約束の品
翌朝、湊が目を覚ましたのは七時を少し過ぎた頃だった。
ホテルのカーテンを開けると、岡山の街はよく晴れていた。道路を挟んだ向かいのビルに朝日が当たり、窓ガラスが白く光っている。東京より空が広い気がしたが、建物の高さが違うだけかもしれなかった。
スマートフォンには、昨夜直人から届いたメッセージが残っていた。
『榊原さんは十一時頃に来られるそうです。よろしければ、その時間に合わせてお越しください』
湊は短く返信し、母の番号を開いた。
呼び出し音は鳴らなかった。いつもと同じ案内が流れたところで切る。
隣のベッドでは、ナギが布団を肩までかぶって眠っていた。
「ナギ、起きて。朝ごはん行こう」
「……何時?」
「七時半になる」
「まだ夜じゃない?」
「外、見てみなよ」
ナギは薄く目を開け、カーテンの隙間から差し込む光を見た。
「まぶしい」
そう言って、また布団をかぶった。
結局、二人がホテルを出たのは八時半近くだった。
駅前の喫茶店で朝食を取り、路面電車の走る通りを少し歩いた。ナギは昨夜から、岡山の電車には線路が道路の真ん中にあることを面白がっていた。東京にもあると湊が教えると、一度見てみたいと言った。
喫茶店で、湊は昨日撮影した手帳の写真を見返していた。
三月と四月の《芦倉》には取り消し線が引かれている。五月には《交代》とあり、その横に母の名前が書かれていた。
しかし、それ以降の記録にも正臣の芦倉訪問は続いていた。
怪我が治れば、また通うようになったのだろう。
だとすれば、交代とは何だったのか。
湊は写真を拡大した。母の名前だけが薄い鉛筆で書かれている。正臣の字とは違うように見えるが、確かなことは分からない。
「ずっとそれ見てるね」
ナギがトーストの最後の一口を食べながら言った。
「気になるから」
「昨日も見てた」
「そうだね」
「見てたら分かる?」
「今のところは分からない」
「じゃあ、今日は違う人に聞こう」
湊は顔を上げた。
「榊原さん?」
「うん。知ってるかもしれないんでしょ」
その通りだった。
湊はスマートフォンを伏せ、冷めかけたコーヒーを飲んだ。
*
直人の家に着いたのは十時四十分だった。
昨日と同じ紺色の車が門の内側に停まっていた。直人は玄関先に出ていて、二人を見ると手を上げた。
「おはようございます。道は分かりましたか」
「はい。昨日送っていただいた場所で降りました」
「それならよかった。榊原さんはまだですから、どうぞ中へ」
家に入ると、昨日見た写真や手帳が、居間の大きなテーブルに移されていた。
「朝から少し整理していたんです。父のものですから、私も一度ちゃんと見ておこうと思いまして」
直人はそう言って、茶色い封筒を手に取った。
「昨夜、母にも電話してみました。父が骨折した頃のことを覚えていないかと思って」
「何か分かりました?」
「ええ。母の記憶では、父が怪我をしたのは三月の初めだったそうです。芦倉へ行こうとして止められたのは四月。母はずいぶん怒ったそうですよ」
直人は苦笑した。
「『どうしてそこまでして行かなきゃならないの』と聞いたら、父は『待ってる人がいる』と言ったそうです」
「待ってる人……」
「母も、誰のことかは分からなかったそうです。昔の友人だろうと思っていたみたいで」
湊は昨日の写真を思い出した。
正臣は芦倉の人々と親しそうに写っていた。待っている人がいたとしても、不思議ではない。
「母は、その人に会ったことがあるんでしょうか」
「それも聞いてみましたが、覚えていないそうです。ただ、父は芦倉へ行く時、よく古い写真を持っていったらしいんです」
「写真を?」
「ええ。アルバムから何枚か抜いて、封筒に入れて。帰ってくると元に戻していたそうです」
湊はテーブルの上に並んだアルバムを見た。
写真を持っていく理由はいくつも考えられる。昔の友人に見せるためだったのかもしれない。
それでも、気になる話だった。
十一時を少し過ぎた頃、玄関の呼び鈴が鳴った。
直人が立ち上がる。
「来られたようですね」
*
榊原遼は、想像していたより若い男だった。
三十代半ばくらいだろうか。背は湊より少し高く、濃いグレーのシャツに黒いパンツを合わせている。髪は短く整えられ、手には小さな紙袋を持っていた。
「お久しぶりです、久世さん。今日はお時間をいただいてありがとうございます」
落ち着いた声だった。
「こちらこそ。遠いところを」
「いえ、ちょうどこちらへ来る用事もありましたので」
榊原は紙袋を差し出した。
「母からです。以前、お父様にお世話になったので」
「これはご丁寧に。お気遣いなくと言ったのに」
「そう伝えたんですが、聞かなくて」
榊原は少し笑った。
そのやり取りには、初対面の相手同士のぎこちなさがなかった。
直人が湊たちを紹介すると、榊原は二人に向き直った。
「榊原です。よろしくお願いします」
「高瀬湊です。こちらはナギ」
「こんにちは」
榊原は軽く頭を下げ、それから湊をもう一度見た。
「高瀬さん?」
「はい」
「失礼ですが、お母様は千景さんですか」
湊は驚いた。
「そうです。ご存じなんですか」
「ええ。昔、何度かお会いしています」
「母が今どこにいるか、知りませんか」
榊原の表情がわずかに変わった。
「今、ですか」
「一週間ほど前から連絡が取れなくなっていて。警察にも相談しています」
「……そうでしたか」
榊原はしばらく黙った。
「申し訳ありません。今どこにいらっしゃるかは、分かりません」
湊は落胆したが、榊原の声には何か引っかかるものがあった。
「最近、会われましたか」
「直接お会いしたのは、去年が最後です」
「どこで?」
「大阪です」
榊原はそこで一度、直人を見た。
「その話も、後でしましょう。まずは久世さんにお願いしていたものを確認させていただいてもいいですか」
湊は続きを聞きたかったが、ここは直人の家だった。榊原は湊に会うために来たわけではない。
直人がアルバムを引き寄せた。
「もちろんです。父の写真は、だいたいこちらにまとめました」
榊原は椅子に座り、丁寧にページをめくり始めた。
*
榊原は、写真を見るのが速かった。
ぱらぱらと流すわけではない。一枚ごとに目を止め、必要なものだけを確かめているようだった。
祭りの写真、川沿いの道、雪の積もった家並み。
時折、直人に撮影年を尋ねた。
「これは平成十年頃ですね。父の髪がまだ黒いので」
「そうですか。ありがとうございます」
榊原は小さな手帳に年を書き込んだ。
ナギは向かい側の椅子に座り、榊原の手元を眺めていた。
「何を探してるの?」
唐突な質問だった。
榊原は顔を上げた。
「家の写真だよ」
「どんな家?」
「古い家。二階建てで、屋根が少し大きい」
「色は?」
「壁は白かったと思う。でも、ずいぶん前のことだから」
「そこに住んでたの?」
「僕は住んでない。祖母が住んでいたんだ」
ナギはうなずいた。
「おばあちゃんの家なんだ」
「そう」
榊原は少しだけ笑った。
「もう、ずいぶん昔の話だけどね」
湊はその会話を聞きながら、榊原の横顔を見ていた。
母を知っている。
芦倉にも行ったことがある。
祖母がそこに住んでいた。
それだけなら、母の昔の知り合いとして不思議はない。
しかし、榊原は芦倉が消えたことを知っているのだろうか。
「榊原さん」
「はい」
「芦倉が今、どうなっているかはご存じですか」
榊原の手が止まった。
「どうなっている、というのは?」
「地図から消えているんです。実際に行こうとしても、たどり着けない。昔の記録も見つからなくなっていて」
直人が心配そうに湊を見た。
昨日、湊から同じ話を聞いた時のことを思い出したのだろう。
榊原はしばらく何も言わなかった。
やがて、開いていたアルバムを閉じた。
「知っています」
湊は息を止めた。
「いつから?」
「はっきり確認したのは、数日前です」
「確認?」
「芦倉へ行こうとしたんです。行けませんでした」
「どうして行こうと?」
「確かめたいことがあったからです」
榊原は答えたが、それ以上は話さなかった。
湊は身を乗り出した。
「母も同じことを調べていたんです。榊原さんは何か知ってるんじゃないですか」
「知っていることはあります」
「だったら――」
「ただ、僕が知っていることが、あなたのお母様の失踪と関係しているかは分かりません」
榊原の口調は穏やかだった。
「今ここで、確かでない話をするのは避けたいんです」
湊は言葉に詰まった。
正しいことを言われているようにも思えた。
けれど、母の行方を知るために岡山まで来たのだ。目の前に手がかりを持っている人間がいるのに、黙っていられなかった。
「確かじゃなくても、聞きたいです」
榊原は湊を見た。
「そうでしょうね」
その言い方には、同情とも理解ともつかない響きがあった。
「僕も、昔はそう思っていました」
*
昼前になって、榊原は一冊の薄いアルバムを見つけた。
ほかのものより小さく、表紙には何も書かれていない。
開くと、芦倉の家々を撮った写真が並んでいた。人物はほとんど写っていない。家の正面や庭、門の周りを、同じような距離から撮影している。
「これです」
榊原が言った。
声が少しだけ低くなっていた。
「探していたのは、これです」
直人が覗き込む。
「こんなアルバムもあったんですね。父が撮ったんでしょうか」
「おそらく」
榊原は一枚の写真を指した。
白い壁の二階建ての家だった。屋根は深く、玄関の横に小さな木が植えられている。
「これが祖母の家です」
湊も写真を見た。
知らない家だった。
けれど、その隣に写る細い道には見覚えがあるような気がした。
「今もあるんですか」
榊原は答えるまでに少し時間を置いた。
「少なくとも、十六年前にはありました」
そして写真をもう一度見た。
「祖母は、ここへ帰りたがっていたんです」
ナギが尋ねた。
「帰れたの?」
榊原は首を横に振った。
「帰れなかった」
「どうして?」
榊原はナギを見た。
その顔から、先ほどまでの柔らかい表情が消えていた。
「帰る場所が、分からなくなったから」
部屋が静かになった。
湊は写真を見つめた。
芦倉が消えたのは、つい最近のことだ。
しかし、榊原の祖母は十六年前に帰る場所を失っていた。
「それって……母と関係があるんですか」
榊原は写真から目を離さなかった。
「あります」
短い返事だった。
「千景さんは、あの時、祖母の家に来ました」
湊は何も言えなかった。
榊原はアルバムを閉じ、直人に向き直った。
「久世さん。お願いしていた件なんですが、このアルバムを、しばらくお借りできませんか」
「これを?」
「はい。父が探していた写真と照らし合わせたいんです。もちろん、必ずお返しします」
直人はすぐには答えなかった。
「父が探していた写真?」
「祖母が持っていたものです。父の遺品を整理していて、最近見つかったんです」
「なるほど」
直人はアルバムに手を置いた。
「お貸しするのは構いませんが、私もまだ中身をよく見ていなくて。少し時間をいただけますか」
「もちろんです」
榊原はあっさり引き下がった。
「急ぎません。今日は確認できただけでも十分です」
湊は、そのやり取りを黙って聞いていた。
アルバムは直人の父親のものだ。誰に貸すかは直人が決めることで、湊に口を挟む権利はない。
それでも、母が十六年前に訪れた家が写っている。
その写真が、今ここからなくなることに抵抗があった。
「僕も、そのアルバムを見せてもらえませんか」
湊が言うと、直人はうなずいた。
「もちろんですよ」
榊原は何も言わなかった。
ただ、湊がアルバムを開くのを見ていた。
ページをめくると、同じ家が何度か写っていた。
春、夏、冬。
庭木の大きさや、窓の開き方が違う。
あるページで、湊の手が止まった。
白い家の前に、二人の人物が立っていた。
一人は久世正臣だった。
もう一人は若い女性で、腕に小さな子供を抱いている。
写真は少し色褪せていたが、女性の顔には見覚えがあった。
「……母さん?」
湊は写真を持ち上げた。
間違いない。
高瀬千景だった。
そして、腕に抱かれている子供は――。
「これ、僕だ」
直人が驚いたように身を乗り出した。
「そうなんですか」
「たぶん、五歳くらいです」
写真の裏には、日付が書かれていた。
十六年前の五月。
手帳に《交代》と記されていたのと、同じ月だった。
湊は榊原を見た。
榊原は驚いていなかった。
写真を見つめるその顔には、別の感情が浮かんでいた。
湊には、それが何なのか分からなかった。
「榊原さん」
「はい」
「この写真、見たことがありますか」
榊原はしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「あります」
湊は写真を握り直した。
「じゃあ、教えてください」
榊原は湊を見た。
「十六年前、ここで何があったんですか」
窓の外で、車が一台、砂利道を通り過ぎていった。
榊原はすぐには答えなかった。
その沈黙は、知らない人間のものではなかった。
知っていることを、どこから話すべきか考えている人間の沈黙だった。
やがて彼は、写真の中の千景を指した。
「まず、一つだけ訂正させてください」
「何を?」
「千景さんは、久世さんの代わりにあの家へ来たわけではありません」
榊原は続けた。
「少なくとも、僕が知っている事情は違います」
湊は息を呑んだ。
「じゃあ、何のために?」
榊原は、千景に抱かれた幼い湊を見た。
「それを知るには、あなたのお母様が、どうしてその日にあなたを連れてきたのかを考える必要があります」
湊はもう一度写真を見た。
母は笑っていた。
自分も笑っていた。
その頃の記憶は、ほとんど残っていない。
けれど、二人とも何も知らずに笑っているように見えた。
榊原はそれ以上、何も言わなかった。
湊は写真を机に置いた。
母が自分を連れて、あの家へ行った。
十六年前の五月。
そして、その月に《交代》があった。
これまで母の過去を調べているつもりだった。
けれど、写真の中には、自分もいた。
湊は初めて、十六年前の出来事が、自分自身にも関係しているのかもしれないと思った。
第21話「約束の品」了




