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返事

三枝宗一は、夕飯の支度を終えてから封筒を開けた。


差出人は娘の真由だった。


中には家の売却に関する書類と、短い手紙が入っていた。


『お父さんの気持ちは分かっています。でも、いつまでもこのままにはできません。今月中に一度、ちゃんと話したいです』


宗一は二度読んだ。


娘の言うことは正しい。


妻の佳代が亡くなって七年。かつて二人で暮らした家は、今では空き家になっている。


宗一自身は数年前に町の中心部へ移り、買い物にも病院にも困らない生活をしていた。古い家へは車で通い、庭の草を刈ったり、窓を開けたりしている。


去年は屋根の修理にまとまった金がかかった。


冬には雪も積もる。


七十四歳の自分が、いつまで管理できるか分からなかった。


電話が鳴った。


真由だった。


「届いた?」


「ああ。今日な」


「読んだ?」


「読んだよ」


「どう思った?」


宗一は台所の時計を見た。


午後六時四十二分。


娘は仕事を終え、夕飯の支度を始める前に電話してきたのだろう。


「お前の言うことは、もっともだと思う」


「じゃあ」


「ただ、もう少し考えさせてくれんか」


電話の向こうで、小さなため息が聞こえた。


「お父さん、去年も同じこと言ったよ」


「そうだったな」


「私だって、売りたいわけじゃないんだよ」


真由の声が少し強くなった。


「でも、雨漏りしたら誰が直すの? 雪が積もったら誰が見に行くの? お父さんが倒れたら、結局私たちが何とかしなきゃいけないでしょう」


「分かっとる」


「分かってないから、ずっとそのままなんじゃない」


宗一は黙った。


真由にも家庭がある。夫と、高校生の娘がいる。仕事もしている。


古い家の管理を娘に引き継がせることが、簡単な話でないのは分かっていた。


「すまんな」


「謝ってほしいんじゃないよ」


少しして、真由の声が戻ってきた。


「一緒に決めたいの」


宗一は書類を見た。


「今月中には返事をする」


「約束ね」


「ああ」


電話を切ったあと、宗一は冷めかけた味噌汁を温め直した。


食卓には、二人分の箸が入った古い箸立てがあった。


佳代が亡くなってからも、片方を捨てられずにいる。


ただ、それと家を売れないことが同じ理由なのか、宗一自身にも分からなかった。


*


翌朝、湊は岡山駅近くのホテルで目を覚ました。


昨夜は東京へ戻らず、もう一泊することにした。


長野へ行くにしても、三枝宗一に連絡が取れてからの方がいい。仕事の休みについても、上司へ確認しなければならなかった。


隣のベッドでは、ナギが布団を肩まで引き上げて眠っていた。


枕元には、鳥のマスコットのマルが置かれている。


湊はスマートフォンを確認した。


直人からメッセージが届いていた。


『父の手帳をもう少し調べてみます。何か分かったら連絡します』


湊は礼を返した。


正臣の息子にも、自分の生活がある。それでも父の残したものを調べようとしてくれている。


ありがたかった。


「おはよう」


背後で声がした。


ナギが片目だけ開けていた。


「起こした?」


「ううん。お腹すいた」


「昨日も寝る前に食べてただろ」


「昨日の話でしょ」


湊は笑った。


朝食を済ませたあと、ホテルのロビーで三枝宗一の番号に電話をかけた。


呼び出し音が六回鳴ったところで、低い声が出た。


「はい、三枝です」


「突然すみません。高瀬湊と申します。榊原遼さんから連絡先を教えていただきまして」


「榊原君から?」


声の調子が少し変わった。


「母のことで、お話を伺いたくて。高瀬千景です」


電話の向こうが静かになった。


湊は続けた。


「母が一週間ほど前から行方不明になっています。警察にも相談しています。母が以前、三枝さんと連絡を取っていたと聞いて……」


「千景さんが?」


「はい」


しばらく沈黙があった。


やがて宗一が言った。


「千景さんには、世話になった」


湊はスマートフォンを握り直した。


「最後に会ったのは、いつですか」


「ちょっと待ってくれ」


紙をめくる音がした。


「去年の十一月だな。家まで来てもらった」


「何のお話を?」


「佳代のことだ」


宗一はそこで言葉を止めた。


「電話では、うまく説明できん。すまんな」


「直接お会いすることはできますか」


「長野まで来るのか」


「はい」


「遠いぞ」


「分かっています」


宗一はしばらく考えた。


「水曜なら、午前中は空いとる。午後は娘が来るかもしれん」


「ありがとうございます。伺います」


「待て待て。まだ何も話してないのに、そんなに急いで決めんでも」


湊は口を閉じた。


宗一は笑った。


「若いなあ」


「すみません」


「謝ることじゃない。お母さんが心配なんだろう」


その声は、思っていたより柔らかかった。


「時間が決まったら、また電話をくれ」


湊は礼を言って電話を切った。


ナギが隣から顔を覗かせた。


「会える?」


「うん。水曜日」


「よかったね」


湊はうなずいた。


*


長野の三枝家では、宗一が電話を置いたあとも、しばらく手帳を開いていた。


去年の十一月。


『高瀬さん来訪』


その横に、小さな字で書き足してある。


『佳代の話』


千景が来た日、宗一は妻の古い写真を見せた。


若い頃の佳代が、古い家の縁側に座って笑っている写真だった。


千景はそれを長いこと眺めていた。


そして、帰り際に一つだけ尋ねた。


『奥さんが最後に、ここへ帰りたいと言ったのはいつですか』


宗一は答えられなかった。


妻が入院してから、二人は何度も家のことを話した。


しかし、最後に何を望んでいたのか。


自分が覚えている言葉と、妻が本当に言った言葉は、同じだっただろうか。


宗一は手帳を閉じた。


食卓の上には、真由から届いた書類がある。


署名をすれば、売却の手続きを進められる。


宗一はペンを手に取った。


その時、書類に記載された土地の番号が、固定資産税の通知書に書かれたものと違っていることに気づいた。


真由へ電話すると、娘はすぐに答えた。


「それ、前にも説明したでしょう。住所と登記の地番は違うの。書類は不動産会社にも確認してもらってるよ」


「そうだったか」


「心配なら、水曜日に資料を持っていくから、一緒に見よう」


「ああ。頼む」


電話を切ったあと、宗一は書類を重ねた。


娘の説明に不自然なところはない。


ただ、千景が去年持ってきた古い地図を思い出した。


あの地図には、家の位置を示す小さな丸がついていた。


その脇に書かれていたのは、番地ではなかった。


『三枝佳代』


宗一はペンを置いた。


窓の外では、秋の山が少しずつ色づき始めていた。


---


第23話「返事」了

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