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帰れなかった人

「祖母の名前は、榊原澄江といいます」


榊原はアルバムを開いたまま話し始めた。


「芦倉で生まれて、結婚して大阪へ移りました。僕も子供の頃は、夏休みに何度か泊まりに行きました」


写真には白い壁の二階建ての家が写っている。玄関の脇に小さな木があり、庭には飛び石が並んでいた。


「祖母は庭いじりが好きでね。僕が草むしりを手伝おうとすると、花まで抜くから触るなって怒るんです」


榊原は少し笑った。


「でも、翌年行くと、僕用の小さな軍手を用意してくれていました」


ナギが写真を覗き込んだ。


「優しいおばあちゃんだね」


「ええ。口は厳しかったですけど」


榊原はページをめくった。


「十六年前、祖母はもう一人で芦倉へ帰れる状態ではありませんでした。足腰が弱っていたし、薬を飲み忘れることもあった。父は大阪で一緒に暮らすよう勧めていました」


「でも、帰りたかったんですね」


湊が言うと、榊原はうなずいた。


「家が気になって仕方なかったんです。雨漏りしていないか、庭が荒れていないか。毎日のように話していました」


榊原は写真の玄関を指した。


「千景さんは、そんな祖母を気にかけてくれていました。大阪へ来た時には顔を出してくれたし、芦倉の家も見に行ってくれた」


「それで、母があの家に?」


「ええ。ただ、祖母が頼んだのは、家の様子を見てほしいということだけでした」


榊原は一度、言葉を切った。


「千景さんは、それ以上のことをしようとしたんです」


「それ以上?」


「祖母がもう一度、あの家に帰れるように」


湊は写真を見た。


母なら考えそうなことだった。誰かが諦めかけている時、別の方法を探そうとする人だったからだ。


「実際に帰る計画を立てたんですか」


「そこが分からないんです。千景さんが何をしたのか、僕は見ていません」


榊原は正直に答えた。


「ただ、千景さんが家へ行ったあと、祖母に変化がありました」


「どんな?」


「家の写真を見ても、自分の家だと言わなくなったんです」


湊は顔を上げた。


「忘れてしまったんですか」


「いいえ。間取りも庭の石の位置も、近所の人の名前も覚えていました。でも、写真を見せると、知らない家だと言う」


榊原は一枚の写真を取り出した。


玄関の前が掃き清められ、窓には新しいカーテンが掛かっている。


「千景さんが撮ってきた写真です。祖母を喜ばせようとしたんでしょうね。でも、祖母はこれを見て言ったんです」


榊原は写真を見つめた。


「『きれいなお家ね。どなたのお宅?』と」


湊は言葉を失った。


水守で見た、家と人のつながりが曖昧になる現象に似ていた。


「病気の可能性は?」


「もちろん考えました。病院にも相談しています。年齢による記憶の変化だった可能性は、今でも否定できません」


榊原は写真をアルバムに戻した。


「ただ、祖母はそれ以来、一度も芦倉へ帰りたいと言わなくなりました」


ナギが尋ねた。


「おばあちゃん、それからどうしたの?」


「大阪で暮らしました。父と母が面倒を見て、僕もよく会いに行きました。六年前に亡くなりましたが、楽しいこともたくさんありましたよ」


「お家のこと、思い出さなかった?」


「家の話はしました。でも、帰りたいとは言わなかった」


榊原はナギに向き直った。


「祖母が大阪で幸せだったことと、あの変化が悲しかったことは、僕の中では両方本当なんです」


その時、玄関の戸が開いた。


昼食を買いに出ていた直人が、うどんの入った袋を提げて戻ってきた。


     *


食事を終えると、直人が例の手帳を取り出した。


「榊原さん、この字に心当たりはありませんか」


《交代》の横に書かれた《高瀬千景》。


榊原はしばらく見つめ、首を振った。


「誰の字かは分かりません。ただ、交代という言葉は祖母から聞いたことがあります」


「どういう意味で?」


「誰かが来られなくなれば、別の誰かが行く。そんな話でした」


「正臣さんが怪我をして、母が代わりに行ったということですか」


「そうかもしれません。でも、祖母は頼まれたから行くだけでは駄目だとも言っていました」


「なぜですか」


「当時は聞き返しませんでした。僕は十八歳で、祖母の昔話より友達との予定の方が大事だったんです」


榊原は苦笑した。


「今なら、ちゃんと聞くんですけどね」


湊は手帳を見下ろした。


正臣が行けなくなったこと。母が家を訪ねたこと。澄江の変化。


三つの出来事は同じ時期に起きている。


けれど、それらがどうつながっているのかは、まだ分からなかった。


     *


午後、榊原は必要な写真を直人の許可を得て撮影し、帰り支度を始めた。


湊は門の外まで追いかけた。


「去年、母と大阪で会ったんですよね」


「ええ」


「何を話したんですか」


「祖母が家を分からなくなった時のことです。千景さんは、自分がしたことに原因があるかもしれないと言っていました」


「謝ったんですか」


「謝罪はありました。ただ、何をしたのか説明してほしいと頼んでも、僕には十分理解できる答えが返ってこなかった」


榊原は車の鍵を握り直した。


「腹が立ちましたよ。祖母が亡くなって何年も経ってから、そんなことを言われても」


湊は黙った。


「でも、千景さんが何かを確かめようとしているのは分かりました。祖母のことだけじゃなく、ほかの場所でも似たことが起きていると」


「ほかの場所?」


「長野です。三枝宗一という人を知っていますか」


湊は首を振った。


榊原はスマートフォンを取り出し、連絡先を見せた。


「僕も何度か話しています。千景さんは去年の秋、この人に会おうとしていました」


湊は名前と町の所在地を控えた。


「会いに行ってみます」


「先に連絡してください。三枝さんにも都合がありますから」


榊原はそう言ってから、少し迷った。


「それと、もし会えたら、千景さんのことだけじゃなく、三枝さん自身の話も聞いてあげてください」


「どういうことですか」


「今、家のことで揉めているんです。娘さんとの間でね。僕も相談されたんですが、簡単に口を出せる話じゃなくて」


湊は榊原を見た。


「榊原さんは、三枝さんとどういう関係なんですか」


「祖母の知り合いだったんです。僕が調べ物を始めてから、何度か助けてもらいました」


榊原は車のドアを開けた。


「僕も、あの人に返さなきゃいけないものがあるんです」


「何を?」


榊原は答えず、少し笑った。


「それは、僕の問題です」


車が走り去ったあと、湊はしばらく門の前に立っていた。


     *


夕方、岡山駅へ向かう途中、ナギが言った。


「榊原さん、怒ってたね」


「そうだね」


「でも、千景さんのこと、嫌いじゃなさそう」


湊は少し考えた。


「どうしてそう思う?」


「悪い人だって、一回も言わなかったから」


駅前の信号が赤に変わった。


湊は立ち止まり、スマートフォンに保存した三枝宗一の連絡先を開いた。


母が探していた人。


榊原が助けてもらった人。


そして、今は娘と家のことで揉めている人。


湊にとっては、まだ名前しか知らない相手だった。


電話をかけようとして、指を止めた。


もう夕方だ。相手の都合も分からない。


まずは明日の昼間に連絡してみよう。


画面を閉じると、ナギが尋ねた。


「次は長野?」


「たぶんね」


「何があるの?」


「まだ分からない」


「じゃあ、行ってからのお楽しみだ」


ナギはそう言って、青に変わった横断歩道を渡り始めた。


湊も後を追った。


その頃、長野では、三枝宗一が娘から届いた封筒を食卓に置いたまま、夕飯の支度をしていた。


封筒の中身は、家の売却に必要な書類だった。


宗一はまだ、返事を書いていなかった。

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