戸を開けておく家
翌朝になっても、母からの返信はなかった。
昨夜戻った家にも母はいなかったが、仕事か外泊かもしれない。湊が富山へ来ること自体、直前まできちんと伝えていなかった。
もう一度だけメッセージを送る。
『今日は水守ってところに行ってくる。また連絡して』
休みはあと四日ある。
芦倉について今追える手掛かりは、昨日見つけた研究資料だけだった。
「水守、行く?」
隣からナギが聞いた。
「行く」
警察には昨日相談したが、ナギの身元につながるものは見つからなかった。本人が覚えているのは自分の名前と、芦倉、そしてあの印くらいだ。
なら今のところ、調べるものは二人とも同じだった。
*
水守までは車で四十分ほどだった。
地図アプリで検索すると、今度は普通に出る。道路も住所もあり、航空写真には家まで写っている。
「ちゃんとあるな」
「何が?」
「村」
ナギが画面を見る。
「水守?」
「そう。地図に載ってるだけで安心するとは思わなかった」
水守は山間にある小さな集落だった。家は斜面に沿ってまばらに建ち、古い石垣と新しいガードレールが混在している。空き家らしい建物も目立った。
昨日の研究資料には、《水守集落北方旧道沿い》とある。
集落の北側へ回ると、現在の道路から一本外れたところに草の伸びた古い道が残っていた。
「これかな」
車を停めて歩く。
ほどなく、道の脇に膝ほどの高さの石が見つかった。
表面の苔を指で避ける。
あの印が出てきた。
「……あった」
芦倉の写真。
昨日見つけた旧道の石。
資料館近くの石柱。
そして水守。
細部は違う。それでも同じ種類の記号に見える。
湊は写真を撮った。
「ここが昔の入口だったのかな」
「入口?」
「今の道ができる前は、こっちから村に入ってたとか。だったら《境印》って仮の名前にも一応合う」
昨日読んだ研究者の文章を思い出す。
《境界標識》。
《道標》。
《結界標》。
《境界祭祀との関連、不明》。
《村落空間における内/外の標識か》。
最後の一文は今もよく分からない。
「境って、村の端ってこと?」
ナギが聞く。
「たぶん。少なくともここだけ見れば」
「芦倉も?」
「それが分からないから来たんだろ」
湊は石をもう一枚撮った。
そのとき、後ろから声がした。
「それ、何か珍しいもんけ?」
振り返ると、買い物袋を提げた老婆が立っていた。
*
「昔からあるよ、そんな石」
老婆は境印を見ても、特に驚かなかった。
「何の石か知ってます?」
「さあ。道のもんやろ」
「道の?」
「昔はこっちから山越えとったから」
やはり旧道だったらしい。
「この印について、何か聞いたことありませんか」
「ああ、それね。子供んころ、触るなとは言われたかな」
「何で?」
「知らんちゃ。石なんか登ったり蹴ったりするからやろ」
拍子抜けする答えだった。
触るな、というだけならいくらでも意味ありげに聞こえる。だが単に、古い石を子供にいじらせないためだった可能性もある。
何でも怪異に結びつけるのは違う。
「昔の村の入口みたいな場所だったんですかね」
「入口っちゅうか、昔はこっちの道使っとっただけやね。今の県道できてから、誰も通らんようになった」
境印については、それ以上の話は出なかった。
代わりに老婆は、二人が何をしているのかを気にした。
「郷土史か何か?」
「そんな大したものじゃないです。昔の道とか、この印を少し調べてて」
「若いがに変わったことしとるねえ」
「自分でもそう思います」
老婆が笑う。
せっかくなので、この土地に昔からある風習についても尋ねてみた。
「いっぱいあったよ。昔はね。山入る日とか、田んぼのこととか。葬式も昔は全部家でやったし」
「家で?」
「そうそう。今は会館やけど」
そこで老婆は何か思い出したように、集落の下の方を見た。
「そういや森川さんとこ、まだ戸開いとるかな」
「戸?」
「人が死んだ家は、三日は戸を開けとくが」
湊は聞き返した。
「三日?」
「そう」
「何で開けるんです?」
「死んだ人が出ていくためやったかな」
老婆は言ってから首を傾げた。
「いや、戻ってきても入れるようにやったか」
「逆じゃないですか」
「そうやねえ」
老婆自身が笑った。
「昔の人に聞いた話なんて、そんなもんやちゃ」
出ていくため。
戻ってくるため。
理由が正反対なのに、やることは同じ。
湊は少し気になった。
「森川さんって、最近亡くなったんですか」
「おばあちゃんが三日前にね。息子さん、町から帰ってきとるよ」
「この村には住んでない?」
「正一ちゃん? 高校出てからずっと町やね。もう二十年くらいになるんじゃない」
老婆が道の下を指した。
「あの家」
古い木造家屋が見えた。
玄関の戸が開いている。
*
ほかの住民にも尋ねると、《人が死んだ家は三日、戸を開けておく》という話自体は何人かが覚えていた。
ただ、聞けば聞くほど細部が違った。
「三日じゃなくて、葬式終わるまでやったと思う」
「夜は閉めたんじゃなかったかな」
「玄関じゃなくて座敷の戸や」
「いや、縁側やろ」
理由も違う。
「仏さんが出ていくため」
「最後に家へ戻るため」
「家に溜めんため」
「何を?」
「さあ」
それでも、昔の葬式については証言がだいたい一致していた。
遺体は家へ戻る。近所の人間が出入りし、料理を作る。親戚が泊まり、膳や椀、座布団などを借りる。座敷を広く使うため、襖や障子を外すこともある。
「玄関だけ開けとったわけじゃないんですね」
「昔の葬式は家じゅう人だらけやったよ」
「終わったら?」
「そりゃ片付ける」
「決まったやり方があったんですか」
「どうやったかなあ」
老人が考え込む。
「何とか返しって言わんかった?」
隣にいた女性が言った。
「返し?」
「戸……何とか」
「戸返し?」
「そうやったかなあ」
確信はないらしい。
湊はスマートフォンに《?返し》とメモした。
*
森川正一は四十代前半くらいで、玄関先で段ボールを畳んでいた。
「この辺の昔の風習について聞いてまして」
「俺、そういうの分からんよ」
最初から少し面倒そうだった。
「お母さんが亡くなられたばかりだと聞きました。すみません、こんな時に」
「まあ、いいけど」
「戸、開けてるんですね」
「ああ、これ?」
「三日開けておくって聞きました」
「ばあちゃんらに言われたから」
「理由は?」
「知らん」
正一は即答した。
「死人が出るとか入るとか、そんな話やろ。今どき葬式も会館でやるがに、意味ないと思うけど」
「今回、葬式はここでしてない?」
「してないよ。病院から会館。火葬して、昨日全部終わった。母ちゃん戻ってきたのも、ちょっとだけ」
筋は通っている。
昔の作法が家で葬式をしていた時代のものなら、葬儀会館を使った現在に同じことをする意味は薄い。
「今日で三日目だから、もう閉めるよ」
「ここに住むんですか?」
「俺? 住まんよ。町に家あるし、仕事もある」
「じゃあ、この家は?」
正一の動きが一瞬止まった。
「まだ決めてない」
それ以上は聞かなかった。
母親が亡くなって三日しか経っていない。
決めていなくて当然だった。
*
夕方。
車へ戻る前に森川家の前を通ると、正一が玄関に立っていた。
「閉めるんですか」
「三日やろ。もうええやろ」
誰に言うでもなくそう言って、正一は戸を引いた。
木の戸が滑り、最後まで閉まる。
かちり、と鍵が掛かった。
何も起きない。
湊は自分が少し身構えていたことに気づいた。
当然だ。
戸を閉めただけなのだから。
「行こう」
ナギに声をかける。
返事がない。
「ナギ?」
ナギは森川家を見ていた。
「どうした?」
「分からない」
「何が」
「今の」
「戸?」
「閉まった」
「見れば分かる」
「違う」
ナギはうまく言葉を探しているようだった。
「閉まった、って感じ」
「だから閉まったんだろ」
「うん。でも」
それ以上は言えないらしい。
湊も家を見る。
玄関は閉じている。
窓も普通だ。
人影もない。
何もおかしくない。
そのとき、縁側のカーテンが動いた。
ほんの少し。
外から風が吹いたのだと思った。
だが、庭の草はほとんど揺れていない。
カーテンだけが、家の内側へゆっくりと膨らんだ。
「……風だろ」
ナギは答えなかった。
カーテンはもう一度、わずかに内側へ動いた。




