↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/26

芦倉は地図にない

高瀬湊が、自分の故郷がなくなっていることに気づいたのは、道を二度間違えたあとだった。


一度目は、自分の記憶を疑った。


七年も帰っていない。


最後に芦倉を訪れたのは中学生のころで、それから県外の寮制高校へ進んだ。高校を出たあとも富山には戻らず、今は東京で働いている。


今回帰ってきたのも、九月末に取った遅めの夏季休暇を利用してのことだった。


休みは今日を含めて五日。


実家に顔を出して、久しぶりに芦倉へ行く。それくらいのつもりだった。


道が変わっていても不思議ではないし、子供のころ助手席から眺めていた景色を、二十一歳になった今も正確に覚えていると思う方がおかしい。


だから一度目は、笑って引き返した。


二度目は、カーナビを疑った。


県道を戻り、一本手前の道へ入った。記憶では、その先に小さな橋があり、杉林の中をしばらく上れば芦倉へ着くはずだった。


ところが道は民家の脇を抜け、そのまま畑の前で終わった。


「……違うな」


車を停めて窓を開ける。


九月の湿った風と一緒に、草の匂いが入ってきた。


景色そのものには見覚えがある。山の形も、川の位置も、大きくは違わない。


なのに、芦倉へ続く道だけがない。


湊はスマートフォンを取り出し、地図アプリの検索欄に《芦倉》と入力した。


旅館。名字。遠く離れた土地の地名。


探している芦倉はない。


「いやいや」


《富山 芦倉》。


出ない。


漢字を間違えている可能性も考えたが、芦倉で合っている。母から年賀状の宛名を書かされたこともあるし、祖父母の家に届いた郵便物も見ている。


住所検索サイト。


検索エンジン。


昔の地名。


何を入れても出てこない。


「……何で?」


ここで初めて、笑えなくなった。


     *


湊にとって芦倉は、生まれ育った場所ではない。


出生地も、中学まで母と暮らしていた家も、少し離れた町にある。


それでも「故郷はどこ」と聞かれれば、頭に浮かぶのは芦倉だった。


母方の祖父母が暮らしていた小さな山村。


夏休みには何日も泊まった。川で泳ぎ、虫を捕り、祭りの夜には提灯の下を走った。祖母の作る煮物は味が濃く、祖父の軽トラックはいつも土の匂いがした。


村へ入る道の途中には、変な印の彫られた石もあった。


鳥が羽を広げたような形。


子供のころ、母に「あれ鳥?」と聞いたことがある。


「鳥じゃないわよ」


母はそう言って笑った。


何なのかまで聞いたかは覚えていない。


存在しなかった村について、こんな細かなことまで覚えているはずがない。


湊は車を戻した。


     *


近くの商店で飲み物を買い、会計のついでに店主へ尋ねた。


「すみません。この辺に芦倉っていう集落、ありませんでした?」


「芦倉?」


五十代くらいの男が眉を寄せる。


「はい。山の方なんですけど」


「聞かんなあ」


「昔あったとか」


「どの辺?」


説明しようとして、湊は困った。


昔なら「あの道を上がった先」で済んだ。


その道がない。


川と県道を基準に、おおよその位置を説明する。


「あっちは何もないよ。林ばっかり」


「昔は村があったと思うんですけど」


「何年前?」


「七年前には」


店主が変な顔をした。


「俺、ここ二十年以上おるけど、そんな名前聞いたことないな」


七年なら、廃村になったとしても覚えているはずだ。


礼を言って店を出た。


次に考えたのは市町村合併だった。


正式な地名が変わった。行政区画が整理された。住居表示が変わった。


その程度なら、検索で出ないこともあるかもしれない。


市役所まで行った。


     *


「芦倉、ですか。漢字はこちらで?」


「はい」


窓口の職員は何度かパソコンを操作し、途中で別の職員にも確認した。


その時間が長くなるほど、湊は嫌な気分になった。


「申し訳ありません。この市の現在の町名には該当がありません」


「昔の地名なら?」


「旧町名ですか?」


「集落名かもしれません。七年前まではあったんです」


再び調べてもらったが、結果は同じだった。


「少なくとも、こちらで確認できる範囲にはありません」


「廃村になったとか」


「それでも通常は記録があります」


当然だった。


村がなくなったからといって、過去までなくなるわけではない。


「俺、そこで育ったわけじゃないんですけど、祖父母が住んでたんです」


「ご住所は分かりますか?」


覚えている範囲で伝えたが、該当しない。


番地を間違えている可能性もある。祖父母の名前から追えないかとも思ったが、窓口でそこまで調べてもらうことはできなかった。


「ちなみに、ご本人の出生地はこちらでは?」


「近くの町です」


そこは普通に存在していた。


自分の記憶と記録が初めて一致したことに妙な安心を覚え、同時に昔の会話を思い出した。


「何で俺、芦倉で生まれてないの」


子供のころそう聞くと、母は「村に赤ちゃん産む病院なんてないもの」と笑っていた。


今考えても不自然ではない。山間の小さな集落なら、町の病院で出産する方が普通だろう。


だから出生地が違うことは、何の証拠にもならない。


市役所を出たところで、湊は少し迷った。


警察。


一瞬、頭に浮かんだ。


だが、何と説明すればいいのか。


七年ぶりに祖父母の村へ行こうとしたら道が見つからず、地図にも役所の記録にもありません。


誰かが行方不明になったと確認できたわけでもない。事件が起きた証拠もない。祖父母についてさえ、今この場でどうなっているのかを確かめられていない。


まず母に聞くべきだった。


スマートフォンを見る。


連絡はない。


芦倉へ向かう途中に一度、道が見つからなくなってからもう一度電話したが、どちらも出なかった。


メッセージも送ってある。


『今、富山にいる。芦倉に行こうとしたんだけど、ちょっと聞きたいことがある』


まだ既読はついていない。


母は今も富山で暮らしている。


ただ、湊が東京へ出てからは連絡の間隔も長くなり、仕事中ならその日のうちに返事がないこともある。


だから、母が出ないこと自体はおかしくない。


少なくとも、まだ。


     *


車の中で昔の写真を探した。


クラウドに残っているものは少ない。中学生より前の写真の多くは、古い端末か実家のアルバムにあるはずだった。


それでも何枚か見つかった。


川。


祖父。


夏祭り。


木造の家。


「あるじゃん」


思わず声が出た。


芦倉はある。


少なくとも、自分が何かを丸ごと妄想していたわけではない。


ところが写真を見ているうちに、妙なことに気づいた。


一枚ずつなら覚えている。


祖父母の家の前。川。神社らしき石段。祭りの夜。


だが、「この道を曲がれば川」「神社から家までは何分」と並べようとすると、急に曖昧になる。


「七年も経ってるからか」


十分あり得る。


記憶なんてそんなものだ。


写真を母に送って聞けばいい。


そう思いながら次へ送ったところで、指が止まった。


石が写っている。


画面の端に幼い自分がいて、その背後、道端に低い石柱が立っている。


そこに、あの印があった。


「……これだ」


拡大する。


画像は粗い。それでも分かる。


芦倉へ入る道にあった、鳥が羽を広げたような印。


少なくとも、その記憶まで作り物ではない。


湊は画像検索を試した。


最初は鳥の紋様や家紋ばかりだった。


《石 印 山村》


《境界石 鳥 記号》


《古道 石標 記号》


検索語を変えていく。


諦めかけたころ、一枚の古文書画像が目に入った。


江戸期の村境に関する資料。


芦倉からは何百キロも離れた土地のものだった。


文書の端に、よく似た印が描かれている。


完全に同じではない。


それでも偶然と片付けるには、似すぎていた。


近くに崩した字で何か書かれている。ほとんど読めないが、一文字だけ《門》のように見えた。


画像の所蔵元は地方の資料館だった。


ここから車なら行ける。


時計を見る。


まだ間に合う。


五日の休みの一日目から何をしているんだ、と少し思った。


実家へ戻って母の帰りを待つという選択肢もある。


だが、もし帰ってこなかったら、今日はそれで終わる。


今追える手掛かりは、目の前にある。


「……行くか」


エンジンをかける。


駐車場から道路へ出ようとして、湊は右を見た。


資料館は左だ。


ナビにもそう出ている。


なのに、なぜか右へ行くべきだと思った。


「……何だ?」


理由はない。


知っている道でもない。


それでも、そちらへ行けば何かある。


妙な確信だけがあった。


湊は数秒迷い、右へハンドルを切った。


「……こっちだ」


口にしてから、自分がどうしてそう思ったのか、説明できなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。