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家を売る理由

三枝真由は、昼休みに不動産会社へ電話をかけた。


「すみません。先日送っていただいた書類なんですが、父が地番の違いを気にしていて」


担当の男性は、すぐに事情を理解した。


「住居表示との違いですね。登記事項証明書と公図を揃えておきます。お父様にも一度見ていただいた方が安心でしょう」


「お願いします。父は、そういうところをきちんと確認したい人なので」


「承知しました」


電話を切ると、真由は弁当の蓋を開けた。


卵焼きと、昨夜の残りの煮物。


隣の席の同僚が声をかけた。


「また実家のこと?」


「うん。父がね」


「大変だねえ」


真由は笑った。


「まあ、仕方ないよ。母が大事にしてた家だから」


「売りたくないの?」


「売りたいわけじゃないんだけどね」


真由は卵焼きを一口食べた。


少し甘くて、焦げ目がついている。


母の佳代が作っていたものと、同じ味だった。


真由は高校生の頃、弁当に卵焼きが入っていないと文句を言ったことがある。母は翌日から、しばらく毎日入れてくれた。


今になって考えると、随分面倒な注文だった。


「お父さん、一人暮らしなんでしょ?」


「そう。今の家は便利な場所だから、生活には困ってないんだけど」


「じゃあ、空き家だけの問題なんだ」


「そうなんだけどね」


真由は箸を止めた。


「私が心配してるのは、家そのものより父の方なんだと思う」


「どういうこと?」


「売らない理由を、父自身がうまく説明できないの。母との思い出があるから、って言ってくれればまだ分かるんだけど」


真由は少し考えた。


「何かを確かめるまでは売れない、って言うのよ」


「何を?」


「それが分からない」


父は昔から、物事を順序立てて考える人だった。役所勤めをしていた頃も、書類の不備には厳しかった。


そんな父が、家のことになると説明を避ける。


真由には、それが気になっていた。


*


岡山では、湊がホテルのロビーで上司と電話をしていた。


「事情は分かった。休みは延ばせるよ」


受話口から聞こえた声に、湊は頭を下げた。


「ありがとうございます」


「ただ、来週の金曜には一度連絡をくれ。復帰の見通しだけ確認したい」


「分かりました」


「お母さん、早く見つかるといいな」


「……ありがとうございます」


電話を切ると、湊はしばらくスマートフォンを見つめていた。


会社に迷惑をかけている。


分かってはいたが、今は戻る気持ちになれなかった。


「怒られた?」


ナギが隣に座った。


「いや。休みを延ばしてもらえた」


「よかったね」


ナギは自動販売機で買ったお茶を飲んだ。


「仕事って、楽しい?」


突然の質問だった。


湊は少し考えた。


「楽しい時もあるよ」


「どんな時?」


「自分がやったことが、ちゃんと役に立った時かな」


「じゃあ、今は?」


「今?」


「千景さんを探してるのも、誰かの役に立ってる?」


湊は答えに迷った。


母を探すのは、自分のためだ。


これまで訪ねた場所で、誰かの問題に関わることはあった。


けれど、助けたつもりで余計なことをした可能性だってある。


「分からないな」


正直に答えると、ナギはうなずいた。


「そっか」


それから、ポケットを探って小さな袋を取り出した。


ブドウ味のグミだった。


「食べる?」


「もらう」


湊が一粒取ると、ナギは袋を大事そうにしまった。


「全部くれないんだ」


「湊、さっき朝ごはん食べたでしょ」


「ナギもだろ」


「私は別」


湊は笑った。


何が別なのかは、最後まで教えてくれなかった。


*


午後、湊たちは岡山を発った。


長野にはその日のうちに着く予定だった。


翌日は移動の疲れを取りながら、これまで集めた資料を整理する。そして水曜日の午前中、宗一を訪ねる。


新幹線の窓から、町並みが後ろへ流れていく。


ナギはしばらく景色を見ていたが、やがて眠ってしまった。


湊はスマートフォンに保存した写真を開いた。


久世家で見つけた一枚。


白い家の前に立つ正臣と母。


そして、母のそばにいる幼い自分。


湊には、その日の記憶がなかった。


五歳だったのだから、覚えていなくても不思議ではない。


それでも、写真の中の自分は笑っていた。


母も、少し疲れたような顔をしながら笑っている。


湊は拡大して、家の玄関を見た。


戸の横に、小さな表札があった。


文字はぼやけて読めない。


その下には、子供の背丈ほどの位置に、何か白いものが貼られていた。


紙のようにも見える。


しかし、画質が粗く、それ以上は分からなかった。


「……何だろう」


独り言を漏らすと、隣でナギが目を開けた。


「何が?」


「この写真」


ナギは眠そうな目で画面を見た。


「前にも見たね」


「うん」


「湊、小さい」


「そうだね」


ナギは写真をじっと見つめた。


「この時、楽しかった?」


「覚えてないんだ」


「そっか」


ナギは少し考えてから言った。


「でも、笑ってるね」


湊は写真の中の自分を見た。


「うん」


「楽しかったのかもね」


それだけ言って、ナギはまた窓の方へ顔を向けた。


*


その日の夕方、真由は仕事を終えると、娘の灯に電話をかけた。


「もしもし、今大丈夫?」


『うん。どうしたの?』


「おじいちゃんの家のことなんだけど」


『また?』


「また、って言わないの」


『だって、ずっとその話してるじゃん』


真由は苦笑した。


「そうなんだけどね。今度、一緒に行ってくれない?」


『いつ?』


「水曜日の午後。おじいちゃんと話をするつもりなの」


電話の向こうで、少し間があった。


『私が行って、何か変わる?』


「分からない。でも、おじいちゃん、灯の話はよく聞くから」


『それ、ずるくない?』


真由は黙った。


灯の言う通りだった。


父を説得するために、娘を連れていこうとしている。


「……そうだね。ごめん」


『別に怒ってないよ』


灯は少し笑った。


『私も、あの家がどうなるのか気になってるし』


「じゃあ」


『行くよ。でも、説得する役はやらないからね』


「うん。ありがとう」


電話を切ったあと、真由はしばらく車の中に座っていた。


灯が小さい頃、佳代はよく古い家へ連れていっていた。


夏になると庭に小さなプールを出し、三人でスイカを食べた。


家を売れば、あの時間までなくなるわけではない。


そう思っていた。


けれど、父に同じことを言えるかどうかは、分からなかった。


*


夜、宗一は現在の自宅で、一人で夕飯を食べていた。


テレビでは天気予報が流れている。


水曜日は晴れ。週末から、朝晩は冷え込むらしい。


宗一は箸を置き、食卓の端にある写真立てを見た。


佳代が笑っている。


亡くなる二年前、病院の庭で撮ったものだった。


「真由が来るそうだぞ」


宗一は写真に向かって言った。


「灯も一緒にな」


食器を片づけると、居間の押し入れから小さな木箱を取り出した。


中には、古い鍵が一本入っていた。


佳代が生前、大切にしていたものだった。


宗一は妻が亡くなったあと、古い家のあちこちで試してみたことがある。けれど、どの錠前にも合わなかった。


去年、千景が訪ねてきた時にも、この鍵を見せている。


千景はしばらく眺めたあと、写真を撮らせてほしいと言った。


「何か分かるんですか」


そう尋ねると、千景は首を振った。


『まだ、分かりません』


それから、少し考えて付け加えた。


『でも、前にも見た気がするんです』


宗一は鍵を手に取った。


どこにでもありそうな、古い鍵だった。


妻がなぜこれを大切にしていたのか、結局聞かずじまいになっている。


水曜日、千景の息子が来る。


宗一は鍵を箱に戻し、蓋を閉めた。


そのまま押し入れへ戻しかけて、思い直した。


木箱を食卓の上に置いた。


---


第24話「家を売る理由」了

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