戸返し
「入らない方がいい」
湊はナギを止めた。
「何で?」
「分からないから」
正一の鞄とジャケットが家へ戻った。
それだけで何かを断定するのは早い。
家が正一を呼んでいる。
正一を外へ出したくない。
そんな説明はいくらでも作れる。
だからこそ、今は作らない方がいい。
「もう少し調べる」
正一にも、ひとまず一人で家に残らないよう頼んだ。
「いや、何なん。ほんとに」
「分かりません」
「分からんのに?」
「だからです」
正一は納得していなかったが、鞄が戻ったことには自分でも説明がつかないらしい。
結局、昼のあいだは外へ出ることになった。
*
手掛かりになったのは、集落の集会所だった。
自治会長に事情を説明し、昔の行事や葬式について記録が残っていないか尋ねると、古い帳面やファイルをいくつか出してくれた。
「捨てるに捨てられんでね」
昭和四十年代。
五十年代。
六十年代。
古い議事録や会計記録に混じって、『水守生活改善会 昭和五十三年』と書かれたノートがあった。
「生活改善会?」
「昔は冠婚葬祭にも金かかったからね。簡素化しよういう話、どこでもあったがよ」
ページをめくる。
酒の本数。
料理。
香典返し。
人手。
葬儀の手順。
宗教的な文書というより、生活上の取り決めだった。
《講》。
《隣組》。
《互助》。
知らない言葉も多い。
ナギが覗き込む。
「分かる?」
「半分くらい」
「私も」
「絶対俺より分かってないだろ」
さらにめくる。
途中で湊の手が止まった。
《葬家片付けについて》
その下に箇条書きがある。
《戸返しは翌朝、近隣組立会いのもと行うこと》
「……あった」
ナギが近づく。
「戸返し?」
「うん」
続きを読む。
《借用膳椀返却》
《座敷復旧》
《建具復旧》
《残物分配》
《隣組への返礼》
そして最後に、
《戸を納め、平常に復す》
湊はしばらく、その一文を見ていた。
「戸を閉めるだけじゃない」
「何が?」
「戸返し」
昔の葬式では、家そのものが普段と違う状態になる。
近所の人間が入り、借り物が持ち込まれ、建具が外され、座敷の使い方も変わる。
それを一つずつ戻す。
借りたものを返す。
座敷を戻す。
建具を戻す。
人も帰る。
最後に戸を閉める。
「家を戻すんだ」
昨日、老婆が言った言葉の意味が少し分かった。
湊はスマートフォンでも関連する言葉を調べた。
《喪屋》。
《忌屋》。
《死穢》。
《ハレ/ケ》。
《境界的状態》。
最後まで読んでも、やはり半分くらいしか分からない。
ただ、戸返しが単なる「死者を追い出す儀式」ではなかったことは分かる。
ナギが聞いた。
「じゃあ、それやれば戻る?」
「何が?」
「森川さんの家」
湊は答えかけて、止まった。
もう一度、記録を見る。
借用膳椀。
座敷。
建具。
近隣組。
今回の葬式を思い出す。
病院。
葬儀会館。
火葬場。
森川家では葬式をしていない。
大勢の近所の人間が入り込んだわけでもない。
建具も外していない。
膳や椀を大量に借りてもいない。
「……だったら今回、関係ないんじゃないか」
「戸返しが?」
「昔の戸返しをそのままやる理由がない」
湊はノートに書いた。
《今回も必要? なぜ?》
古い習慣を見つけた。
怪異が起きた。
なら昔の習慣を再現すれば解決する。
そんな単純な話なら分かりやすい。
だが、実際には条件が違う。
「昔の人と同じことしても、意味ないかもしれない」
ナギは記録を見る。
「じゃあ何で起きたの?」
「それを考える」
*
午後、正一と一緒に森川家へ戻った。
鞄もジャケットも、同じ場所にあった。
「誰も入ってないよな?」
「鍵かけとったしね」
自治会長が答える。
正一は露骨に嫌そうな顔をした。
「何なん、これ」
湊は玄関の前で尋ねた。
「一つ聞いていいですか」
「何?」
「この家、自分の家だと思います?」
正一が眉を寄せる。
「どういう意味?」
「いや……すみません。聞き方が悪かった」
自分でも、何を聞こうとしているのか整理できていない。
正一は少し考えてから言った。
「実家やろ」
「実家」
「俺の家は町にあるけど」
その答えが引っかかった。
実家。
でも、自分の家ではない。
正一はこの家で育った。
母親が住んでいた。
近所の人間から見れば、今でも森川家の息子だ。
だが本人の生活は、二十年近く町にある。
「母ちゃん死んだからって、俺までここに住むわけじゃないやろ」
「はい」
「なのに、みんな俺が家のこと全部やるみたいに言うし」
湊はノートを開いた。
戸返し。
借りたものを返す。
動かしたものを戻す。
人が帰る。
家を平常に戻す。
昔なら、その「平常」が何なのかは分かりやすかったのかもしれない。
葬式が終われば、そこにはまた普段の家が残る。
だが今は。
「この家、今まで誰が住んでたんです?」
「母ちゃん一人」
「これからは?」
「だから、まだ決めてない」
最後に住んでいた人間が死んだ。
息子は別の町に生活を持っている。
家を売るのか、残すのか、壊すのかも決まっていない。
今この家が何なのか。
それ自体が決まっていない。
*
家の中を見せてもらった。
正一が子供のころの部屋。
母親が使っていた和室。
仏壇。
縁側。
台所。
どこも普通の古い家だった。
「昔、ここで葬式したことあります?」
「じいちゃんのときは家やったと思う。俺、子供だったけど」
「覚えてることは?」
「人いっぱいおった」
「戸返しは?」
「名前は知らん。でも、終わったあとみんなで片付けとったのは覚えとる」
「家を戻す感じ?」
正一が少し考える。
「まあ、そうなんかな」
湊は玄関を開けた。
外の空気が入る。
次に縁側の戸も開けた。
カーテンが揺れる。
内側へ。
玄関からも風が入っているはずなのに、布は部屋の方へ膨らむ。
「家が息でも吸っとるん?」
正一が冗談めかして言った。
誰も笑わなかった。
「一回、外に出てもらえます?」
「俺が?」
「はい」
「何で?」
「確認です」
正一は嫌そうな顔をしながらも玄関へ向かった。
靴を履く。
戸を開ける。
外へ出る。
普通だった。
何も起きない。
「ほら」
正一が外から言う。
湊は少し安心した。
家が正一を閉じ込めているわけではない。
「もういい?」
「はい。すみません」
正一が戻ってくる。
数分後。
「あ、鍵」
車の鍵を座敷に置き忘れたらしい。
「取ってくる」
正一は一人で廊下の奥へ消えた。
しばらくして、戸が開く音がした。
湊は玄関を見る。
誰も出てこない。
「……?」
ナギが振り返る。
縁側に正一が立っていた。
本人が一番驚いている。
「何してるんです?」
「いや」
正一が後ろを見る。
「玄関に行ったんだよ」
「そこ、縁側ですけど」
「分かっとる」
「途中で間違えた?」
「間違えるわけないやろ」
正一の顔から、さっきまでの苛立ちが消えていた。
「鍵取って、廊下戻って、玄関の戸開けた」
湊は縁側を見る。
そこにあるのは、最初から存在する戸だ。
新しい部屋が現れたわけでも、家の形が変わったわけでもない。
ただ、
玄関を開けたはずの正一が、
縁側から出てきた。
「……なんで、ここなん」
正一が呟いた。
その背後でカーテンが、
ゆっくりと家の内側へ膨らんだ。




