岡山へ
土曜日の朝、湊とナギは東京駅にいた。
新幹線の発車までは二十分ほどある。湊が改札内の売店で飲み物を選んでいる間に、ナギの姿が見えなくなった。
またか、と思ったが、今回はすぐに見つかった。駅弁の売り場で、棚を端から順番に眺めていた。
「何してる」
「選んでる」
「買うなら早くしろよ」
「多すぎる」
ナギは幕の内弁当と牛肉弁当を交互に見たあと、なぜか三つ目の弁当を手に取った。
「それにするのか?」
「うん」
「最初の二つは?」
「迷ってた」
「そういうもんか」
湊も弁当を買い、ホームへ上がった。ナギは入ってきた新幹線を見て、思ったより長い、と言った。
指定席に座ると、さっそく弁当を開けようとする。
「まだ発車してないぞ」
「駄目?」
「駄目じゃないけど」
ナギはふたを開けた。
湊も諦めて自分の弁当を取り出した。窓の外では乗客が足早に歩き、清掃を終えた係員たちが車両の横に並んでいる。
やがて新幹線が動き出した。
ナギは箸を止めて窓の外を見た。
「速い」
「まだ全然速くないぞ」
品川を過ぎ、街並みが流れる速度が上がるころには、ナギは弁当を食べ終えていた。
「足りない」
「さっき迷ってたやつ、もう一個買えばよかったな」
「そうする」
「帰りの話な」
ナギは持ってきた文庫本を開いた。神保町で買った本だった。ページの端に指を添え、時々窓の外を見ながら読み進めている。
湊は久世直人との電話を思い返した。
正臣は岡山に住んでいた。何度も芦倉へ通っていた。ほかにも大阪や長野から来ていた人がいたらしい。
母のメモには《今年もみんな集まった》と書かれていた。
芦倉は、そこに暮らす人間だけの場所ではなかった。
だが、なぜ集まっていたのか。
祭りのためなら、遠方から来る人間がいても不思議ではない。それでも正臣は、雪の残る季節にも訪れている。年に何度も仕事を休んでまで行く理由が、単なる付き合いだったとは思えなかった。
「湊」
ナギが本から顔を上げた。
「何」
「京都って、もう着く?」
「まだだいぶ先」
「そっか」
「行ったことあるのか」
「分からない」
ナギはまた本を開いた。
その答えにも、少し慣れてきた。
名古屋を過ぎたあたりでナギは眠った。文庫本が膝から滑り落ちそうになったので、湊が拾って座席のポケットに入れる。
京都駅に着く直前、ナギが目を覚ました。
「ここ」
窓の外にはホームが見えていた。
「京都だけど」
「知ってる」
「駅を?」
ナギは窓の外を見つめた。
「人が多い」
「そりゃ京都駅だからな」
「違う。もっと暗い」
湊は続きを待ったが、ナギは首を振った。
「もう分からない」
京都駅を出ると、ナギは再び眠った。
湊は窓の外に目を向けた。ナギが何かを思い出す時、それが本人の経験なのか、別の誰かの記憶なのか、今のところ区別する方法はない。
ただ、芦倉に関係する場所だけで起きるわけではないらしい。
岡山駅に着いたのは昼前だった。
改札を出ると、東京より少し暖かく感じた。駅前には路面電車が走り、広い道路を車が行き交っている。
「電車が道路にいる」
ナギが言った。
「路面電車だよ」
「車は困らない?」
「一緒に走るんだよ」
「大変そう」
湊は久世との待ち合わせまで時間があることを確認した。
「ちょっと休むか」
駅前の喫茶店に入った。
ナギはメニューを開き、しばらく眺めてからコーヒーを注文した。
「飲めるのか?」
「匂いが好き」
運ばれてきたコーヒーを一口飲むと、ナギは顔をしかめた。
「苦い」
「そりゃそうだろ」
「匂いと違う」
湊が砂糖とミルクを勧めると、ナギは両方入れた。かき混ぜてからもう一口飲み、今度は納得したようにうなずいた。
「おいしい」
「最初からカフェオレにすればよかったな」
「でも、これがよかった」
湊は自分のコーヒーを飲みながら、久世に到着したことを連絡した。
返事はすぐに来た。
《十二時半ごろ、駅の西口に着きます》
まだ三十分ほどある。
湊はスマートフォンで久世家の周辺を調べた。岡山駅から車で四十分ほど。住宅地を抜けた先に田畑が広がる地域らしい。
ナギがカップを置いた。
「久世さんって、どんな人?」
「電話でしか話してないからな」
「怖い人?」
「普通の人だったよ」
「普通って?」
湊は少し考えた。
「少なくとも、知らない人間から電話が来て、父親の昔の写真を見せてくれるくらいには親切な人」
「それは親切」
「そうだな」
ナギは窓の外を見た。
「岡山の人も、芦倉に行ってたんだね」
「そうらしい」
「遠いのに」
「遠いから、理由があったんだろうな」
待ち合わせの時間が近づき、二人は店を出た。
西口のロータリーでしばらく待っていると、紺色の乗用車が停車した。運転席から降りてきた男が、こちらへ手を上げる。
「高瀬さんですか」
「はい。久世さん?」
「直人です。遠いところ、わざわざありがとうございます」
電話で聞いた通りの、落ち着いた声だった。
久世は五十歳前後で、短く切った髪に少し白いものが混じっている。仕事帰りというわけではなさそうで、薄手の上着にジーンズという格好だった。
ナギが軽く頭を下げる。
「ナギです」
「どうも。お二人で来られたんですね」
「はい。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。父の物が役に立つならいいんですけど」
荷物を後部座席に積み、湊は助手席に座った。
車は駅前を離れ、住宅街を抜けていく。
久世は道中、父親のことを話してくれた。
正臣は仕事熱心な人間だったが、休みを取る時は急に決めることが多かったという。家族旅行にはあまり行かなかった一方、富山へは何度も出かけていた。
「俺も何回か連れていってもらいましたけど、子供には退屈なところでしたね。川で遊ぶくらいしかすることがなくて」
「俺は好きでしたよ」
「地元みたいなものですもんね」
「祖父母がいましたから」
久世は懐かしそうにうなずいた。
「おじいさん、元気な人でしたよね。俺が川で靴を流した時、軽トラで下流まで探しに行ってくれたんですよ」
湊は思わず笑った。
祖父ならやりそうなことだった。
「結局、見つかったんですか」
「見つかりました。片方だけ」
「じゃあ意味ないですね」
「親父にも同じこと言われました」
車内に少し笑いが起きた。
その後も久世は、覚えている範囲で芦倉の話をしてくれた。祭りの日には普段見かけない大人が大勢来ていたこと。正臣が何人かと長い時間話し込んでいたこと。帰りにはいつも、祖父母から野菜や漬物を持たされていたこと。
湊にとっては、どれも懐かしい話だった。
同時に、知らなかった芦倉の姿でもあった。
「そういえば」
久世が信号で車を止めた。
「高瀬さんのお母さんって、千景さんですよね」
「はい」
「今はお元気ですか」
湊は答えるまでに少し間が空いた。
「実は、今、連絡が取れなくなっていて」
「え?」
「警察にも相談してるんですが、まだ見つかっていません」
久世は驚いた様子で湊を見た。
「それは……いつからですか」
「一週間近くになります」
信号が青に変わった。
久世は車を出したが、しばらく黙っていた。
やがて、思い出したように言った。
「そうですか。じゃあ、あれから何かあったんですかね」
湊は顔を向けた。
「あれから?」
「いや、去年の秋にね」
久世は前を見たまま続けた。
「千景さん、うちに来られたんですよ」
湊は聞き間違えたのかと思った。
「母が?」
「ええ。父のことで聞きたいことがあるって。今日の高瀬さんみたいに」
車は住宅街を抜け、田畑の広がる道へ出た。
「去年の秋、ですか」
「そうです」
湊は母から、岡山へ行ったという話を一度も聞いていなかった。
久世は何気ない調子で付け加えた。
「写真も何枚か撮って帰られましたよ。親父の昔の物を見ながら」
湊は膝の上のスマートフォンを握り直した。
母は、自分より先にここへ来ていた。




