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知らない道

母からのメッセージは、まだ未読だった。


電話もかけたが出なかった。


湊は信号待ちのあいだに画面を確認し、すぐに伏せた。


今はそれより、自分がなぜ右へ曲がったのかの方が気になっていた。


資料館へ行くなら逆方向だ。ナビは次の交差点でUターンするよう指示している。


当然そうするべきだった。


だが、湊はその交差点を通り過ぎた。


その次も。


知らない道なのに、もう少し先だと思った。


何があるのかは分からない。ただ、まだ着いていないという感覚だけがある。


「気持ち悪いな」


五分ほど走ったところで、道は川沿いへ出た。古いコンクリート橋が架かっている。


そこで突然、


違う。


と思った。


さっきまでの確信が消えた。


「……何なんだよ」


路肩へ車を寄せる。


ここではない。


では、どこなのか。


もう分からない。


少し戻ると、橋の手前で何かが視界に引っかかった。


ガードレールの切れ目から、草に覆われた細い道が伸びている。車では入れそうにない。


湊は車を降り、旧道らしいその道へ入った。


数十メートル進んだところに、苔むした石が立っている。


しゃがんで苔の下を覗く。


中央から左右へ伸びる線。


鳥のような印。


「……あった」


芦倉の写真と同じ。


いや、細部は違う。


だが画像検索で見つけた古文書とも似ている。


偶然なのか、何かの記号なのか。今はまだ分からない。


スマートフォンで写真を撮り、立ち上がったときだった。


川の向こうに人がいた。


若い女だった。


同じくらいの年齢に見える。川沿いの道に立ち、こちらを見ていた。


「……?」


近所の住民かもしれない。


湊は声をかけようとして、やめた。


理由はない。


ただ、何となく一度声をかけてはいけない気がした。


自分でも意味が分からない。


女はまだこちらを見ている。


湊は一度目を逸らした。


もう一度見る。


いない。


「……は?」


隠れる場所はほとんどない。


川沿いの一本道で、走ったとしても数秒で見えなくなる距離ではなかった。


対岸を確認しても、誰もいない。


「何なんだ、今日」


石。


知らない道。


知らない女。


芦倉を探し始めてから、説明できないものばかり増えていく。


湊は車へ戻った。


今度こそ資料館へ向かった。


     *


十分ほど走ったところで、湊はブレーキを踏んだ。


道路脇に人が立っている。


さっきの女だった。


「……いや、無理だろ」


川を挟んだ向こう側にいた。


橋を渡ってこちらへ来るなら、車より先に着くはずがない。


別人だと思おうとしたが、服装まで同じだった。


女はこちらを見る。


湊は迷った末、窓を開けた。


「あの、さっき川の向こうにいました?」


返事がない。


「旧道のところ。石があったところです。変な印の」


そこで女の表情が変わった。


「印」


「知ってるんですか」


女が車のそばまで来る。


「見せて」


湊はスマートフォンの写真を出した。女はしばらく画面を見ていた。


「これ、探してた」


「何で?」


返事がない。


「どこにあるか知ってたんですか」


「知らない」


「じゃあ何で探してるんです?」


「分からない」


会話が成立しているようで、していない。


「名前は?」


「ナギ」


「名字は?」


女――ナギは黙った。


「家、この辺?」


また黙る。


「住所は?」


「分からない」


ここで湊は、さすがに芦倉どころではなくなった。


「スマホは?」


ナギは首を振る。


「財布とか、身分証は?」


また首を振る。


「家族の名前は?」


「分からない」


「何歳?」


ナギは少し考えた。


「……分からない」


湊は息を吐いた。


「警察行こう」


「警察?」


「うん。これ、普通に俺がどうにかしていい話じゃないから」


スマートフォンで最寄りの交番を検索する。


ナギはその画面ではなく、湊を見ていた。


「何するところ?」


「……警察知らないの?」


返事はない。


冗談には見えなかった。


「とにかく、家が分からないなら調べてもらった方がいい。家族が探してるかもしれないし」


「家族」


「そう」


「分からない」


「だから行くんだよ」


ナギはしばらく黙ったあと、湊に聞いた。


「あなたは?」


「俺?」


「何を探してるの」


「今はその話じゃ――」


「何を探してるの」


もう一度聞かれた。


「……村」


「村?」


言うべきか迷った。けれど、この女はあの印を探している。


「芦倉っていうところ」


ナギの目が動いた。


「芦倉」


湊の手が止まる。


「知ってる?」


「うん」


今日初めて、誰かがその名前を知っていた。


「どこにある?」


ナギは答えない。


「芦倉、知ってるんですよね」


「知ってる」


「じゃあ場所は?」


「分からない」


「行ったことは?」


ナギは困ったような顔をした。


「分からない」


「何なら分かるんだよ」


思わず強い声が出た。


ナギは少し黙り、


「名前」


「芦倉って?」


「うん」


「どこで聞いた?」


「分からない」


湊は額を押さえた。


警察へ連れていく。


それは変わらない。


むしろ今のやり取りで、その必要性は増した。


ただ、その前に一つだけ確かめたかった。


「この印と芦倉って、関係ある?」


写真を見せる。


ナギは長く見つめた。


「あると思う」


「何で?」


「分からない」


「……ですよね」


     *


最寄りの交番を検索すると、資料館へ向かう道から大きく外れてはいなかった。


湊はナギを助手席へ乗せた。


ナギはシートベルトをしなかった。


「それ」


「何?」


「ベルト」


指さすと、ナギは横を見る。引き出したものの、差し込む場所が分からないらしい。


「……車乗ったことない?」


「あると思う」


「思う?」


湊がバックルを指すと、ナギは真似して差し込んだ。


記憶喪失。


まず考えるならそれだろう。


何らかの事件に巻き込まれた可能性もある。湊が勝手に連れ回していい理由はない。


交番へ向かう途中、ナギが窓の外を見ながら言った。


「芦倉に帰るの?」


「そのつもりだった」


「帰るところ?」


「……まあ」


少し違う気もした。生まれた場所ではないし、ずっと住んでいたわけでもない。それでも帰る場所だった。


「帰るところではありました」


「今は?」


「なくなってる」


「なくなった?」


「それを調べてる」


ナギはしばらく黙った。


「私も?」


「何が」


「帰るところ」


「それを今から調べてもらうんだろ」


「そっか」


その言い方が妙に寂しく聞こえた。


     *


交番へ向かう道の途中だった。


ナギが突然、前を見た。


「こっち」


「何?」


「この道」


右側に細い分岐がある。


「交番は直進」


「でも、こっち」


「何があるの?」


「分からない」


湊はそのまま直進しようとした。


「でも、知ってる気がする」


アクセルを踏む足がわずかに緩んだ。


数時間前、自分も同じだった。


知らない道を、理由もなく「こっちだ」と思った。


湊は分岐を見る。


入口には、小さな石柱が立っていた。


車で通り過ぎる一瞬、その表面に何か彫られているのが見えた。


鳥のような、あの印。


「……待って」


湊は少し先で車を停めた。


「見るだけだからな」


「うん」


「そのあと警察」


「うん」


二人は車を降りた。

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