芦倉に住んでいない人
『俺も子供のころ、何度か行ってますから』
湊はスマートフォンを耳に当てたまま、テーブルに並べた写真を見た。
「芦倉に、ですか」
『そうです。富山の山の方でしょう』
場所まで合っている。単に同じ名前の土地を知っているわけではなさそうだった。
「久世正臣さんも、そこへ?」
『父に連れて行かれたんです。高瀬さんって、もしかしてあそこの高瀬さんですか』
「祖父母が住んでいました」
『ああ、それなら知ってますよ。坂を上がったところの、大きな家じゃなかったですか』
湊は祖父母の家が写った写真を手元に引き寄せた。
「そうです」
『やっぱり。おじいさん、軽トラに乗ってたでしょう。俺も一度乗せてもらったことがあります』
祖父の軽トラックまで知っている。湊は写真に目を落とした。あの家も、あの道も、祖父も、確かにそこにあった。電話の向こうにいる男は、それを湊とは別の記憶として持っている。
「今、芦倉がどうなっているか知っていますか」
『どうなってるって?』
「見つからないんです」
久世は意味が分からなかったらしく、聞き返してきた。
湊は地図にも載っておらず、役所で調べても記録が見つからなかったことを簡単に説明した。久世は途中で何度か驚いた声を出したが、最後まで聞くと、まず道を間違えたのではないかと言った。
「俺もそう思って、調べたんです」
『でも、家もあったし、人もいたでしょう』
「いました」
『じゃあ、なくなるわけないじゃないですか』
湊もそう思っていた。
「正臣さんは、芦倉に住んでいたんですか」
『まさか。ずっと岡山ですよ。俺が生まれる前から』
返事はあっさりしていた。
「どのくらいの頻度で芦倉へ行っていたか、分かりますか」
『そこまでは。年に何回かだったと思いますけど』
「何をしに?」
『それが、よく知らないんですよ』
久世によると、父の正臣は岡山で設備関係の仕事をしていた。富山へ行く時には仕事の出張だと思っていたが、あとになって会社の仕事ではなかったと知ったという。
『子供のころは、親父について行っても外で遊んでばっかりでしたからね。大人が何してたかなんて、気にしたこともなかったです』
「他にも、外から来ている人はいましたか」
『いたと思いますよ。大阪の人とか、長野の人とか。親父がそんな話をしてた気がします』
湊は祭りの集合写真を見た。
祖父母の隣にいる男。屋台の前で話している女たち。川辺で子供を抱き上げている老人。
誰がどの家に住んでいたのか、説明できない。
子供のころは、芦倉で会う人間をみんな芦倉の人だと思っていた。祭りの日にしか会わない人も、祖父母と親しそうに話しているだけで、そこに住んでいるものだと思っていた。
「正臣さんに、直接話を聞くことはできますか」
電話の向こうで少し間があった。
『父は三年前に亡くなってます』
「……そうでしたか。すみません」
『いえ、病気だったんで。年も年でしたし』
湊は写真の中の正臣を見た。若いころの写真もあれば、白髪が増えたころの写真もある。自分が会っていた大人たちも、もう随分と年を取っているはずだった。
『ただ、親父の物ならまだ結構ありますよ』
「残っているんですか」
『実家を片づけきれてなくて。写真なんかも、たぶんそのままです』
湊は思わず身を乗り出した。
「芦倉の写真も?」
『あると思います。親父、写真撮るの好きだったんで』
「見せてもらうことはできますか」
『ええ、別に構いませんけど。高瀬さん、今どちらに?』
「東京です」
『東京? 遠いですよ』
「行きます」
久世が黙った。
『……本気ですか』
「はい」
少し考えたあと、久世は週末なら実家を開けられると言った。湊は住所と待ち合わせ場所を聞き、礼を言って電話を切った。
ナギがすぐに顔を上げた。
「岡山行く?」
「行く。週末だ」
「新幹線?」
「たぶんな」
「乗ったことない」
「俺もそんなに乗らないよ」
ナギは立ち上がり、部屋の隅に置いていた文庫本とマルを取りに行った。両方を持って戻ってくると、テーブルの上に並べた。
「何してる」
「準備」
「まだ何日かあるぞ」
ナギは少し考え、マルだけポケットにしまった。
湊はパソコンで岡山までの交通手段を調べた。東京から新幹線で三時間あまり。久世の実家は岡山駅からさらに離れているが、本人が車を出してくれるという。
宿泊先も探し始めたところで、ナギが写真を持ってきた。
「この人も、岡山?」
久世正臣の隣にいる女を指している。
「分からん。奥さんかもしれないし」
「違うと思う」
「なんで」
「この人、海の近く」
湊は画面から顔を上げた。
「海?」
ナギは写真を見つめたまま、何かを思い出そうとしているようだった。
「船がある」
「船に乗ってたのか?」
「分からない。でも、魚の匂いがする」
湊は写真を受け取った。女は芦倉の祭りで、ほかの大人たちと並んでいる。背景にあるのは山と家だけで、海を思わせるものは何もない。
「この人を知ってるのか」
「知らない」
「じゃあ、なんで海だと思うんだ」
ナギはしばらく考えたが、結局首を振った。
「分からない」
湊は写真を机に戻した。ナギの言葉を確かめる手段は、今のところない。
それでも、久世正臣が岡山から通っていたことは確かだった。ほかにも外から来ていた人間がいる。久世の記憶が正しければ、大阪や長野からも。
湊は集合写真をもう一度見た。
二十人以上が写っている。子供のころから知っている顔ばかりなのに、どこに住んでいたか分からない人間が多い。
祖父母の家は覚えている。祭りの会場も、川へ下りる道も覚えている。
だが、久世正臣の家は思い出せない。
それは当然だった。
最初から、芦倉にはなかったのだから。
湊は写真の裏を確かめた。日付と、母が書いたらしい短いメモがある。
《今年もみんな集まった》
湊はその一文を、もう一度読んだ。
芦倉の人たちが集まったのではない。
芦倉に、みんなが集まったのだ。




