境ではない場所
翌日、湊とナギはもう一度資料館を訪れた。
受付には前と同じ老人がいた。湊の顔を見るなり「また来たんか」と笑われたので、水守で考えたことを簡単に話す。
「境印って、村の入口を示すものとは限らないんじゃないですか」
「何か分かった?」
「逆です。水守のは旧道沿いにあったけど、そこが本当に村の境だった証拠はないなって」
老人は少し感心したように頷いた。
「分からんものを、分からんまま置いとけるようになったな」
「褒められてます?」
「たぶん」
老人は奥へ消え、しばらくして大きな箱を抱えて戻ってきた。
以前の研究者が残した資料だった。
地図のコピー、写真、大学ノート、聞き取りのメモ。整理されていない紙束には、《旧道沿い》《社地裏》《峠入口》《水場付近》《墓地道》といった記述が残っている。
境印が確認された場所は、思っていたよりばらばらだった。
「やっぱり入口だけじゃないな」
「でも、道とか山の近くが多い」
ナギが写真を覗き込む。
「山の石なんだから、それだけじゃ何とも言えない」
何枚かめくったところで、見覚えのある印が現れた。
鳥のような形。
写真の下には《深守》とある。
同じ名前の封筒を探すと、三枚の地図が出てきた。調査当時の道路地図、それより古い地形図、研究者自身が描いた略図。
略図には赤い丸が二つある。
《深守集落周辺において境標二基を確認。いずれも現行の集落境とは一致せず。》
「昔の境?」
ナギが聞く。
「俺もそう思った」
道路や集落の形が変わったのなら、昔の入口だった可能性がある。水守の境印も旧道沿いにあった。
だが、次の紙には、
《明治期地図とも整合せず。》
とある。
さらに、
《古老数名に旧来の深守の位置を尋ねたが、回答が一致しない。》
その下には聞き取りの断片が並んでいた。
《昔はもっと谷の奥》
《いや、あそこは上深守》
《川向こうまで深守》
《寺の下から》
《うちは昔、向こうにあった》
《俺んちは沢の上》
研究者自身も答えを出せなかったらしい。
地図には赤と青の鉛筆で何本もの線が引かれ、そのほとんどが途中で消されている。
その端に、小さな書き込みがあった。
《境とは、何の境か。》
湊はスマートフォンを取り出した。
昨日、自分が残したメモ。
《境って、何の境だ?》
ほとんど同じだった。
二十年以上前、自分の知らない研究者が同じところで立ち止まっている。
「この人も分からなかったんだ」
「何が?」
「この印が、何を分けてるのか」
*
深守は地図にあった。
住所も道路もあり、航空写真には家まで写っている。
芦倉とは違う。
現在地から車で一時間半ほど。まだ午後三時前だった。
「行くか」
「今から?」
「明日にする理由もないだろ」
深守について調べると、人口減少や高齢化についての記事に混じって、《深守地区自治会統合に伴う――》という行政資料が出てきた。
隣接地区との自治会統合。
共同施設の管理。
防災。
ごみ集積所。
珍しい話ではない。
「深守、なくなるの?」
ナギが聞いた。
「自治会が一緒になるだけだよ」
「じゃあ、深守は残る?」
湊は答えなかった。
名前が残れば、同じ場所なのか。
水守で森川家を見たばかりなのに、簡単に答えられる気はしなかった。
必要な資料だけコピーさせてもらう。
二基の境印。
何度も引き直された地図。
古老たちの証言。
その中に、家の跡を撮った写真が何枚かあった。
《旧・坂井家 現宅まで徒歩約十二分》
《旧・野上家》
《旧・寺西家》
研究者の略図には、旧宅と当時の家を結ぶ線が何本も引かれている。
一つの集落がまとめて移転したようには見えない。
家ごとに、違う方向へ動いていた。
湊はそのコピーも鞄へ入れた。
*
ナビに《深守》を入れると、何事もなく経路が表示された。
到着予定は午後四時半過ぎ。
「ちゃんと道あるね」
助手席でナギが言う。
「縁起でもないこと言うな」
市街地を抜け、国道を走る。
一時間ほどすると家が減り、川が道路へ寄ってきた。山が両側から迫り、カーブが増えていく。
やがて青い案内標識が現れた。
《深守 7km》
七キロ。
それだけのことなのに、湊は芦倉へ向かった日のことを思い出した。
だが今回は道がある。
《深守 4km》
家が数軒ある。
郵便ポストも、自動販売機もある。
《深守 2km》
そこで湊は速度を落とした。
「この辺だ」
研究者の略図では、一基目の境印がこの付近にある。
少し先に車を停め、二人で歩いて戻る。片側は斜面、反対側は川。二十一年前の写真と見比べながら探すと、ナギが先に足を止めた。
「これ」
草に半分埋もれた石が一本立っていた。
苔の下に、鳥のような印がある。
「一基目」
研究者の記録通りだった。
湊は写真を撮り、現在地を確認する。
深守の中心として表示される場所までは、まだ二キロ近くある。
昔の入口だった。
そう考えれば簡単だ。
だが研究者は二十一年前にそれを調べ、《明治期地図とも整合せず》と残している。
では、何のための印なのか。
答えは出ない。
二人は車へ戻った。
*
一キロほど進むと、家が見え始めた。
道路沿いに一軒。川の向こうに一軒。斜面の上にも屋根がある。
掲示板には《深守地区》と書かれていた。
「着いた?」
「住所では、もう深守」
家々は一か所に固まらず、谷の両側に点在している。
研究者の地図と見比べていると、ナギが窓の外を指した。
「止めて」
斜面に低い石垣が見えた。
車を寄せて降りる。
草に覆われているが、石垣の内側だけ地面が平らになっている。奥には古い水路も残っていた。
研究者の写真を出した。
同じ場所だった。
《旧・坂井家》
「ここに家があったんだ」
「今は?」
写真の裏には、《現宅まで徒歩約十二分》。
略図では、谷の反対側に線が伸びている。
そのとき、軽トラックが上がってきた。
二人の横で速度を落とし、窓が開く。
運転していたのは七十代くらいの男だった。
「何しとる?」
「すみません。この辺の昔のことを調べてて」
湊は石垣を指した。
「ここ、坂井さんの家があった場所ですか」
「ああ」
男は迷わなかった。
「今の坂井さんの家って、どこです?」
「あっち」
谷の反対側を指す。
研究者の記録と一致する。
「いつ移ったか分かります?」
「さあ。俺が子供んときには、もうあっちやったと思うけど」
「ここって、昔の深守なんですか」
男が眉を寄せた。
「昔の?」
「昔はこの辺に家が集まってたとか」
「いや」
「じゃあ、深守の中心ってどこだったんです?」
今度は男が黙った。
難しい質問をされたというより、質問の意味が分からないようだった。
「中心って言われてもなあ」
少し考えてから、谷の上流を指す。
「俺んちは昔からあっちや」
「坂井さんちは、ここだったんですよね」
「そうやよ」
「ほかにも家が移ってます?」
「そりゃある。寺西んとこも昔は下やったし、野上んちは川向こうやった」
研究者のメモと同じ名前だった。
湊はそこで気づいた。
研究者の聞き取りにあった、
《うちは昔、向こうにあった》
《俺んちは沢の上》
という証言。
食い違っていたのではない。
坂井家は坂井家の移動について話していた。
寺西家には寺西家の移動があり、野上家にも別の移動があった。
時期も方向も違う。
この人たちは最初から、同じ出来事について話していなかったのだ。
*
軽トラックが去ったあと、湊は研究者の地図を広げた。
何度も引き直された境界線。
昔の深守を見つけられなかったから、線が定まらなかったのだと思っていた。
だが、一軒ずつ家が移り、そのたびに人が暮らす範囲が少しずつ変わってきたのなら、
「昔の深守はどこだった?」
という問いに、一つの正解があるとは限らない。
「二個目の印、見に行く?」
ナギが聞いた。
湊は地図を見る。
日は傾いていたが、研究者の記録ではここからそれほど遠くない。
「行こう」
二人は車へ戻った。
*
二基目は、集落を抜けた先にあるはずだった。
舗装路から細い道へ入り、途中から車を置いて歩く。
杉林の中はすでに薄暗い。
研究者の写真と地形を照らし合わせながら進むと、十分ほどで石が見つかった。
一基目より小さい。
表面を苔が覆っている。
湊はしゃがみ、手で苔を避けた。
同じ印だった。
「二個目」
ナギが言う。
「うん」
これで研究者の記録は正しかった。
湊は現在地を確認する。
次に古い地図を開く。
現在の深守。
明治期の深守。
旧宅の位置。
移転後の家。
何度も引き直された研究者の線。
一つずつ見比べた。
やはり、どれにも合わない。
「変だな」
「何が?」
「もし村の境を示す印なら、何かの線には乗るはずなんだ」
現在の境ではない。
明治期の境でもない。
旧道の入口でもない。
家々が移る前の範囲を想定しても、この位置は中途半端だった。
ナギが石の向こうを見る。
「じゃあ、何の境?」
「それを調べてる」
湊も顔を上げた。
石の先には、杉林が続いている。
何かあるようには見えない。
研究者の写真をもう一度見る。
二十一年前も同じだ。
杉。
斜面。
石。
その裏面に、まだ読んでいなかった書き込みがあることに気づいた。
薄い鉛筆だった。
湊はスマートフォンのライトを当てる。
《聞取では、この標を越えた先にも旧宅あり。》
一瞬、意味が分からなかった。
もう一度読む。
境印の向こうにも、家があった。
つまり、この石を村の内と外を分けるものだと考えるなら、
境の外側にも、
深守の家があったことになる。
その下に、研究者が一行だけ書き足していた。
《境標という仮称自体、再考を要す。》
湊は石を見る。
芦倉。
水守。
深守。
ずっと、この印を《境印》と呼んできた。
だがそれは、研究者が便宜上つけた名前にすぎない。
ナギが隣で聞いた。
「これ、境じゃないの?」
湊は答えられなかった。
目の前にあるものについて、
自分たちは最初から、
名前を間違えていたのかもしれない。




