↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/26

境ではない場所

翌日、湊とナギはもう一度資料館を訪れた。


受付には前と同じ老人がいた。湊の顔を見るなり「また来たんか」と笑われたので、水守で考えたことを簡単に話す。


「境印って、村の入口を示すものとは限らないんじゃないですか」


「何か分かった?」


「逆です。水守のは旧道沿いにあったけど、そこが本当に村の境だった証拠はないなって」


老人は少し感心したように頷いた。


「分からんものを、分からんまま置いとけるようになったな」


「褒められてます?」


「たぶん」


老人は奥へ消え、しばらくして大きな箱を抱えて戻ってきた。


以前の研究者が残した資料だった。


地図のコピー、写真、大学ノート、聞き取りのメモ。整理されていない紙束には、《旧道沿い》《社地裏》《峠入口》《水場付近》《墓地道》といった記述が残っている。


境印が確認された場所は、思っていたよりばらばらだった。


「やっぱり入口だけじゃないな」


「でも、道とか山の近くが多い」


ナギが写真を覗き込む。


「山の石なんだから、それだけじゃ何とも言えない」


何枚かめくったところで、見覚えのある印が現れた。


鳥のような形。


写真の下には《深守》とある。


同じ名前の封筒を探すと、三枚の地図が出てきた。調査当時の道路地図、それより古い地形図、研究者自身が描いた略図。


略図には赤い丸が二つある。


《深守集落周辺において境標二基を確認。いずれも現行の集落境とは一致せず。》


「昔の境?」


ナギが聞く。


「俺もそう思った」


道路や集落の形が変わったのなら、昔の入口だった可能性がある。水守の境印も旧道沿いにあった。


だが、次の紙には、


《明治期地図とも整合せず。》


とある。


さらに、


《古老数名に旧来の深守の位置を尋ねたが、回答が一致しない。》


その下には聞き取りの断片が並んでいた。


《昔はもっと谷の奥》


《いや、あそこは上深守》


《川向こうまで深守》


《寺の下から》


《うちは昔、向こうにあった》


《俺んちは沢の上》


研究者自身も答えを出せなかったらしい。


地図には赤と青の鉛筆で何本もの線が引かれ、そのほとんどが途中で消されている。


その端に、小さな書き込みがあった。


《境とは、何の境か。》


湊はスマートフォンを取り出した。


昨日、自分が残したメモ。


《境って、何の境だ?》


ほとんど同じだった。


二十年以上前、自分の知らない研究者が同じところで立ち止まっている。


「この人も分からなかったんだ」


「何が?」


「この印が、何を分けてるのか」


     *


深守は地図にあった。


住所も道路もあり、航空写真には家まで写っている。


芦倉とは違う。


現在地から車で一時間半ほど。まだ午後三時前だった。


「行くか」


「今から?」


「明日にする理由もないだろ」


深守について調べると、人口減少や高齢化についての記事に混じって、《深守地区自治会統合に伴う――》という行政資料が出てきた。


隣接地区との自治会統合。


共同施設の管理。


防災。


ごみ集積所。


珍しい話ではない。


「深守、なくなるの?」


ナギが聞いた。


「自治会が一緒になるだけだよ」


「じゃあ、深守は残る?」


湊は答えなかった。


名前が残れば、同じ場所なのか。


水守で森川家を見たばかりなのに、簡単に答えられる気はしなかった。


必要な資料だけコピーさせてもらう。


二基の境印。


何度も引き直された地図。


古老たちの証言。


その中に、家の跡を撮った写真が何枚かあった。


《旧・坂井家 現宅まで徒歩約十二分》


《旧・野上家》


《旧・寺西家》


研究者の略図には、旧宅と当時の家を結ぶ線が何本も引かれている。


一つの集落がまとめて移転したようには見えない。


家ごとに、違う方向へ動いていた。


湊はそのコピーも鞄へ入れた。


     *


ナビに《深守》を入れると、何事もなく経路が表示された。


到着予定は午後四時半過ぎ。


「ちゃんと道あるね」


助手席でナギが言う。


「縁起でもないこと言うな」


市街地を抜け、国道を走る。


一時間ほどすると家が減り、川が道路へ寄ってきた。山が両側から迫り、カーブが増えていく。


やがて青い案内標識が現れた。


《深守 7km》


七キロ。


それだけのことなのに、湊は芦倉へ向かった日のことを思い出した。


だが今回は道がある。


《深守 4km》


家が数軒ある。


郵便ポストも、自動販売機もある。


《深守 2km》


そこで湊は速度を落とした。


「この辺だ」


研究者の略図では、一基目の境印がこの付近にある。


少し先に車を停め、二人で歩いて戻る。片側は斜面、反対側は川。二十一年前の写真と見比べながら探すと、ナギが先に足を止めた。


「これ」


草に半分埋もれた石が一本立っていた。


苔の下に、鳥のような印がある。


「一基目」


研究者の記録通りだった。


湊は写真を撮り、現在地を確認する。


深守の中心として表示される場所までは、まだ二キロ近くある。


昔の入口だった。


そう考えれば簡単だ。


だが研究者は二十一年前にそれを調べ、《明治期地図とも整合せず》と残している。


では、何のための印なのか。


答えは出ない。


二人は車へ戻った。


     *


一キロほど進むと、家が見え始めた。


道路沿いに一軒。川の向こうに一軒。斜面の上にも屋根がある。


掲示板には《深守地区》と書かれていた。


「着いた?」


「住所では、もう深守」


家々は一か所に固まらず、谷の両側に点在している。


研究者の地図と見比べていると、ナギが窓の外を指した。


「止めて」


斜面に低い石垣が見えた。


車を寄せて降りる。


草に覆われているが、石垣の内側だけ地面が平らになっている。奥には古い水路も残っていた。


研究者の写真を出した。


同じ場所だった。


《旧・坂井家》


「ここに家があったんだ」


「今は?」


写真の裏には、《現宅まで徒歩約十二分》。


略図では、谷の反対側に線が伸びている。


そのとき、軽トラックが上がってきた。


二人の横で速度を落とし、窓が開く。


運転していたのは七十代くらいの男だった。


「何しとる?」


「すみません。この辺の昔のことを調べてて」


湊は石垣を指した。


「ここ、坂井さんの家があった場所ですか」


「ああ」


男は迷わなかった。


「今の坂井さんの家って、どこです?」


「あっち」


谷の反対側を指す。


研究者の記録と一致する。


「いつ移ったか分かります?」


「さあ。俺が子供んときには、もうあっちやったと思うけど」


「ここって、昔の深守なんですか」


男が眉を寄せた。


「昔の?」


「昔はこの辺に家が集まってたとか」


「いや」


「じゃあ、深守の中心ってどこだったんです?」


今度は男が黙った。


難しい質問をされたというより、質問の意味が分からないようだった。


「中心って言われてもなあ」


少し考えてから、谷の上流を指す。


「俺んちは昔からあっちや」


「坂井さんちは、ここだったんですよね」


「そうやよ」


「ほかにも家が移ってます?」


「そりゃある。寺西んとこも昔は下やったし、野上んちは川向こうやった」


研究者のメモと同じ名前だった。


湊はそこで気づいた。


研究者の聞き取りにあった、


《うちは昔、向こうにあった》


《俺んちは沢の上》


という証言。


食い違っていたのではない。


坂井家は坂井家の移動について話していた。


寺西家には寺西家の移動があり、野上家にも別の移動があった。


時期も方向も違う。


この人たちは最初から、同じ出来事について話していなかったのだ。


     *


軽トラックが去ったあと、湊は研究者の地図を広げた。


何度も引き直された境界線。


昔の深守を見つけられなかったから、線が定まらなかったのだと思っていた。


だが、一軒ずつ家が移り、そのたびに人が暮らす範囲が少しずつ変わってきたのなら、


「昔の深守はどこだった?」


という問いに、一つの正解があるとは限らない。


「二個目の印、見に行く?」


ナギが聞いた。


湊は地図を見る。


日は傾いていたが、研究者の記録ではここからそれほど遠くない。


「行こう」


二人は車へ戻った。


     *


二基目は、集落を抜けた先にあるはずだった。


舗装路から細い道へ入り、途中から車を置いて歩く。


杉林の中はすでに薄暗い。


研究者の写真と地形を照らし合わせながら進むと、十分ほどで石が見つかった。


一基目より小さい。


表面を苔が覆っている。


湊はしゃがみ、手で苔を避けた。


同じ印だった。


「二個目」


ナギが言う。


「うん」


これで研究者の記録は正しかった。


湊は現在地を確認する。


次に古い地図を開く。


現在の深守。


明治期の深守。


旧宅の位置。


移転後の家。


何度も引き直された研究者の線。


一つずつ見比べた。


やはり、どれにも合わない。


「変だな」


「何が?」


「もし村の境を示す印なら、何かの線には乗るはずなんだ」


現在の境ではない。


明治期の境でもない。


旧道の入口でもない。


家々が移る前の範囲を想定しても、この位置は中途半端だった。


ナギが石の向こうを見る。


「じゃあ、何の境?」


「それを調べてる」


湊も顔を上げた。


石の先には、杉林が続いている。


何かあるようには見えない。


研究者の写真をもう一度見る。


二十一年前も同じだ。


杉。


斜面。


石。


その裏面に、まだ読んでいなかった書き込みがあることに気づいた。


薄い鉛筆だった。


湊はスマートフォンのライトを当てる。


《聞取では、この標を越えた先にも旧宅あり。》


一瞬、意味が分からなかった。


もう一度読む。


境印の向こうにも、家があった。


つまり、この石を村の内と外を分けるものだと考えるなら、


境の外側にも、


深守の家があったことになる。


その下に、研究者が一行だけ書き足していた。


《境標という仮称自体、再考を要す。》


湊は石を見る。


芦倉。


水守。


深守。


ずっと、この印を《境印》と呼んできた。


だがそれは、研究者が便宜上つけた名前にすぎない。


ナギが隣で聞いた。


「これ、境じゃないの?」


湊は答えられなかった。


目の前にあるものについて、


自分たちは最初から、


名前を間違えていたのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。