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誰もいない家

「もう一回やる」


正一が言った。


「今度はちゃんと玄関見るからな」


「待ってください」


「俺が間違えたみたいになっとるやろ」


「そういう意味じゃなくて」


湊にも、何が起きたのかは分からない。


玄関を開けたはずなのに、縁側から出た。


ただ、それだけだ。


家の形が変わったわけではない。


知らない部屋が現れたわけでもない。


正一がいたはずの場所と、実際に出てきた場所が合っていない。


「俺も見ます」


湊は正一についていった。


座敷から廊下へ出る。


正一が前を歩く。


玄関はすぐそこにある。


「ここ、玄関やよな」


「はい」


「見とるな?」


「見てます」


正一が戸に手を掛けた。


引く。


戸が開く。


その向こうにあったのは、玄関先ではなかった。


狭いコンクリートのたたき。


外壁。


積まれた古い植木鉢。


正一が動きを止める。


「……は?」


勝手口だった。


湊は振り返った。


自分たちが立っている場所には靴箱がある。傘立ても、上がり框もある。


間違いなく玄関だ。


なのに戸の向こうだけが、勝手口になっている。


正一がゆっくり戸を閉めた。


「今の、見たよな」


「見ました」


「俺、玄関開けたよな」


「はい」


ナギが廊下の奥からこちらを見ていた。


湊は自分で同じ戸を開けた。


玄関先だった。


正一の車が見える。


「……普通だ」


ナギも開ける。


やはり玄関だった。


正一が二人を見る。


「何で俺だけなん」


答えられなかった。


     *


それ以上、正一に試してもらうのはやめた。


何度も出入りして、もっとおかしなことが起きても困る。


湊は縁側に座り、スマートフォンのメモを開いた。


《鞄》


《ジャケット》


《玄関→縁側》


《玄関→勝手口》


鞄もジャケットも、もともとこの家にあった。


縁側も勝手口も、最初からある。


何か新しいものが現れたわけではない。


ただ、あるもの同士の位置がおかしい。


外へ出したはずの物が、中へ戻る。


玄関へ行ったはずの人間が、別の出口へ出る。


「何が壊れてるの?」


ナギが聞いた。


「壊れてる?」


「家はそのままなんでしょ」


「そうだな」


「戸もある」


「ある」


「森川さんもいる」


「いる」


ナギは少し考えた。


「じゃあ、何が違うの?」


湊は答えなかった。


昨日、ナギは玄関の敷居を見て言った。


《どっちが中か》


家の中と外が入れ替わっている。


最初はそう考えた。


だが、それなら自分たちも影響を受けるはずだ。


正一だけがおかしい。


正一の持ち物だけが戻ってきた。


「家がおかしいんじゃなくて」


湊は呟いた。


「森川さんと、この家の間がおかしい?」


ナギが首を傾げる。


「間?」


「……いや。まだ分からん」


湊はメモを閉じた。


分からないものを、分かったことにするのはやめた。


     *


集会所で撮った《戸返し》の記録を、もう一度確認した。


《借用膳椀返却》


《座敷復旧》


《建具復旧》


《残物分配》


《隣組への返礼》


《戸を納め、平常に復す》


「戸返し、する?」


ナギが聞いた。


「しない」


「何で?」


「今回、この家で葬式してないから」


借りた膳や椀を大量に持ち込んだわけではない。


建具も外していない。


座敷を葬式用に変えてもいない。


昔の戸返しをそのまま再現しても、戻すものがない。


「じゃあ、昔は何を戻してたの?」


湊は画面を見る。


借りたもの。


動かしたもの。


人。


最後に戸。


「……家を元に戻してた」


「それは昨日も言ってた」


「うん」


では、元とは何だ。


昔の葬式では、家に近所の人間が入り、親戚が泊まり、借り物が集まり、普段とは違う場所になる。


それを一つずつ元へ戻す。


誰のものか。


誰がこの家の人間か。


どこまでが家の内側なのか。


片付けながら、それらも元へ戻っていたのではないか。


そこまで考えて、湊は止めた。


まだ仮説にすぎない。


「昔と同じことをするんじゃなくて」


「うん」


「今、この家にあるものを見てみよう」


     *


正一と自治会長にも手伝ってもらった。


大げさなことはしなかった。


ただ、家に残っているものを確認した。


台所の引き出しから、小さな鍵が出てきた。


「これ、集会所の予備やね」


自治会長が言った。


「母ちゃん持っとったん?」


「前に掃除しとったから、そのままになっとったんやろ」


鍵は自治会長へ返した。


押し入れには、大きな皿があった。


近所から借りたままになっていたものらしい。


物置には自治会で共同購入した草刈り機の替刃。


母親が預かっていた自治会の領収書。


昔、近所から借りた葬儀用の座布団。


一つずつ持ち主を確認していく。


「こんなんで直るん?」


正一が言った。


「分かりません」


「またそれか」


「昔の戸返しをやってるわけじゃないですから」


「じゃあ何しとるん」


湊は少し考えた。


「今、誰のものか分かるものを戻してるだけです」


正一は納得していないようだった。


湊自身、それ以上は説明できなかった。


正一のものも分けた。


町へ持って帰るもの。


捨てるもの。


まだ決められないもの。


黒いボストンバッグは、正一自身が車へ積んだ。


紺色のジャケットも今度はゴミ袋には入れず、自分で車へ運んだ。


一方で、母親の服には触れなかった。


写真。


食器。


手紙。


仏壇。


家そのもの。


それらをどうするかは、今日決めることではない。


全部を片付ける必要はない。


一通り終えたところで、正一が玄関に立った。


「試してみる?」


湊は少し迷った。


「一回だけ」


正一が戸を開ける。


縁側だった。


誰も声を出さなかった。


正一はすぐ戸を閉めた。


「駄目やん」


「……そうですね」


物を戻すだけでは足りない。


湊はもう一度、《戸を納め、平常に復す》という一文を見た。


平常。


この家にとっての平常とは何だ。


母親が生きていたときなら簡単だ。


ここは母親が暮らす家だった。


では、今は。


     *


「正一さん」


「何」


「この家、これからどうするんですか」


正一の表情が変わった。


「またそれ?」


「はい」


「だから決めてないって言っとるやろ」


声が強くなる。


「母ちゃん死んでまだ三日やぞ。家どうする、仏壇どうする、墓どうする、誰が草刈るって。みんな同じこと聞いてくる」


「はい」


「何で今、全部決めんなんの」


「決めなくていいと思います」


正一が黙った。


「じゃあ何で聞いたん」


「これからじゃなくて、今のことだけ教えてください」


「今?」


「今、正一さんが住んでるのは?」


「町」


「今日帰るのは?」


「町やよ」


「この家に住むんですか」


「今は住まん」


「なら、それでいいんじゃないですか」


「何が」


「この家を売るとか、残すとか、壊すとか。そこまで今日決める必要はない。でも、今の正一さんがどこで暮らしてるかは決まってる」


正一は黙っている。


「ここは実家なんですよね」


「そうやよ」


「でも、今住んでる家じゃない」


昨日と同じような話をしている。


だが、聞きたいことは少し違った。


この家の未来を決めたいわけではない。


正一に何かを継がせたいわけでもない。


ただ、今どうなっているのか。


それだけだった。


正一は長いこと家の中を見ていた。


やがて、小さく息を吐く。


「……少なくとも、今の俺はここには住まない」


少し離れたところで、昨日の老婆が聞いていた。


「そりゃそうやね」


正一が見る。


「何」


「何って。あんた町に家あるがやろ」


「あるけど」


「なら帰ればいいちゃ」


あまりにも普通の言い方だった。


自治会長も頷いた。


「草刈りなんかは、家のこと決まるまでこっちで相談すればいい」


「でも」


「今すぐ全部決めんでもいいやろ」


正一はしばらく黙っていた。


「……頼むわ」


それだけだった。


     *


正一が玄関へ向かった。


「試すんですか」


「帰るんやよ」


靴を履く。


戸に手を掛ける。


正一が開けた。


外だった。


庭がある。


車がある。


いつもの玄関先がある。


正一は戸口に立ったまま動かなかった。


「……出れた」


湊も外へ出る。


普通だった。


ナギも続く。


何も起きない。


これで全部終わったのかは分からない。


何が起きていたのかも、まだ説明できない。


ただ、正一は玄関から外へ出た。


それだけは確かだった。


「鞄」


ナギが言った。


正一が車を見る。


後部座席に黒いボストンバッグがある。


紺色のジャケットもある。


戻ってはいない。


「……ほんまに何なん、これ」


正一が言った。


「分かりません」


「最後までそれやな」


「すみません」


正一が笑った。


疲れたような笑いだった。


     *


日が傾き始めていた。


正一は最後にもう一度、家の中を見て回った。


湊たちは外で待った。


しばらくして、正一が玄関へ出てきた。


戸に手を掛ける。


そこで止まった。


「どうしました?」


正一は家の中を振り返った。


「……閉めたら、本当に誰もおらん家になるな」


誰も答えなかった。


母親はもういない。


正一は町へ帰る。


家をどうするかは、まだ決まっていない。


だから湊にも、何か言えることはなかった。


正一はしばらく立っていた。


それから戸を引いた。


木の戸が滑る。


最後まで閉まる。


鍵を掛ける。


今度は何も起きなかった。


正一は鍵をポケットに入れた。


「じゃあ、また来るわ」


誰に言ったのかは分からなかった。


そのとき、縁側のカーテンが動いた。


湊は足を止める。


昨日からずっと家の内側へ膨らんでいた布が、


初めて、


外へ向かって揺れた。


     *


水守を出るころには、山の向こうへ日が落ちかけていた。


助手席でナギが聞いた。


「戸返ししたから直ったの?」


「してないよ」


「でも、物返した」


「似てはいたけど」


昔の戸返しは、葬式のために普段とは違う状態になった家を元へ戻すものだった。


借りたものを返す。


動かしたものを戻す。


人が帰る。


最後に戸を閉める。


だが今回、森川家では葬式そのものをしていない。


昔の戸返しが必要になる条件とは違う。


「じゃあ、三日戸を開けるのは?」


「それも分からない」


「分からないこと多いね」


「うるさい」


ナギは少し笑った。


三日という日数に意味があったのかは分からない。


戸を開けていたこと自体、本来の作法の一部だったのか、それとも後から別の習慣と混ざったのかもしれない。


ただ、戸返しというものがあった。


葬式で普段とは違う状態になった家を、もう一度いつもの家へ戻すために、人と物を元の関係へ戻していた。


そこまでは分かる。


そして今回の森川家では、その「いつもの家」がなくなっていた。


母親は死んだ。


息子は別の町に暮らしている。


近所から見れば森川家の息子でも、本人にとって生活の場所はもう別にある。


家をどうするかは決まっていない。


終わったわけでもない。


続き方も決まっていない。


「境って、村の端だけじゃないのかもな」


「何の話?」


「印」


ナギが窓の外を見る。


「水守の石?」


「うん」


ただ、あの石と森川家で起きたことが直接関係している証拠はない。


そこは分けて考えた方がいい。


水守の境印は、昔の道沿いに立っていた。


それ以上のことは、まだ何も分からない。


信号で車が止まる。


湊はスマートフォンのメモを開き、一行だけ追加した。


《境って、何の境だ?》


「次、どうする?」


ナギが聞いた。


「研究者の資料、もう一回見る」


「芦倉?」


「そのために来たんだから」


信号が青になる。


車を走らせる。


帰るところというのは、地図の上に場所があればそれで済むものなのか。


湊には、少し分からなくなっていた。

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― 新着の感想 ―
目の前の怪奇はさておき、正一の言いたい事も少し理解できる気がします。 田舎にはそういうしがらみとかアレコレがありますよね……  そして、この作品は怪奇という物をかなり論理的に扱っている硬派なタイプの作…
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