久世家
「母が、ここに来ていたんですか」
湊が聞き返すと、久世は運転しながらうなずいた。
「去年の十月だったと思います。突然電話があって、父の昔の物を見せてほしいって」
「何を調べていたんです?」
「詳しいことは聞かなかったですね。富山へ行っていたころの記録を探してる、とは言ってましたけど」
「芦倉のことは?」
「名前は出ましたよ。親父があそこへ通っていた理由を知りたいって」
湊は窓の外へ目を向けた。
母が芦倉のことを調べていた。しかも、自分が動き始めるよりずっと前から。
祖父母の家を訪ねるたび、母は昔の知り合いの話をしてくれた。だが、芦倉について何か問題を抱えているような素振りは見せなかった。
「母は何か見つけたんでしょうか」
「どうでしょう。写真を何枚か撮ってましたけど、何を探していたのかまでは」
湊は母の番号に電話をかけた。呼び出し音が続き、やがて留守番電話に切り替わる。何度も聞いた案内だった。
電話を切ると、後部座席からナギが身を乗り出した。
「千景さん、ここにいたんだ」
「去年だけどな」
「私たちより先」
「そうだな」
ナギは何か考えているようだったが、それ以上は言わなかった。
車は大きな道路を離れ、住宅の間を抜けていった。しばらくすると家の数が減り、畑や用水路が目につくようになった。
「この辺です」
久世が細い道へ曲がった。
古い瓦屋根の家が並ぶ一角に、久世家はあった。二階建ての母屋の横に小さな物置があり、庭には手入れされた植木が並んでいる。
「今は誰も住んでないんですけど、時々来て風を通してます」
久世は門を開け、玄関へ向かった。
家の中には、使われなくなった家特有の静けさがあった。ただ、ほこりだらけというわけではない。廊下も居間も掃除されていて、いつでも誰かが戻ってこられそうだった。
「お茶くらいしか出せませんけど」
「十分です。ありがとうございます」
久世は台所へ向かい、湊とナギは居間で待った。
壁には家族写真が飾られている。若いころの正臣らしい男が、妻と子供二人の隣に立っていた。
ナギは棚の上の置物を見ていた。
「これ何?」
「備前焼かな」
「何に使うの」
「飾るんじゃないか」
「使わないの?」
「そういうものもある」
ナギは納得したようなしないような顔で、置物を元に戻した。
久世がお茶を持って戻ってきた。
「親父の物は二階にまとめてあります。先に写真を見ますか」
「お願いします」
二階の一室には、本棚と机、それに段ボール箱がいくつも置かれていた。久世が箱から取り出したアルバムには、家族旅行や運動会の写真に混じって、芦倉の風景が何度も現れた。
祭りの会場で笑う正臣、川辺で遊ぶ子供たち、雪の残る山道。季節も年代も違う写真に、同じ顔ぶれが繰り返し写っている。
湊は母の姿を見つけた。今より若い千景が祖父母と並び、その隣には正臣と数人の大人が立っている。
「この人たち、分かりますか」
久世が写真をのぞき込んだ。
「親父と千景さんは分かります。こっちの人は大阪の人だったかな。長野から来てた人もいたはずです」
「芦倉に住んでたわけじゃないんですね」
「ええ。俺たちみたいに外から来てた人も結構いましたから」
湊は別の写真を手に取った。祭りの準備をする大人たちの中にも、同じ顔がある。
子供のころは、芦倉で会う大人はみんなあそこに住んでいると思っていた。だが、正臣のように遠くから通っていた人間が何人もいたのだ。
「親父の手帳もありますよ。何か書いてあるかもしれません」
久世が机の引き出しから古い手帳を出した。
正臣が仕事で使っていたものらしく、設備の点検予定や取引先の名前が細かな字で書かれている。その合間に《芦倉》という記載が何度も現れた。
湊は日付を追った。ある年には十一回も訪れている。
「ほとんど毎月ですね」
「そうですね。旅行にしては多いし、会社の仕事でもなかったんですよ」
「何をしてたんでしょう」
「それが、俺にも分からなくて」
久世は別の箱を引き寄せた。
「そういえば、千景さんが去年見てたのは、こっちかもしれません。帰られたあと、俺がまとめておいたんです」
箱には古い書類や封筒、領収書が入っていた。その底から出てきた小さな手帳は、表紙の角が丸くなるほど使い込まれている。
開くと、日付と地名が並んでいた。
《芦倉》《岡山》《長野》。移動の記録らしい。
湊はページをめくり、途中で指を止めた。
ある日付の横に、《交代》と書かれていた。その下には《芦倉》の文字がある。
「久世さん、これ何か分かりますか」
「交代? 仕事の当番か何かじゃないですか」
そうかもしれない。だが、そのページにはもう一つ、鉛筆で書き足された名前があった。
《高瀬千景》
「母の名前です」
久世が身を寄せた。
「本当だ。親父が書いたんですかね」
湊はほかのページと見比べた。正臣の文字は小さく角張っているが、この名前だけは筆圧も字の形も違う。誰かがあとから書き加えたようだった。
日付は十六年前。湊が五歳だったころだ。
「交代って、何のことだろう」
隣から手帳をのぞいたナギが、名前の部分を指した。
「ここ、変」
「何が?」
「この名前、ここに書く名前じゃない気がする」
「どうして?」
ナギは答えられなかった。
湊は手帳を見つめた。
《交代》
《高瀬千景》
十六年前、芦倉で何かの交代があり、そこに母の名前が書き加えられていた。




