東京を歩く
深守を出た翌日、湊はナギを連れて東京へ戻った。
芦倉について確かめたいことは増えていたが、いつまでも富山にいるわけにもいかない。母のことは警察に相談したままだったし、仕事のことも片づける必要がある。
東京へ戻る前に、母の家にも寄った。
住所録、古い年賀状、祖父母や芦倉が写った写真。何が手掛かりになるか分からない。使えそうなものは一通り鞄に詰めた。
その辺は抜かりなかった。
ナギも一緒だった。
どこへ行くのかと聞かれて、東京、と答えた。
「遠い?」
「まあまあ」
「行っていい?」
湊は少し考えた。
富山に残しておく理由も、預ける相手もいない。それに、芦倉を知っているかもしれない唯一の人間を置いていく気にもなれなかった。
「来る?」
「行く」
それで決まった。
東京へ戻った翌日、湊は会社へ行った。
母親と連絡が取れないこと、警察にも相談していることはすでに伝えてある。上司から休職制度の説明を受け、書類を書き、必要な引き継ぎを済ませた。
もう少し大きな決断をしたような気がしていたのだが、実際には書類を何枚か書いただけだった。
十一時過ぎには会社を出ていた。
東京はこういうところが早い。
昨日までいた深守では、何か一つ決めるにも人が集まった。昔はどうだった、あの家はどうだったと話が逸れ、誰かが戻して、また別の誰かが口を挟む。それでも最後には、なんとなく皆が納得するところへ落ち着いていた。
東京では、湊一人がしばらく会社を休むことが、午前中で片づいた。
どちらがいいという話でもない。
ただ、速い。
駅へ向かう人の流れに混じりながら、ナギに電話しようとしてやめた。
電話を持っていない。
東京へ連れてくる前に気づくべきだった。
家へ帰ると、ナギは床に座ってテレビを見ていた。
「何見てんの?」
「分からない」
「いつから?」
「湊が出てから」
三時間近い。
テーブルにはパンの袋と空になったヨーグルトがあった。
「仕事は?」
「終わった」
「もう?」
「俺もそう思った」
当面の金はある。働き始めてから派手に使うこともなく貯めてきた金で、数か月ならどうにかなる。
部屋の隅には、富山から持ってきた鞄が置いてあった。
住所録も写真も、その中にある。
湊は鞄を見た。
「……明日でいいか」
「芦倉?」
「ああ」
今日は一日くらい、何もしなくてもいい気がした。
芦倉がなくなっていることに気づいてから、ずっと何かを追いかけていた。
「出るぞ」
「どこに?」
「東京」
ナギが窓の外を見る。
「ここも東京だよ」
「知ってるよ」
二人で外へ出た。
最初に神保町へ行った。
東京へ出てきたばかりの頃、湊はよくこの辺りを歩いた。古本が好きだったというより、金を使わずに時間を潰せたからだ。
ナギは店先の本を眺めながら歩いた。
「湊、これ読んだ?」
「ない」
「これは?」
「ない」
「本好きじゃないの?」
「全部読んでたら怖いだろ」
店の奥へ入っても、ナギは棚を順番に見ていた。
そのうち一冊の文庫本を手に取った。表紙を見る。裏返す。値札を見る。
三百円。
それから元の場所へ戻した。
湊は少し先へ行ってから振り返った。
「いらないの?」
「お金ない」
そうだった。
ナギは財布どころか、一円も持っていない。
「欲しい?」
ナギは棚を見る。
「読んでみたい」
湊は本を取った。
「じゃあ買えばいいだろ」
「湊が?」
「他に誰がいるんだよ」
会計を済ませて渡す。
ナギは受け取った本を見ていた。
「返す?」
「三百円を?」
「うん」
「そのうちな」
「いつ?」
「お前が働いたら」
「何して?」
「それは自分で考えろ」
ナギは文庫本を持ったまま店を出た。
少し歩いてから聞いてきた。
「これ、私の?」
「買ったんだからそうだろ」
ナギはもう一度、表紙を見た。
鞄を持っていないので、結局しばらく手に持って歩いていた。
神保町で昼を食べた。
昔よく来た安い定食屋だった。
ナギには湊と同じものを頼んだが、先に食べ終わった。
「足りた?」
「うん」
そう言いながら、湊の皿を見ている。
湊は残っていた唐揚げを一つ向こうへ移した。
「いらないの?」
「腹いっぱい」
嘘だった。
ナギは気にせず食べた。
店を出て、御茶ノ水へ向かった。
聖橋の上でナギが電車を見つけて立ち止まる。
湊は少し先まで行ってから戻った。
電車が二本通るまで待った。
それから秋葉原へ下った。
音と看板と人の量に、ナギは目を忙しく動かしていた。
人混みが濃くなると、湊は何も言わずナギを自分の内側へ寄せた。
店先に並んだカプセルトイの前で、ナギが止まった。
さっきまでとは違って、動かない。
「どうした?」
「これ何?」
「ガチャガチャ」
透明なケースの向こうに、小さなマスコットが何種類か並んでいる。
丸い犬。丸い猫。丸い鳥。何なのかよく分からないものもいる。
「お金入れて、ここ回す」
「どれが出るの?」
「分からない」
ナギが湊を見る。
「選べない?」
「選べない」
「鳥が欲しい」
「じゃあ鳥が出るように祈れ」
「誰に?」
「知らん」
ナギはケースへ顔を近づけた。
しばらく見ている。
湊は先へ行こうとして、やめた。
「やる?」
ナギはすぐには答えなかった。
神保町では、本を手に取っても自分から欲しいとは言わなかった。
今度は違った。
「やりたい」
湊は財布から硬貨を出し、ナギの手に載せた。
「二百円」
ナギは硬貨を見て、それから投入口に入れた。
レバーを回す。
中で何かが動く音がした。
カプセルが一つ落ちてくる。
ナギが取り出した。
すぐには開かない。
「硬い」
「貸せ」
「自分でやる」
もう一度力を入れる。
ぱかりと開いた。
中身を取り出す。
丸い鳥だった。
黄色い体に、小さな羽。妙に目つきが悪い。
ナギはしばらく手のひらの上を見ていた。
「鳥出た」
「運いいな」
指で羽を触る。裏を見る。正面へ戻す。
「かわいい」
「目つき悪いぞ」
ナギは鳥を湊の顔の横まで持ち上げた。
交互に見る。
「似てる」
「どこがだよ」
鳥を取り返そうとすると、ナギが手を引いた。
「私の」
湊の手が止まった。
「取らねえよ」
ナギはまた鳥を見る。
「名前つける」
「商品名あるんじゃないの」
「知らない」
少し考える。
「マル」
「鳥なのに?」
「丸いから」
「そのままだな」
「マル」
もう決まったらしい。
ナギはマルをポケットに入れた。
数歩歩いてから、ポケットを触る。
さらに少し歩いて、また触った。
「落ちないって」
「分からない」
「じゃあ俺持っとこうか」
「やだ」
即答だった。
湊はそれ以上言わなかった。
神保町の文庫本。
二百円のマル。
どちらも大したものではない。
けれど、名前しか持っていなかったナギのものが、今日は二つ増えた。
上野まで歩いた。
アメ横を抜け、駅から地下鉄に乗る。
今日は湊が昔よく歩いた場所を、なんとなく辿っていた。
東京へ来たばかりの頃は、一人で歩くことが多かった。
別に嫌ではなかった。
今も一人は嫌いではない。
ただ、今日は歩く速度が少し遅かった。
ナギがあちこちで止まるからだ。
銀座で地上へ出た。
「ここは?」
「銀座」
「何があるの?」
「高いもの」
ナギがショーウインドーの値札を見た。
「本当に高い」
「だろ」
新橋の方へ抜けた頃には、日が傾いていた。
ビルの間から、東京タワーが見えた。
ナギが止まった。
それまでとは少し違った。
本屋でも、電車でも、秋葉原でも、興味を持てば近づいて見ていた。
今はただ、遠くに見える塔を見ている。
「何、あれ」
「東京タワー」
「東京タワー……」
ナギはその名前を小さく繰り返した。
湊は先を急がなかった。
しばらくして、ナギが言った。
「行きたい」
湊はナギを見る。
「今から?」
「うん」
今日は予定などない。
「じゃあ行くか」
ナギは東京タワーの方へ歩き出した。
「そっちじゃない」
足が止まった。
湊はスマートフォンを出した。
「見えてても、道があるとは限らないんだよ」
芝公園へ着く頃には、空が夕方の色になっていた。
近くから見上げる東京タワーは、思っていたより大きかった。
展望台へ上がる。
東京の街に、一つずつ灯りが増えていた。
ナギは窓際に立ったまま、長いこと動かなかった。
「すごい?」
「うん」
「何が?」
少し考える。
「家がいっぱいある」
「東京だからな」
遠くまで街が続いている。
湊も昔、ここから同じ景色を見た。
高校を卒業して東京へ出てきたばかりの頃だった。
あのときは、自分を知っている人間がほとんどいない街が気楽だった。
今は隣に、本人すら自分を知らない人間がいる。
「湊」
ナギは外を見たままだった。
「ここ、知ってる気がする」
「来たことあるんじゃないか」
「分からない」
「記憶ないんだから、ありえるだろ」
ナギはもう一度、街を見る。
それ以上の話にはならなかった。
展望台を降りる。
外へ出ると、もう夜だった。
ナギはポケットからマルを出した。
東京タワーを背景に、手のひらへ載せている。
「何してんの?」
「見せてる」
「マルに?」
「うん」
「見えてんの、それ」
ナギは答えず、もう少しだけそうしていた。
それからマルをポケットへ戻す。
「お腹空いた」
「昼、俺より食っただろ」
「歩いたから」
「何食いたい?」
ナギは考えたが、決まらない。
「じゃあラーメンでいいか」
「好き?」
「俺が?」
「うん」
「好きだけど」
「じゃあそれ」
駅へ向かう。
今日一日、湊が昔歩いた場所をナギに見せていた。
最後くらい、自分の好きなものでもいい。
明日になったら、母の住所録を開く。
古い写真も見る。
芦倉にいた人間を、一人ずつ探していく。
そのためのものは、ちゃんと持ってきてある。
今夜はラーメンを食べて帰る。
それでよかった。




