芦倉は地図にない
高瀬湊が、自分の故郷がなくなっていることに気づいたのは、道を二度間違えたあとだった。
一度目は、自分の記憶を疑った。
七年も帰っていない。
最後に芦倉を訪れたのは中学生のころで、それから県外の寮制高校へ進んだ。高校を出たあとも富山には戻らず、今は東京で働いている。
今回帰ってきたのも、九月末に取った遅めの夏季休暇を利用してのことだった。
休みは今日を含めて五日。
実家に顔を出して、久しぶりに芦倉へ行く。それくらいのつもりだった。
道が変わっていても不思議ではないし、子供のころ助手席から眺めていた景色を、二十一歳になった今も正確に覚えていると思う方がおかしい。
だから一度目は、笑って引き返した。
二度目は、カーナビを疑った。
県道を戻り、一本手前の道へ入った。記憶では、その先に小さな橋があり、杉林の中をしばらく上れば芦倉へ着くはずだった。
ところが道は民家の脇を抜け、そのまま畑の前で終わった。
「……違うな」
車を停めて窓を開ける。
九月の湿った風と一緒に、草の匂いが入ってきた。
景色そのものには見覚えがある。山の形も、川の位置も、大きくは違わない。
なのに、芦倉へ続く道だけがない。
湊はスマートフォンを取り出し、地図アプリの検索欄に《芦倉》と入力した。
旅館。名字。遠く離れた土地の地名。
探している芦倉はない。
「いやいや」
《富山 芦倉》。
出ない。
漢字を間違えている可能性も考えたが、芦倉で合っている。母から年賀状の宛名を書かされたこともあるし、祖父母の家に届いた郵便物も見ている。
住所検索サイト。
検索エンジン。
昔の地名。
何を入れても出てこない。
「……何で?」
ここで初めて、笑えなくなった。
*
湊にとって芦倉は、生まれ育った場所ではない。
出生地も、中学まで母と暮らしていた家も、少し離れた町にある。
それでも「故郷はどこ」と聞かれれば、頭に浮かぶのは芦倉だった。
母方の祖父母が暮らしていた小さな山村。
夏休みには何日も泊まった。川で泳ぎ、虫を捕り、祭りの夜には提灯の下を走った。祖母の作る煮物は味が濃く、祖父の軽トラックはいつも土の匂いがした。
村へ入る道の途中には、変な印の彫られた石もあった。
鳥が羽を広げたような形。
子供のころ、母に「あれ鳥?」と聞いたことがある。
「鳥じゃないわよ」
母はそう言って笑った。
何なのかまで聞いたかは覚えていない。
存在しなかった村について、こんな細かなことまで覚えているはずがない。
湊は車を戻した。
*
近くの商店で飲み物を買い、会計のついでに店主へ尋ねた。
「すみません。この辺に芦倉っていう集落、ありませんでした?」
「芦倉?」
五十代くらいの男が眉を寄せる。
「はい。山の方なんですけど」
「聞かんなあ」
「昔あったとか」
「どの辺?」
説明しようとして、湊は困った。
昔なら「あの道を上がった先」で済んだ。
その道がない。
川と県道を基準に、おおよその位置を説明する。
「あっちは何もないよ。林ばっかり」
「昔は村があったと思うんですけど」
「何年前?」
「七年前には」
店主が変な顔をした。
「俺、ここ二十年以上おるけど、そんな名前聞いたことないな」
七年なら、廃村になったとしても覚えているはずだ。
礼を言って店を出た。
次に考えたのは市町村合併だった。
正式な地名が変わった。行政区画が整理された。住居表示が変わった。
その程度なら、検索で出ないこともあるかもしれない。
市役所まで行った。
*
「芦倉、ですか。漢字はこちらで?」
「はい」
窓口の職員は何度かパソコンを操作し、途中で別の職員にも確認した。
その時間が長くなるほど、湊は嫌な気分になった。
「申し訳ありません。この市の現在の町名には該当がありません」
「昔の地名なら?」
「旧町名ですか?」
「集落名かもしれません。七年前まではあったんです」
再び調べてもらったが、結果は同じだった。
「少なくとも、こちらで確認できる範囲にはありません」
「廃村になったとか」
「それでも通常は記録があります」
当然だった。
村がなくなったからといって、過去までなくなるわけではない。
「俺、そこで育ったわけじゃないんですけど、祖父母が住んでたんです」
「ご住所は分かりますか?」
覚えている範囲で伝えたが、該当しない。
番地を間違えている可能性もある。祖父母の名前から追えないかとも思ったが、窓口でそこまで調べてもらうことはできなかった。
「ちなみに、ご本人の出生地はこちらでは?」
「近くの町です」
そこは普通に存在していた。
自分の記憶と記録が初めて一致したことに妙な安心を覚え、同時に昔の会話を思い出した。
「何で俺、芦倉で生まれてないの」
子供のころそう聞くと、母は「村に赤ちゃん産む病院なんてないもの」と笑っていた。
今考えても不自然ではない。山間の小さな集落なら、町の病院で出産する方が普通だろう。
だから出生地が違うことは、何の証拠にもならない。
市役所を出たところで、湊は少し迷った。
警察。
一瞬、頭に浮かんだ。
だが、何と説明すればいいのか。
七年ぶりに祖父母の村へ行こうとしたら道が見つからず、地図にも役所の記録にもありません。
誰かが行方不明になったと確認できたわけでもない。事件が起きた証拠もない。祖父母についてさえ、今この場でどうなっているのかを確かめられていない。
まず母に聞くべきだった。
スマートフォンを見る。
連絡はない。
芦倉へ向かう途中に一度、道が見つからなくなってからもう一度電話したが、どちらも出なかった。
メッセージも送ってある。
『今、富山にいる。芦倉に行こうとしたんだけど、ちょっと聞きたいことがある』
まだ既読はついていない。
母は今も富山で暮らしている。
ただ、湊が東京へ出てからは連絡の間隔も長くなり、仕事中ならその日のうちに返事がないこともある。
だから、母が出ないこと自体はおかしくない。
少なくとも、まだ。
*
車の中で昔の写真を探した。
クラウドに残っているものは少ない。中学生より前の写真の多くは、古い端末か実家のアルバムにあるはずだった。
それでも何枚か見つかった。
川。
祖父。
夏祭り。
木造の家。
「あるじゃん」
思わず声が出た。
芦倉はある。
少なくとも、自分が何かを丸ごと妄想していたわけではない。
ところが写真を見ているうちに、妙なことに気づいた。
一枚ずつなら覚えている。
祖父母の家の前。川。神社らしき石段。祭りの夜。
だが、「この道を曲がれば川」「神社から家までは何分」と並べようとすると、急に曖昧になる。
「七年も経ってるからか」
十分あり得る。
記憶なんてそんなものだ。
写真を母に送って聞けばいい。
そう思いながら次へ送ったところで、指が止まった。
石が写っている。
画面の端に幼い自分がいて、その背後、道端に低い石柱が立っている。
そこに、あの印があった。
「……これだ」
拡大する。
画像は粗い。それでも分かる。
芦倉へ入る道にあった、鳥が羽を広げたような印。
少なくとも、その記憶まで作り物ではない。
湊は画像検索を試した。
最初は鳥の紋様や家紋ばかりだった。
《石 印 山村》
《境界石 鳥 記号》
《古道 石標 記号》
検索語を変えていく。
諦めかけたころ、一枚の古文書画像が目に入った。
江戸期の村境に関する資料。
芦倉からは何百キロも離れた土地のものだった。
文書の端に、よく似た印が描かれている。
完全に同じではない。
それでも偶然と片付けるには、似すぎていた。
近くに崩した字で何か書かれている。ほとんど読めないが、一文字だけ《門》のように見えた。
画像の所蔵元は地方の資料館だった。
ここから車なら行ける。
時計を見る。
まだ間に合う。
五日の休みの一日目から何をしているんだ、と少し思った。
実家へ戻って母の帰りを待つという選択肢もある。
だが、もし帰ってこなかったら、今日はそれで終わる。
今追える手掛かりは、目の前にある。
「……行くか」
エンジンをかける。
駐車場から道路へ出ようとして、湊は右を見た。
資料館は左だ。
ナビにもそう出ている。
なのに、なぜか右へ行くべきだと思った。
「……何だ?」
理由はない。
知っている道でもない。
それでも、そちらへ行けば何かある。
妙な確信だけがあった。
湊は数秒迷い、右へハンドルを切った。
「……こっちだ」
口にしてから、自分がどうしてそう思ったのか、説明できなかった。




