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交代

久世直人は、父親の手帳をもう一度手に取った。


 薄い表紙は角が丸くなり、ページの端にはところどころ茶色い染みがあった。何年も使われずにいたものだろう。直人は《交代》と書かれたページを開き、しばらく黙って眺めていた。


「十六年前か」


 独り言のように言って、窓の外を見た。


「その頃、父は一度、芦倉へ行けなくなったことがあるんです」


 湊は顔を上げた。


「何かあったんですか」


「怪我をしてね。脚を骨折したんです。仕事中じゃなくて、自宅の梯子から落ちて」


 直人は少し笑った。


「昔から、業者に頼めばいいようなことまで自分でやる人でした。母が何度注意しても聞かない。あの時も、雨樋を直そうとしていたんだったかな」


 そう言いながら、直人は手帳の前後をめくった。


 三月の予定には《芦倉》とある。斜めに二本の線が引かれていた。四月にも同じ文字があり、こちらも消されている。


 五月の欄には、《交代》。


 そして、そのすぐそばに《高瀬千景》と書かれていた。


「怪我をした時のことは、覚えているんですか」


「ええ。私はもう社会人でしたから、ずっと家にいたわけじゃありませんが。父はずいぶん苛立っていましたね。動けないのが嫌だったんでしょう」


「芦倉へ行けないことを?」


「それは分かりません。ただ、車を出そうとして母に止められたことがあったそうです。まだ松葉杖を使っていた頃ですよ」


 直人は呆れたように首を振った。


「そこまでして行きたい場所だったんでしょうね。何があったのか、今となっては聞けませんけど」


 湊は写真に写っていた正臣の顔を思い出した。祭りの人混みの中で、少し離れたところを見ていた男。母や祖父母と並んで笑っていた男。


 芦倉へ行くことが、そんなにも大切だったのだろうか。


「母が代わりに行った、ということは考えられませんか」


 直人は手帳を見下ろした。


「この書き方だと、そう読めますね。ただ、父の代わりに何をするのか」


 それは湊にも分からなかった。


 千景は芦倉の出身だった。祖父母が暮らしていた頃は、湊を連れて何度も帰省している。正臣が行けないなら、代わりに何かを届けることくらいはできただろう。


 けれど、それなら《代理》でも《千景さん》でもよかったはずだ。


 《交代》という言葉には、もう少し長い時間が含まれているように思えた。


「この字、違いますね」


 ナギが言った。


 彼女は湊の隣から手帳を覗き込んでいた。


「どれ?」


「千景って書いてあるところ」


 湊も見比べた。


 確かに、《交代》の文字は筆圧が強く、線の終わりが少し跳ねている。一方、母の名前は細い鉛筆で書かれていた。文字の大きさも違う。


「後から書き足したのかもしれない」


「誰が?」


「それは……」


 湊は答えられなかった。


 ナギはそれ以上何も言わず、手帳から目を離した。


 直人が立ち上がった。


「少し休憩しましょうか。お茶を淹れます。ずいぶん長く付き合わせてしまった」


「いえ、こちらこそ」


「まだ時間はありますよ。今日はこの家に来るつもりで予定を空けていましたから」


 直人が階段を下りていくと、二階は急に静かになった。


 窓の外には低い山が見えた。庭の隅には柿の木があり、まだ青い実をつけている。東京を出たのが今朝だということが、不思議なくらい遠く感じられた。


 ナギは本棚の前へ移動し、並んだ本の背を眺めていた。


「ねえ、湊」


「うん」


「この人、芦倉が好きだったんだね」


「正臣さん?」


「うん。何回も行ってる」


「そうだね」


「好きじゃなかったら、こんなに行かないと思う」


 湊は手帳を閉じかけて、もう一度開いた。


 正臣は一年に十一回も芦倉を訪れていた。仕事でもなかったという。岡山から富山まで、気軽に行ける距離ではない。


 そこまでして訪ねる理由があった。


 誰かに頼まれていたのかもしれない。果たさなければならない約束があったのかもしれない。


 けれど、ナギの言うことも、きっと正しい。


 正臣は芦倉が好きだったのだ。


 そうでなければ、何十年も通い続けることはできない。


「お父さんも、何か大切なものがあったのかな」


 ナギが言った。


 湊は答えなかった。


 正臣にとっての芦倉と、自分にとっての芦倉は、同じ場所だったのだろうか。


 自分が覚えているのは、夏休みの川の冷たさや、祖母が出してくれた麦茶、夕方になると聞こえてきた虫の声だった。


 正臣にも、湊の知らない芦倉があったはずだ。


 その場所は、もう地図に載っていない。


 階段の下から、食器の触れ合う音が聞こえた。


 やがて直人が盆を持って戻ってきた。湯呑みが三つと、小皿に載った菓子があった。


「何もなくて申し訳ない。父が好きだった煎餅がまだあったので」


 ナギが一枚取った。


「いただきます」


 ぱり、と小気味よい音がした。


「おいしい」


「よかった。父はこれをよく買ってきましてね。母に、また同じものかと言われていました」


 直人は笑った。


 湊も一枚口にした。醤油の香りが強く、少し硬い。


 直人は湯呑みを持ちながら、棚に並んだ写真を見た。


「父のことを、こんなに話したのは久しぶりです」


 声は穏やかだった。


「亡くなって三年になりますが、思い出すのはいつも晩年の姿ばかりで。こうして若い頃の写真を見ると、父にも私の知らない時間がずいぶんあったんだなと思います」


 湊は何も言わずに聞いていた。


「それに、妙な話ですが……あなたのお母さんが去年ここへ来られた時も、同じような気持ちになったんですよ」


「母が?」


「ええ。父の手帳を見ながら、懐かしそうにしていました。でも、何かを確かめたがっているようでもあった」


「何を聞かれたんですか」


「父が芦倉へ行けなくなった時期についてです。いつ頃だったか、どれくらい続いたか。そんなことを」


 湊は手帳に視線を落とした。


 千景は《交代》の意味を知っていたのだろうか。


 それとも、正臣が行けなかった時期を調べて、同じところへたどり着いたのだろうか。


「その時、母は何か言っていましたか」


 直人は少し考えた。


「父に迷惑をかけたことがある、と」


 湊は顔を上げた。


「迷惑?」


「詳しくは話されませんでした。私は、父が生前に何か手伝ったんだろうと思って、気にしないでくださいと言ったんです」


 直人は湯呑みを置いた。


「でも、今思うと、あの方は少し違うことを言いたかったのかもしれません」


「違うこと?」


「父に迷惑をかけたというより、父が引き受けていた何かを、自分が途中から引き受けた……そんな感じでしょうか。うまく説明できませんが」


 湊は黙った。


 母は去年、この家に来ていた。


 そして、父親の友人が残した手帳を見ていた。


 十六年前の出来事を調べ直していた。


 その母が、今はどこにもいない。


「手帳の写真を撮ってもいいですか」


 湊が尋ねると、直人はうなずいた。


「もちろん。必要なところは全部撮ってください」


 湊はスマートフォンを取り出し、最初のページから順に撮影した。ナギが横からページを押さえてくれた。


 写真を撮り終えた頃、直人が別の箱を持ってきた。


「そういえば、これも見ていただいた方がいいかもしれません」


 箱の中には、年賀状や封筒、古い名刺が入っていた。


「父の知り合いから、先週連絡がありましてね」


「知り合い?」


「父が昔、芦倉で世話になった人だそうです。亡くなったことは知っていたんですが、最近になって、父が残した写真や書類を確認したいと言ってきたんです」


 湊は手を止めた。


「その人も、芦倉に?」


「ええ。昔はよく行っていたそうです」


「名前は?」


「榊原さんです。榊原遼さん」


 直人は携帯電話を取り出し、予定を確認した。


「実は、明日こちらへ来られることになっているんですよ」


 ナギが煎餅を持ったまま、直人を見た。


「明日?」


「ええ。父の古い写真を見たいそうで。ずいぶん前から調べていることがあるらしいんです」


 湊は、開いたままの手帳に目を落とした。


 十六年前の《交代》。


 母の名前。


 そして、同じ記録を探している別の人物。


 これまで母の足跡を追っているのは、自分だけだと思っていた。


 けれど、そうではなかった。


 芦倉が消える前から、あの村について調べ続けていた人間がいる。


「榊原さんは、何を調べているんですか」


 直人は首を傾げた。


「詳しいことは聞いていません。ただ、一つだけ、妙なことを言っていました」


「何ですか」


「父の写真の中に、どうしても確かめたい家があるそうです」


 湊は顔を上げた。


「家?」


「ええ。昔、芦倉にあった家だそうです」


 直人は少し困ったように笑った。


「家の写真なんて、どれも似たようなものですからね。見つかるかどうか分かりませんが」


 湊はもう一度、正臣の写真を見た。


 祭りの写真。川沿いの道。春先の雪。


 どれも見覚えのある風景だった。


 しかし、そこに写っている家を、一軒ずつ確かめたことはなかった。


 ナギが静かに言った。


「その人、家を探してるんだ」


 湊はうなずいた。


 母を探している自分とは違う。


 けれど、何かが似ている気がした。


 もう地図にない場所に、今も残っているはずの何かを探している。


 窓の外では、夕方の光が少しずつ山の向こうへ傾いていた。


 明日、榊原遼という男がこの家へ来る。


 湊はまだ、その男が自分たちの旅に何をもたらすのか知らなかった。


 ただ、母のことを知っているかもしれない人間が、もう一人現れた。


 それだけで、岡山へ来た意味が一つ増えたように思えた。

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