境の印
石柱を確認するのに、五分もかからなかった。
彫られていたのは、やはり同じ種類の印だった。
湊は写真だけ撮った。
「よし。行くぞ」
「どこに?」
「警察。忘れたの?」
「忘れてない」
「ならいい」
ナギは素直についてきた。
そのことが、かえって湊には気になった。
*
交番には警察官が一人いた。
事情を説明すると、当然ながら最初に聞かれたのはナギの名前だった。
「ナギ」
「名字は?」
「分かりません」
「生年月日は?」
「分かりません」
「住所」
「分かりません」
「電話番号は?」
「ありません」
警察官が湊を見る。
「お知り合いではない?」
「今日初めて会いました」
「どちらで?」
湊は川沿いの旧道について説明した。
さすがに「一度消えて、車より先にいた」とまでは言わなかった。自分でも説明できない。
警察官はナギにいくつか質問し、怪我がないか、事件に巻き込まれていないかを確認した。行方不明者に該当する情報がないか照会もしてくれた。
すぐに一致するものは出なかった。
成人に見える本人に明確な保護要件がなく、事件性も確認できない以上、その場で拘束することもできないという。
「何か思い出したり、身元につながるものが見つかったら、すぐ連絡してください。記憶が曖昧なら、医療機関で診てもらうことも考えた方がいいです」
連絡先と相談先を書いた紙を渡された。
湊は受け取った。
交番を出る。
「……で」
隣にナギがいる。
「何で俺と一緒に出てきてるんだよ」
「駄目?」
「駄目というか」
困る。
本来ならここで別れてもいい。
だがナギには行く場所がない。警察にもすぐ身元は分からなかった。そして彼女は、芦倉という名前とあの印を知っている。
「資料館、行くけど」
「行く」
「そのあとどうするかは考えよう」
「うん」
こうして、結局二人で資料館へ向かうことになった。
*
資料館は、想像していたより小さかった。二階建ての古い公共施設で、一階には農具や古写真、二階には地域史関係の資料が並んでいる。
受付にいた老人へスマートフォンの画像を見せると、
「ああ、これか」
思ったよりあっさり反応した。
「知ってるんですか」
「見たことはある。うちにも似たものがあるよ」
案内された二階の展示ケースには、古い絵図の複製が収められていた。
山。
川。
集落。
その外側を走る古道。
道の途中に、小さな印が描かれている。
中央から左右へ線が伸びた形。
芦倉の写真、旧道の石、さっきの石柱。
完全に同じではない。
それでも同じ種類の記号に見える。
「これ、何なんですか」
「分からん」
老人はあっさり言った。
「分からない?」
「だから展示の説明にも書いてないやろ」
「昔の村境ですか」
「そういう説もある」
「道標?」
「そういう説もある」
「じゃあ、何なら分かってるんです?」
老人が笑った。
「分からんことが分かっとる」
ナギが小さく頷いた。
「それ、大事」
「お前はもうちょっと分かってくれ」
老人が二人を見比べる。
「学生さん?」
「違います」
「郷土史か何か調べとるんかと思った」
「この印を探してます」
「何で?」
湊は少し迷ってから、芦倉の写真を見せた。
「昔、祖父母が住んでた村にもあったんです」
「どこ?」
「芦倉」
老人の顔から笑みが消えた。
「芦倉?」
「知ってます?」
「いや。聞いたことないな」
期待した分だけ落胆する。
「ただ、二十年くらい前だったかな。この印ばっかり調べとった人がおったよ」
「研究者ですか?」
「大学の人だったか、在野だったか。肩書までは覚えとらん。昔の山道とか、村の境とか、あちこち歩いとった」
「この印を何て呼んでました?」
「名前は知らんと言っとったな」
老人は少し考えた。
「鳥みたいですねって言ったら、『鳥じゃない』って」
湊は顔を上げた。
「今、何て?」
「鳥じゃないって」
母と同じ言葉だった。
「その人、何か知ってたんですか」
「さあな。知っとったというより、調べとったんやろ」
「資料、残ってませんか」
「あるかもしれん」
*
老人が収蔵庫を探している間、ナギは古い地図の前で止まった。
「何見てる?」
「道」
「どの?」
ナギが山の中を走る一本の線を指す。
「ここ」
「それが?」
「ない」
「何が」
「道」
「描いてあるだろ」
ナギは首を振った。
「もう一本あった気がする」
湊は地図を見る。
当然、何もない。
「この辺に来たことある?」
「分からない。でも、ここを通る」
ナギの指が、地図の何も描かれていない場所をなぞった。
「何が?」
「道」
――この道、知ってる気がする。
さっきナギが言った言葉。
そして自分にも、似たようなことが起きている。
そこへ老人が戻ってきた。
「これかな」
古い冊子を数冊抱えていた。
*
一冊目の表紙には『山中に残る境標について』とある。
ページをめくると、石柱、自然石、木に刻まれた印の写真が並んでいた。地域によって形には差があるが、どれも例の記号に似ている。
本文では、その印を便宜上《境印》と呼んでいた。
「名前あったじゃん」
「仮に付けただけやろ」
老人が冒頭を指さす。
《本稿では便宜上、これらを境印と仮称する》
正体を知っているわけではないらしい。
むしろ候補ばかりだった。
《境界標識》《道標》《結界標》《境界祭祀との関連、不明》《村落空間における内/外の標識か》
「最後の何」
ナギが聞く。
「俺に聞くな」
「読める?」
「文字は」
「意味は?」
「よく分からん」
ナギが少し満足そうに頷いた。
「一緒」
「お前と一緒にするな」
読み進める。
境印は一つの地域だけに存在するものではなかった。
岐阜。
長野。
富山。
ほかにもいくつか。
ただし、すべての村にあるわけではない。位置も一定しない。旧道沿い、山への入口、集落の端、神社の近く。
研究者自身も結論を出していなかった。
「これ、何の印なんだ」
「境の印」
「それは仮名だろ」
「でも境なんでしょ?」
「それも仮説」
「じゃあ何で境ってつけたの?」
「知らない」
答えたところで、老人が別の冊子を差し出した。
「こっちも同じ人や」
『境標追補』。
数年後に出された続報らしく、掲載地点が増えている。
湊は目次から富山県を探した。
地名を一つずつ追う。
指が止まった。
《芦倉》
「……あった」
「何が?」
ナギが覗き込む。
「芦倉」
間違いない。
活字で書かれている。
役所にはなかった。
検索しても出なかった。
近所の人間も知らなかった。
それでも、二十年ほど前の冊子には芦倉がある。
「芦倉、あったじゃん」
「……あった」
自分の記憶以外で、初めて芦倉の存在を確認した。
湊は該当ページを開く。
《芦倉集落において同型標三例を確認。》
三つ。
《旧来の入村路沿い》
一つ目。
写真に残っていた石だろうか。
《社地付近》
二つ目は神社。
その先は掠れていて、三つ目の位置は読めなかった。
「他に芦倉の資料ないですか」
「この人が持ってきたもんなら、まだあるかもしれん」
さらに探してもらうと、『芦倉村旧記 写』と書かれた薄いコピーが出てきた。
中は崩した文字が多く、湊にはほとんど読めない。
「この人に連絡できます?」
老人が首を振る。
「亡くなっとるよ」
「いつですか」
「十年以上前だったと思う」
また道が切れた。
だが、冊子の末尾には調査地一覧がある。
研究者は岐阜、富山、長野の山間部をかなり歩いていた。
「一番近いのは?」
ナギに聞かれ、湊は地名を検索した。
現存する集落がいくつか出てくる。
そのうち一つは、ここから車で四十分ほどだった。
《水守》
「ある」
「何が?」
「境印」
研究者の記録によれば、水守では一基。
位置は《集落北方旧道沿い》。
「行く?」
湊は時計を見た。
休みはあと四日ある。
いや、そういう問題ではない。
本来なら今日は実家へ戻り、母と話すつもりだった。隣には身元の分からない女までいる。
それでも、芦倉へ行く道は見つからない。役所の記録にもない。研究者は死んでいる。
今追える手掛かりは、境印だけだった。
「今日は一回戻る」
ナギが湊を見る。
「水守は?」
「明日。もう夕方になるし、それに――」
湊はスマートフォンを見る。
母からの返信は、まだない。
「確認したいことがある」
ナギも画面を見る。
「お母さん?」
「そう」
「富山にいるの?」
「いる。少なくとも、そのはず」
その言葉を口にした瞬間、妙な引っかかりが残った。
少なくとも、そのはず。
芦倉についても、今朝まではそう思っていた。
湊は冊子を閉じた。




