残すもの
残すもの
翌朝、深守地区の集会所には十七人が集まった。
二十数世帯の地区としては多いらしい。紗季が前日のうちに何人かへ連絡し、そこからさらに話が回ったという。
湊は入口に近い席へ座った。前に立って説明することも考えたが、やめた。
ここは自分の村ではない。
「で、何の話なが?」
最初にそう言ったのは、六十代くらいの男性だった。
もっともな質問だった。
湊は怪異について理解したことを最初から説明するのではなく、ここ数日に実際に起きたことだけを順番に話した。
現在の坂井家へ届くはずだった荷物が旧宅跡にあったこと。寺西家では旧宅跡に置いたコンテナが現在の家へ来たこと。回覧板でも同じようなことが起きたこと。そして野上家では、現在の家にいる本人が、玄関の外だけを旧宅跡として認識していたこと。
《家渡》については、円明寺の帳面に記録が残っていたことまでに留めた。
話している途中で、何度か声が上がった。
「誰かが荷物動かしただけじゃないが?」
「野上が寝ぼけとったんじゃなくて?」
野上本人が不機嫌そうに言い返す。
「昼間から寝ぼけるか」
集会所に笑いが起きた。
空気が少し緩んだところで、湊は続けた。
「俺にも全部は説明できません。ただ、昔の家と今の家を区別していたものが、うまく働かなくなってる。それはたぶん間違ってないと思います」
「それと自治会の統合に何の関係あるが」
別の住民が尋ねた。
「自治会だけが原因だとは思ってません。家渡がなくなったのもずっと昔ですし、住所も郵便も今まで普通に機能してた。何か一つがなくなったから急にこうなった、という話じゃないと思います」
そこから先を、自分一人で説明するつもりはなかった。
湊は机に置かれた自治会統合の資料を見た。
「聞きたいんです。自治会が統合されたあと、深守では何が終わって、何が残るんですか」
しばらく誰も答えなかった。
質問が大きすぎたのだろう。
やがて後ろの方から、
「知らん」
と声がして、また少し笑いが起きた。
*
話が動き始めたのは、自治会長が統合に伴う引継ぎ一覧を持ってきてからだった。
集会所、防災備品、草刈り機、除雪道具、祭礼用品、共有地、積立金、回覧網、名簿。
《深守》という大きな言葉ではなく、一つずつ名前がついた途端、住民たちから次々に意見が出た。
「草刈り機は向こうの自治会に渡すんやろ」
「いや、深守の道は深守で刈らんなん」
「なら誰が管理するがよ」
「集会所はどうなる?」
「祭りの太鼓、あれまだ要るがか」
「何年も使っとらんからって捨てていいもんでもないやろ」
湊は口を挟まずに聞いていた。
残したい人がいる。
もうやめたい人もいる。
使うものだけあればいいという人もいれば、使わなくても残しておきたいものがあるという人もいる。そもそも自治会がどうなろうと気にしていない人までいた。
「昔からやっとることを、何で今さらやめんなんが」
年配の男性が言うと、向かいの女性がすぐに返した。
「じゃあ誰がやるんですか。若い人おらんがに」
「できるもんでやればいい」
「それでずっと同じ人に回っとるから統合するんでしょう」
少しだけ空気が硬くなった。
紗季が湊の隣で小さく息を吐く。
「こうなると思った」
「でも、これでいいと思います」
「揉めてますけど」
「何も決まってないってことが、ちゃんと出てきたから」
昨日までの深守では、変わっていくこと自体は誰もが知っていた。
人が減った。行事が減った。共同作業が減った。家が移り、空き家が増え、今度は自治会も形を変える。
だが、それぞれが何を終わったものとして扱い、何をまだ続いているものとして扱うのかを、わざわざ確かめる必要はなかった。
一時間ほどして、自治会長が机を軽く叩いた。
「いっぺん分けよう。話まとまらんわ」
三枚の紙を並べる。
《統合先へ引き継ぐ》
《深守で管理する》
《廃止・処分》
誰かが「会社みたいやな」と笑ったが、そこから話は早かった。
防災備品の一部は統合先へ引き継ぐ。古い消火器は処分し、草刈り機は深守側に残して管理者を決める。回覧板は統合後の方式へ変更し、古い名簿には保存期限を設ける。
祭礼用品については意見が割れたため、すぐには決めず円明寺と相談することになった。共有地についても権利関係を確認する必要があり、集会所は市との契約を調べることになった。
全部を今日決める必要はない。
決められないものには、誰が、いつまでに確認するかを書いた。
ナギは三枚の紙をしばらく見比べてから、自治会長に尋ねた。
「深守って名前は?」
「名前?」
「これは、どこに入るの?」
自治会長が笑った。
「深守は別になくならんやろ」
「どうして?」
「どうしてって……」
「自治会は隣と一緒になるんでしょ。住所にも深守って入ってないって言ってた」
何人かが顔を見合わせた。
ナギは真面目に聞いている。
「じゃあ、深守はどこに残るの?」
今度はすぐに答える者がいなかった。
やがて野上が言った。
「どこにも書いてなくても、深守は深守やろ」
「何で?」
「俺らがそう呼ぶからや」
すると別の女性が、「バス停にも残っとる」と口を挟んだ。
「道路の看板もあるぞ」
「寺の案内にも書いてある」
「祭りだって深守の祭りやったしな」
紗季も手を挙げた。
「私、町で出身どこって聞かれたら深守って言いますよ」
「お前、帰ってこんくせに」
「それとこれとは別でしょ」
今度は大きな笑いになった。
湊はそのやり取りを聞きながら、何も書き留めなかった。
住所だけではない。
自治会だけでも、看板だけでもない。今そこに住んでいる人間だけで決まるものでもないらしい。
複数のものが重なって、深守を深守として扱っている。
一つが終わっても、それだけで全部が終わるわけではない。
「統合したあとも、地区名くらい残せんがか」
誰かが言った。
自治会長が資料をめくる。
「班の名前とかなら向こうと相談できると思うぞ」
「《深守班》?」
「ださいな」
「そこ気にするんか」
笑いながらも、自治会長は余白に《地区名の扱い確認》と書き加えた。
*
午後からは、実際に手を動かした。
大げさなことは何もしなかった。
集会所の倉庫から壊れた道具を出し、統合先へ渡す防災用品には札を付ける。深守で使い続ける草刈り機には新しい管理者を決め、古い回覧順は現在の家を基準にした一覧へ差し替えた。
寺西家の旧住所が残っていた紙も外された。
紗季がそれを丸めようとしたところで、湊は一瞬だけ目を止めた。
「これ、捨てますよ?」
「はい」
「止めるかと思った」
「何でです?」
「何となく」
湊は古い住所を見る。
そこに寺西家があったことは、紙を捨てても消えない。
「もう役目がないなら、いいんじゃないですか」
紗季は少し笑って、紙を古紙の箱へ入れた。
何も起こらなかった。
一方で、自治会長は古い祭礼帳を捨てなかった。
「これは寺に聞いてからやな」
野上は共同小屋の道具を確認し、誰のものか分からない物には札を付けた。
寺西家の祖母は、旧宅跡の畑をこれからも使うという。
「畑は畑や。家はもうこっち」
その言い方が、湊には一番分かりやすかった。
昔そこに家があったことを消す必要はない。土地を手放す必要もないし、記憶を忘れる必要もない。
ただ、今の家と昔の家を、同時に現在の寺西家として扱う必要もない。
夕方までに、すべてが片づいたわけではなかった。
むしろ宿題の方が多い。
それでも昨日までと違い、何を誰が引き受け、何を終わらせるのかが少しずつ言葉になっていた。
*
最後に、異常が起きた三軒を確かめた。
坂井家には、紗季が試しに小さな荷物を送っていた。配送完了の通知を確認して現在の家へ行くと、荷物は玄関前に置かれていた。
配送写真も同じ玄関で、位置情報も一致している。
寺西家では、新しい回覧順に従って回覧板を置いた。
十分待っても消えなかった。
最後は野上家だった。
本人が「もう一回電話してみろ」と言うので、湊たちは旧宅跡まで歩き、そこから固定電話へかけた。
野上が出る。
『おう』
「今どこです?」
『家』
「玄関の外には何があります?」
少し間があった。
『コンクリと、車と植木鉢。何回聞くがよ』
湊は目の前の旧宅跡を見る。
こちらにあるのは草と石垣、それから平たい石だけだった。
「昔の家は?」
『お前らが今おるとこやろ』
野上は電話の向こうで笑った。
『もう家はないけどな』
通話を切ると、ナギが旧宅跡を見回した。
「終わった?」
「全部分かったわけじゃないけど、今起きてたことは収まったと思う」
「深守も?」
湊は少し考えた。
自治会は予定どおり統合される。
終わるものもある。
それでも、今日集まった人たちは、何を残すかを自分たちで話していた。
「自治会が変わっても、深守までなくなるわけじゃないみたいだな」
「深守はある?」
「あるよ」
今度は迷わなかった。
「少なくとも、ここにいる人たちはそう思ってる」
*
深守を出る前に、円明寺へ寄った。
住職に《家渡》について分かったことを話すと、老人は何度もうなずいた。
「そうかもしれんなあ」
「分からないんですか」
ナギが聞く。
「昔のことは、分からんことの方が多いよ」
住職は笑った。
「分からんままでも、続くもんは続く」
寺を出ようとしたところで、住職が湊を呼び止めた。
「そういや、あんたら、最初は石の印を調べとったんやったな」
「はい」
深守で見つかった二つの印。
便宜上、《境印》と呼ばれていたもの。
だが、それが集落の境を示すものではないことは、ここへ来てすぐに分かった。
「昔、あの先生も最後は家の話ばっかりしとったぞ」
湊は振り返った。
「研究者の人ですか?」
「名前は忘れたけどな。何べんも来とった人や」
「何を調べてたんです?」
「最初は石やったと思うけどな。途中から、家がどこから来たとか、昔どこにあったとか、そんなことばっかり聞いとった」
湊とナギは顔を見合わせた。
自分たちも同じだった。
印を追って深守へ来たはずが、最後に調べていたのは家だった。
「ほかに何か言ってませんでした?」
住職はしばらく考えた。
「石そのもの見ても意味がない、とか言っとった気がする」
「石そのもの?」
「印がある場所じゃなくて、その前と後を見ろって。何が変わる場所なのか調べるんや、とか何とか」
何が変わる場所なのか。
村の内と外ではなかった。
少なくとも深守では、一本の境界線を示すものでもなかった。
湊は、研究者の資料に残されていた一文を思い出した。
《境とは、何の境か。》
あれは《境印》という呼び名を疑っただけではなく、印が示すものそのものを捉え直そうとしていた言葉だったのかもしれない。
「博物館に戻ろう」
湊が言うと、ナギはすぐにうなずいた。
*
翌朝、博物館の閲覧室で研究者の箱をもう一度開いた。
以前は、印の形と場所ばかり追っていた。
今度は違う。
印のある場所で、何と何の扱いが変わっているのか。
深守の資料を並べ直すと、走り書きの一枚が出てきた。
《標そのものに境界性を求めるべきではない。標は境界を作るものではなく――》
その先は擦れていた。
湊は紙を傾け、薄く残った鉛筆の跡を追った。
《――異なる取扱いの接点を示すものか。》
「取扱い」
ナギが読んだ。
湊は深守の地図を見る。
二つの印は、現在の集落境とも古い地図とも一致しない。それでも研究者は調査をやめず、家の移転まで追っていた。
印が世界を変えていたのではない。
何かを見つけた人間が、そこへ印を残した。
そう考えた方が、今のところは筋が通る。
箱の中をさらに探した。
深守。
水守。
岐阜。
長野。
同じ印が記録された土地の資料が続く。
その下から、薄い紙束が出てきた。
表紙には、
《比較調査候補》
とある。
地名が縦に並んでいた。
湊の指が止まった。
《芦倉》
横には、鉛筆で注記がある。
《三例。いずれも村境に非ず。》
芦倉でも、印は村を囲む境界を示していなかった。
その下に、消して書き直した跡がある。
《一例、対応物を確認できず。》
ナギが横から覗き込んだ。
「対応物?」
「分からない」
湊は答えながら、深守の資料を見る。
旧宅と現宅。
場所は違っても、二つの間には《同じ家》としてのつながりがあった。
研究者は、それを《対応》と呼んでいたのだろうか。
まだ分からない。
芦倉について書かれた一文だけでは、何と何を比べていたのかさえ読み取れなかった。
だが、余白にはもう一つ書き込みがある。
《地名照合不能。聞取継続。》
湊の指が止まった。
芦倉という地名そのものを、研究者は調べていた。
しかも、この資料が書かれたのは二十年以上前だ。
湊がまだ芦倉へ通っていた頃より、さらに前。
その時点ですでに研究者は、芦倉にある三つの印のうち一つについて《対応物を確認できず》と記し、地名の照合まで続けていた。
今起きていることとは、時間が合わない。
芦倉が地図から消えたのが最近だと、湊はどこかで思っていた。
自分が最後に訪れた七年前から、今までのどこかで。
けれど。
研究者の記録が正しいなら、少なくとも二十年以上前には、すでに何かが噛み合っていなかったことになる。
ナギが紙を見たまま聞いた。
「昔から、おかしかったの?」
湊は答えなかった。
《地名照合不能。聞取継続。》
その一行を、もう一度読む。
芦倉は、ある日突然なくなったのではないのかもしれない。




