知らない客
水曜日の朝、ナギはホテルの部屋に戻ってくるなり、湊に小さな紙袋を見せた。
「これ、見て」
中には、丸い牛乳寒天が二つ入っていた。
「朝ごはん、食べたばかりだろ」
「食べ物を見せただけ」
「食べないの?」
「食べるよ」
湊は笑った。
ナギは朝食のあと、ホテルの近くを少し歩きたいと言って、一人で出かけていた。知らない土地でも平気で歩いていくところがある。
「どこで買ったの」
「スーパー。ツルヤって書いてあった」
「へえ」
「牛乳寒天、いっぱいあった。コーヒーのも」
ナギは紙袋から一つ取り出し、蓋を開けた。
「あとね、牛乳の名前が信州って書いてあった」
「そりゃ長野だからな」
「東京の牛乳には東京って書いてないのに」
湊は答えに困った。
ナギは寒天を一口食べた。
「おいしい」
「よかったな」
「湊も食べる?」
「今度は一個くれるのか」
「半分」
湊はスプーンを受け取った。
*
九時前、二人はホテルを出た。
朝の空気は冷たかったが、日向に立つと少し暖かい。
通りには、作業服の男性や買い物袋を提げた女性が歩いていた。駐車場の脇にある掲示板には、町内清掃のお知らせと、古くなった交通安全のポスターが並んでいる。
湊はスマートフォンで道を確かめた。
宗一の家までは、歩くと少し距離がある。
途中でタクシーを拾った。
運転手は宗一の住所を聞くと、すぐに車を出した。
「観光ですか」
「いえ、知り合いの家に」
「そうですか。今日は天気がよくてよかったですね」
運転手はそれ以上聞かなかった。
ナギは窓の外を眺めていた。
古い看板を残した商店の隣に、新しい住宅が建っている。道路沿いには農機具を扱う店があり、店先に小さな耕運機が並んでいた。
「湊、あれ何?」
「畑を耕す機械じゃないかな」
「小さいね」
運転手がバックミラー越しに笑った。
「家庭菜園くらいなら、ああいうので十分なんですよ」
「畑、持ってるんですか」
「うちはないですけどね。親父がやってました」
それだけの話だった。
けれど、湊は窓の外をもう一度見た。
東京では気に留めないような店にも、ここでは毎日客が来るのだろう。
*
三枝宗一は、約束の時間より少し前に玄関を開けて待っていた。
「遠いところ、ご苦労さん」
「今日はありがとうございます。高瀬湊です」
「ナギです」
宗一は二人を見比べた。
「ナギさん。珍しい名前だね」
「そうみたいです」
宗一は笑い、二人を中へ通した。
居間には、佳代の写真が飾られていた。
湊はその前で一礼した。
「奥様ですか」
「ああ。七年前に亡くなった」
「母がお世話になったと聞きました」
「いや、世話になったのはこっちだよ」
宗一は茶を出し、向かいに座った。
湊は母が行方不明になっていること、芦倉が地図から消えたこと、久世正臣の手帳に母の名前が残っていたことを説明した。
宗一は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「芦倉が、地図からなくなったのか」
「はい。信じられないと思います」
「分からんことだらけだな」
宗一は湯呑みを置いた。
「ただ、佳代も昔、あそこのことを気にしていた」
そして、昨日見つけた手帳を取り出した。
二〇一〇年の春。
『榊原さんから電話。芦倉のこと』
その下に、
『澄江さん、帰りたいと言っている』
と書かれていた。
湊は日付を確かめた。
正臣が怪我をして、芦倉へ行けなくなっていた時期だった。
「この電話のこと、覚えていますか」
「いや。佳代は人から相談されたことを、何でも俺に話す人じゃなかった」
宗一は少し申し訳なさそうに言った。
「ただ、澄江さんが帰りたがっていたのは知っとる。佳代も心配していた」
「母とは会っていたんでしょうか」
「それは分からん。千景さんがうちへ来たのは、ずっとあとのことだ」
湊はうなずいた。
分からないことを、分かったようには話さない人だった。
*
ナギは棚に並んだ写真を眺めていた。
結婚式。
海辺で撮った家族写真。
小さな女の子が、スイカを両手で持っている写真。
「この子、灯さん?」
宗一が振り返った。
「そう。孫だよ」
「スイカ、大きいね」
「本人がどうしても丸ごと持ちたいと言ってな。あのあと落としたんだ」
「割れた?」
「見事に」
「食べた?」
「もちろん。佳代が、割る手間が省けたって」
ナギは笑った。
湊も棚の写真を見た。
佳代は、どの写真でも同じように笑っているわけではなかった。疲れた顔のものも、カメラを嫌がっているものもある。
この家には、湊の知らない時間が積み重なっていた。
「三枝さん」
湊は改めて尋ねた。
「母は去年、何をしに来たんでしょうか」
宗一の表情が少し変わった。
「佳代が、最後に何を望んでいたのか。それを確かめに来たんだと思う」
「どういう意味ですか」
「佳代は亡くなる前、古い家に帰りたいと言ったことがある」
宗一は言葉を選んだ。
「でも、病院から帰れる状態じゃなかった。本人も、それは分かっていたはずなんだ」
「それで?」
「俺は、家に帰りたいという意味だと思っていた。千景さんは、別の意味かもしれないと言った」
湊は黙った。
「詳しく聞いたんだが、千景さんも確信はなさそうだった。だから、佳代の持ち物を見せてほしいと頼まれた」
宗一は立ち上がり、押し入れから木箱を持ってきた。
「その時、これを見せた」
蓋を開ける。
中には、古い鍵が一本入っていた。
「佳代が大切にしていたものだ。どこの鍵か、俺には分からん」
湊は鍵を見つめた。
「母は、何か言いましたか」
「前にも見た気がする、と。写真を撮っていったよ」
「僕も撮っていいですか」
「構わんよ」
湊がスマートフォンを取り出した時、ナギが言った。
「佳代さんは、何の鍵か知ってたのかな」
「そうかもしれん」
「聞かなかったの?」
「聞いたことはある。でも、うまくはぐらかされた」
「どうして?」
宗一は笑った。
「それが分かれば苦労せんよ」
*
十一時を過ぎた頃、宗一の携帯電話が鳴った。
真由からだった。
『お父さん、今日なんだけど。灯の学校が早く終わったの。十二時半頃には着けそう』
「そうか。分かった」
『お客さんは?』
「まだおるよ」
『じゃあ、邪魔しないようにする』
「いや、少し待ってくれ。お前にも聞いてほしい話があるんだ」
宗一は湊たちの事情を簡単に伝えた。
真由は少し考えてから答えた。
『私はいいよ。でも、灯にも聞いてみる』
電話を切ると、宗一は湊に向き直った。
「娘が少し早く来るそうだ。よかったら、もう少しおってくれんか」
「ご迷惑でなければ」
「迷惑じゃないよ。家のことは、娘にも関係があるからな」
湊はうなずいた。
宗一は木箱を閉めた。
「昼飯、まだだろう。近くに弁当屋があるんだ。何か頼もうか」
ナギが顔を上げた。
「お弁当?」
「そう。唐揚げがうまいんだよ」
「食べたい」
「ナギ、まだ聞かれてないだろ」
宗一は声を出して笑った。
「いいよ。俺も食べたいから」
湊は少し肩の力が抜けるのを感じた。
母の行方を探しに来た家で、昼飯の相談をしている。
不思議な気もしたが、宗一にとっては、客が来れば食事を出すのが当たり前なのだろう。
その時、宗一の携帯電話がもう一度鳴った。
真由からのメッセージだった。
『灯もいいって。ところで、お父さん。佳代の鍵のこと、話してる?』
宗一は画面を見つめた。
すぐに返信を打った。
『話している。お前も覚えているのか』
返事は間もなく届いた。
『うん。小さい頃に見せてもらったことがある。お母さん、あれは家の鍵じゃないって言ってたよ』
宗一は木箱を見た。
長い間、家のどこかに合う錠前があるのだと思っていた。
佳代は、娘には違う話をしていたらしい。




