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残してあるもの

火曜日の朝、三枝宗一は車の鍵を探していた。


いつもの場所にない。


玄関の棚を見て、上着のポケットを探り、台所まで戻ったところで、昨日のズボンに入れたままだったことを思い出した。


「いかんなあ」


独り言を言いながら、車に乗り込む。


今日は古い家へ行くつもりだった。


明日、千景の息子が訪ねてくる。


何を聞かれるか分からないが、妻のことなら、話す前に自分でも確かめておきたいことがあった。


家までは車で四十分ほどだった。


途中のスーパーで飲み物を買い、ついでに仏壇に供える花を選んだ。


レジの女性が花を見て言った。


「きれいですね」


「妻が好きだったもんで」


宗一は答えた。


本当は、佳代がこの花を好きだったかどうか、はっきり覚えていなかった。


それでも、いつも同じ花を買っていた。


*


古い家は、道路から少し奥まった場所にあった。


門柱の片方に、蔦が絡んでいる。


宗一は車を停め、玄関の鍵を開けた。


家の中には、閉め切った建物特有の匂いがあった。


窓を開けると、冷たい風が入ってくる。


居間の壁には、佳代が選んだ時計が掛かっていた。


電池が切れたまま、三時十七分を指している。


宗一は台所へ行き、蛇口をひねった。


しばらく水を流してから、流しの下を覗く。


水漏れはない。


家を売るかどうかとは別に、管理は必要だった。


一通り見回ったあと、宗一は押し入れを開けた。


佳代の荷物は、亡くなった時に大部分を整理している。


それでも、捨てられなかったものがいくつかあった。


古い裁縫箱。


年賀状の束。


娘が小学校で描いた絵。


そして、紙袋に入った手帳が三冊。


宗一は畳に座った。


手帳は佳代が家計簿代わりに使っていたものだった。


買い物の金額や、病院の予約。


時々、短い日記も書かれている。


一冊目を開くと、庭木の剪定に来てもらった日の記録があった。


二冊目には、真由の結婚式の準備。


三冊目には、灯が初めて歩いた日のことが書かれていた。


『灯、縁側から庭へ出ようとする。真由が大騒ぎ』


宗一は笑った。


あの日のことは覚えている。


佳代は、危ないからと灯を抱き上げた真由に、「あんたも同じことをした」と言っていた。


宗一はページをめくった。


そして、ある日の記録で手を止めた。


『榊原さんから電話。芦倉のこと』


日付は、二〇一〇年の春だった。


*


長野駅近くの喫茶店で、湊はノートを広げていた。


ナギは向かいの席で、厚切りのトーストを食べている。


「明日、何を聞くの?」


ナギが尋ねた。


「母が何を調べていたか。それから、佳代さんのことかな」


「佳代さんって、宗一さんの奥さん?」


「うん。七年前に亡くなってる」


「会えないんだね」


「そうだね」


ナギはトーストをちぎった。


「会えない人のことって、どうやって知るの?」


湊はペンを止めた。


「残したものを見るとか、知ってる人に話を聞くとか」


「でも、それって、その人の全部じゃないよね」


「……そうだな」


湊はノートを見た。


正臣の手帳。


澄江の写真。


母が残した連絡先。


どれも大事な手掛かりだった。


けれど、そこに書かれていることだけで、その人の人生が分かるわけではない。


「だから、決めつけないようにしないとな」


湊が言うと、ナギはうなずいた。


「うん」


それから、トーストの最後の一切れを口に入れた。


「でも、おいしいものが好きだったかどうかは、分かりやすいね」


「そうか?」


「私がいなくなったら、湊はブドウのグミを見て思い出すでしょ」


湊は顔を上げた。


ナギは何でもないことのように、コーヒーカップを眺めていた。


「いなくなる予定でもあるのか」


「ないよ」


「なら、そういう言い方するなよ」


「たとえばの話」


ナギは笑った。


湊はノートに目を戻した。


けれど、しばらく文字が頭に入ってこなかった。


*


午後、真由は不動産会社から届いた資料を確認していた。


登記事項証明書と公図。


父が気にしていた地番については、説明を読めば納得できそうだった。


真由は書類を封筒に入れ、父へ電話した。


「明日、資料を持っていくからね」


『ああ。ありがとう』


「午前中は何か予定があるの?」


『千景さんの息子さんが来る』


真由は聞き返した。


「千景さんって、去年の?」


『そうだ』


「どうして?」


『お母さんが行方不明らしい。何か知らんかと』


真由は言葉を失った。


千景が父を訪ねてきた時、真由も少しだけ顔を合わせている。


玄関で挨拶しただけだったが、物腰の柔らかい女性だった。


「それは……心配だね」


『ああ』


「お父さん、何か知ってるの?」


『いや。去年会ったきりだ』


真由は少し考えた。


「じゃあ、明日はその人が帰ってから行くよ。急かしたくないし」


『すまんな』


「いいよ。灯も一緒に行くから」


電話を切ると、真由は予定表を開いた。


午後の仕事を早めに切り上げるため、同僚に引き継ぐ内容を確認する。


父の問題を解決したい。


けれど、今すぐ答えを出させることだけが解決ではないのかもしれない。


そう考えたところで、真由は首を振った。


だからといって、また一年待つつもりはなかった。


*


古い家では、宗一が佳代の手帳を読み返していた。


『榊原さんから電話。芦倉のこと』


その下には、もう一行あった。


『澄江さん、帰りたいと言っている』


宗一は窓の外を見た。


澄江のことは覚えている。


昔から付き合いがあり、佳代も何度か電話で話していた。


大阪で暮らすようになってからも、故郷の家を気にしていた人だった。


だが、なぜ佳代がそのことを手帳に書き残したのか。


宗一は次のページを開いた。


そこには買い物の記録が並んでいた。


牛乳。


豆腐。


洗剤。


その次のページも、普段の生活のことばかりだった。


宗一はしばらく手帳を眺めたあと、閉じた。


分からないことは、分からないままだった。


ただ、明日訪ねてくる青年に見せるものが、一つ増えた。


宗一は三冊の手帳を紙袋に戻した。


帰る前に、もう一度家の中を見回った。


玄関を閉め、鍵を掛ける。


車へ向かいかけて、宗一は振り返った。


庭の隅に、佳代が植えた金木犀があった。


小さな花が、いくつも地面に落ちている。


宗一はしゃがみ込み、枝の下に積もった落ち葉を手で払った。


「今年も咲いたな」


誰に聞かせるでもなく言った。


風が吹くと、甘い匂いがした。

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