゃあ、川向こうの昔の家は、今も野上さんの家ですか」
今度は、返事までに時間がかかった。
『……家はもうないよ』
湊は平たい石を見た。
昔そこに家があったことを、野上は否定しなかった。
野上家であったことも否定していない。
ただ、今そこに家はない。
その瞬間、電話の向こうで野上が声を上げた。
『あれ』
「どうしました?」
『石がない』
紗季が湊を見る。
『玄関の前にあった石。どこ行った』
「野上さん。今、家の中に何があります?」
『何って……』
さっきより声が強張っている。
「見えるものを教えてください」
『テレビ。テーブル……仏壇』
「ほかには?」
『新聞。薬』
「新聞は今日のですか」
『今日のや』
「薬は?」
『昼の分。まだ飲んどらん』
現在の生活に属するものが、そこにある。
湊はそれを一つずつ確認させた。
何かの呪文を唱えているわけではない。ただ、野上が今いる家と、今そこで続いている生活を、本人の言葉で確かめていく。
やがて野上が小さな声で言った。
『……ここ、うちやよな』
「はい」
今度は迷わず答えた。
「そこが、今の野上さんの家です」
しばらく無言が続いた。
『玄関、開けていいか』
湊は川の向こう、現在の野上家の方角を見た。
「開けてください」
電話越しに戸の動く音がした。
その数秒後。
「おーい!」
声は、湊たちのいる旧宅跡からではなかった。
川の向こう。
現在の野上家の方から聞こえた。
男が走り出し、紗季もその後を追う。
ナギは旧宅跡に残ったまま、湊を見た。
「戻った?」
「たぶん、違う」
「じゃあ何?」
湊は草に埋もれた平たい石を見下ろした。
「最初から、向こうにいたんだと思う」
*
野上は現在の家の玄関前に、裸足で立っていた。
本人の話では、昼過ぎからずっと居間にいたという。外出もしていなければ、眠ってもいない。固定電話が鳴ったから取り、湊と話した。それだけだった。
「最初から外が変だとは思わなかったんですか」
「何とも思わんかった」
「玄関の前に石が見えてたのに?」
「そのときは、うちの石やと思っとったんや」
野上はそう答えてから、現在の玄関前を見た。
そこはコンクリートで舗装されている。
「でも、ここに石なんてないですよね」
「知っとるよ」
苛立った声だった。
「知っとるけど、見とるときは何もおかしいと思わんかったんや」
湊はその言葉を頭の中で繰り返した。
旧宅跡が現在の家に化けて見えたわけではない。
野上は現在の家の中にいて、現在の生活に触れていた。その一方で、玄関の外にある旧宅跡の一部もまた、ごく自然に《今の野上家》として受け入れていた。
二つの場所が物理的に混ざったのではなく、二つを区別していたものの方が、一時的に働かなくなっていた。
「さっき、昔の家はもうないって言ったら直りましたよね」
紗季が言った。
「だったら、みんな昔の家はもうないって確認すれば――」
「それは違うと思います」
湊は遮った。
寺西家の旧宅跡は、今も畑として使われている。坂井家の老女も、昔の坂井家を自分たちの家の歴史として覚えていた。
昔の家があったことまで否定する必要はない。
野上自身もそうだった。
「野上さんは『昔の家なんか知らない』とは言ってないんです。昔そこに野上家があったことは分かってる。ただ――」
湊は現在の家を見る。
「今は、ここが家だって区別した」
過去を切り捨てたわけではない。
昔の野上家から今の野上家まで、同じ家として続いている。
だからこそ、昔の場所まで同時に《今の家》である必要はない。
ナギが言った。
「同じだけど、違う?」
野上が怪訝そうにナギを見る。
湊は少し笑った。
「そういうことだと思う」
「前にも言ってた」
「俺も今なら、前より分かるよ」
*
夕方、集会所へ戻るころには、谷の斜面に点々と明かりが灯り始めていた。
机の上には、ここ数日で集めた資料が並んでいる。
坂井家では、現在の住所へ届けた荷物が旧宅跡にあった。
寺西家では、旧宅跡に置いたコンテナが現宅へ来た。
野上家では、同じ行動を二人が別々の《野上んち》で見たことになり、ついには本人まで、現在の家にいながら旧宅跡を玄関の外として受け入れた。
現象の形は違う。
それでも、全部に旧宅と現宅が関わっている。
湊は紙に二つの丸を書いた。
左に《旧宅》。
右に《現宅》。
その間を線で結ぶ。
「家渡って、家をこっちからこっちへ移すためのものだったと思ってました」
紗季が隣から覗く。
「違うんですか?」
「建物を移すだけなら、別に儀式はいらないですよね」
「まあ」
「昔の家が終わって、新しい場所で同じ家が続く。そのことを周りも含めて確かめるためのものだったんじゃないかと思います」
まだ推測だ。
だが、水守で古い《戸返し》をそのまま再現する必要がなかったのと同じなら、《家渡》も手順そのものに意味があったとは限らない。
昔の人間は、家が場所を変えても同じ家として続けられるように、その移り変わりを扱う方法を持っていた。
やがて住所や登記、郵便、地図、近所づきあいといった別の仕組みが、その役目の一部を引き受けた。
だから《家渡》が消えても、すぐには何も起きなかった。
「じゃあ今、それが全部弱くなった?」
紗季が聞く。
「全部じゃないです。住所もありますし、郵便も届く。でも、それだけじゃなかったんだと思います」
湊は窓の外を見る。
深守では、家が少しずつ移ってきた。
人も減った。
共同作業が減り、行事が小さくなり、寺との関係も薄くなった。自治会も来年度には隣接地区と統合される。
どれか一つが原因なのではない。
一つなくなるたび、別のものが補ってきた。
それが長い時間をかけて減り続け、旧宅と現宅を「同じ家の過去と現在」として区別していた関係まで曖昧になり始めた。
そこまで考えて、湊は紙の二つの丸を見た。
家だけなのか。
ふと、掲示板での会話を思い出す。
自治会がなくなっても、深守はなくならない。
住所に《深守》と入っていなくても、ここは深守だ。
昔の深守がどこまでだったかと聞けば、住民ごとに答えが違う。それでも誰も、深守が存在しなかったとは言わない。
湊は別の紙を引き寄せた。
中央に《深守》と書く。
ナギが覗き込んだ。
「深守も家?」
「いや」
湊はペンを止めた。
「でも、似てるのかもしれない」
昔と今で形が変わっても、同じものとして続いている。
家も。
集落も。
変わることと、終わることは同じではない。
だが、何が変わっただけで、何が本当に終わったのか。その区別まで曖昧になったら。
ナギが窓の外を見たまま聞いた。
「深守は、なくなるの?」
以前、自治会統合の資料を見つけたときにも聞かれた。そのときの湊には、何をもって集落が残るのかさえ分からず、答えることができなかった。
今なら、少なくとも一つは分かる。
「なくなるものはあると思う」
ナギが振り返った。
「でも、それと深守がなくなるのは、たぶん同じじゃない」
「じゃあ、何がなくなるの?」
湊は答えようとして、机の上の資料を見た。
自治会。
共同作業。
祭り。
集会所。
家々。
土地。
名前。
記憶。
どこまでが深守なのかと問われても、一本の線では囲めない。
だからこそ、湊が勝手に答えを決めることもできない。
「それを確かめないといけないんだと思う」
「誰に?」
「ここに住んでる人たちに」
紗季が腕を組んだ。
「何て聞くんです?」
湊は少し考えた。
「深守を残したいですか、じゃ駄目ですね」
「なんで?」
「それじゃ全部まとめて残すか、全部なくすかの話になるから」
自治会を残したい人と、深守に愛着がある人は同じではない。祭りをやめたい人が、故郷まで捨てたいわけでもないだろう。
昔のやり方を復活させれば済む話でもない。
今の深守で、すでに終わったもの。
これから終わるもの。
形を変えて続くもの。
まだ続けたいもの。
それらは、おそらく別々だ。
そこまで考えたところで、湊はペンを置いた。
答えを出すには、一人足りないのではない。
人数が足りない。
「明日、集まってもらえませんか」
紗季が目を瞬いた。
「誰に?」
湊は机の中央に置いた《深守》の紙を見た。
「深守の人たちに」




