家に残るもの
翌朝、湊は水守へ向かう前に小さな喫茶店へ入った。
母からの返信は、まだない。
気にはなる。
だが今は、昨日のことを整理したかった。
テーブルにスマートフォンを置き、メモを開く。
《三日、戸を開ける》
《死者を出す》
《死者を迎える》
《玄関/座敷/縁側》
《昔は家で葬式》
《膳・椀・座布団》
《建具を外す》
《?返し》
理由は食い違っている。
むしろ、聞けば聞くほど食い違った。
「閉めたら駄目だったのかな」
向かいでナギが言った。
「何で?」
「昨日」
「カーテン?」
「それも」
ナギは少し考えた。
「戸を閉めたとき、変だった」
「どう変だった?」
「閉まった」
「それ昨日も聞いた」
「うん」
「閉めたんだから閉まるだろ」
「でも、閉まった感じがした」
「……分からん」
「私も」
湊はコーヒーを飲んだ。
検索すると、《葬送儀礼》《死穢》《家の境界性》《儀礼的開放》といった言葉が次々に出てきた。
「日本語なのに何言ってるか分からん」
ナギが画面を覗く。
「読めない?」
「読める。意味が分からない」
「一緒」
「昨日もそれやったな」
ただ、一つだけ分かったことがある。
今、水守で語られている理由が、そのまま昔からの理由とは限らない。
《伝承の変容》。
《由来譚》。
難しい説明は理解できなくても、人から人へ伝わるうちに「何をするか」は残り、「なぜするか」が変わることくらいは想像できた。
「理由じゃなくて、何してたか聞いた方がいいのか」
「誰に?」
「昨日の人たち」
*
水守で改めて聞くと、昨日とは少し違う話が出てきた。
「葬式終わったら、みんなで片付けたよ」
昨日会った老婆が言う。
「片付け?」
「借りたもん返して、座敷戻して。人もいっぱいおったからね」
「建具も?」
「外したら戻すよ」
「それに名前ありました?」
「名前?」
「何とか返し」
「ああ」
老婆は考える。
「戸返し、やったかなあ」
「戸を返す?」
「戸だけじゃないよ。全部よ」
「全部?」
「葬式で動かしたもん戻すが。借りたもんも返す。片付けまでせんと終わらんかった」
湊はメモする。
《戸返し?》
《戸だけではない》
《借り物を返す》
《家を元に戻す》
昨日聞いた「三日戸を開ける」より、こちらの方が具体的だった。
「最後に戸を閉めた?」
「そりゃ閉めるよ。終わったら」
「それが戸返し?」
「さあ、そこまでは覚えとらん」
分からないところは分からない。
だが、少し輪郭が出てきた。
*
森川家へ行くと、正一は家の中を片付けていた。
「また来たん?」
「すみません」
「暇やねえ」
「否定できないです」
正一は苦笑した。
玄関は開いている。
昨日、自分で閉めたはずだ。
「開けたんですか」
「朝来たからね」
「昨日、何か変なことありませんでした?」
「変なこと?」
「家の中とか」
「別に」
湊は少し安心した。
カーテンが動いた程度なら、本当に風だったのかもしれない。
「この家、どうするか決めました?」
「昨日も聞いたやろ」
「すみません」
「まだ」
正一は段ボールへ食器を入れながら言った。
「母ちゃん死んで三日やよ。家どうする、仏壇どうする、墓どうするって、みんな早いんやわ」
手が少し荒くなる。
「母ちゃんがやっとったこと全部、俺が引き継ぐ前提で話すのやめてほしいんやわ」
湊は何も言えなかった。
正一は町に家がある。
二十年近く、水守には住んでいない。
それでもこの集落では、森川家の息子だ。
そのこと自体は、どちらも間違っていない。
*
昼過ぎ、正一は不要なものをいくつか車へ積んだ。
その中に、黒いボストンバッグがあった。
「それ、正一さんの?」
「俺の。昔使っとったやつ」
正一は車の後部座席へ押し込んだ。
「今日はもう町に戻るんですか」
「一回ね。まだ片付け終わっとらんから、また来るけど」
正一の車が水守を出ていくのを見送ってから、湊とナギは集落北側の旧道へ戻った。
境印は昨日と変わらず立っている。
「これと、森川さんの家のことって関係あると思う?」
ナギが聞く。
「分からない」
「同じ村にある」
「それだけ」
湊は石を見る。
昨日聞いた話では、この道は昔普通に使われていた。
境印が旧道沿いにあること自体は不自然ではない。
「森川さんの家で変なことが起きてるって決まったわけでもないし」
「カーテン」
「風かもしれない」
「うん」
「無理に繋げるのはやめよう」
研究者の資料をもう一度調べるべきかもしれない。
そう話しながら、二人は旧道をもう少し歩いた。
道は途中から草に埋もれ、山の中へ細く続いている。
ほかに似た石がないか探してみたが、それらしいものは見つからなかった。
しばらくして引き返す。
集落が見えるところまで戻ったとき、下の県道を一台の車が走ってきた。
見覚えがあった。
「あれ」
ナギも気づいたらしい。
正一の車だった。
「町に戻ったんじゃなかったのか」
車はそのまま集落へ入り、森川家の方へ曲がっていった。
湊とナギは顔を見合わせた。
「戻ってきた」
「見れば分かる」
「行く?」
湊は少し迷ってから頷いた。
*
森川家へ戻ると、正一の車が停まっていた。
正一は玄関の前に立っている。
その足元に、黒いボストンバッグがあった。
湊は足を止めた。
さっき正一が車の後部座席へ押し込んだものだった。
「……それ」
正一が振り返る。
「俺も今、意味分からんくなっとる」
「さっき車に積みましたよね」
「積んだ」
「俺も見ました」
「町着いて、荷物下ろそうとしたら無かったんや。積み忘れたんかと思って戻ってきたら、ここにあった」
正一が玄関先のバッグを見る。
「玄関に?」
「そう」
「誰かが家から出したとか」
「鍵かけてった」
正一は車まで行き、後部座席を開けた。
ない。
当然だった。
目の前にある。
湊はバッグを見る。
古い布地。
傷。
間違いなく、さっき見たものだ。
それでも、まだ何かの勘違いという可能性はある。
「もう一個ある」
正一が家の中を指した。
廊下に、紺色の古いジャケットが置かれている。
「それも?」
「朝、捨てる方に出した。ゴミ袋に入れた」
「袋は?」
「外」
外のゴミ袋を確認する。
口は縛られている。
中にジャケットはない。
「どっちも正一さんのもの?」
「そうやけど」
ナギが玄関の前で止まった。
「どうした?」
湊が聞く。
「昨日より、分かりにくい」
「何が」
ナギは敷居の辺りを見る。
「どっちが中か」
「……家の中と外?」
「うん」
意味は分からない。
だが、昨日と同じように、ナギの言葉だけが妙に引っかかった。
縁側を見る。
カーテンが動いた。
外ではなく、
また家の内側へ。
昨日より少しだけ、大きく膨らんだ。




