本人確認不要の札は、聖女の呼び鈴と水を省略できません
聖女院の面会廊下で、冷めた薬湯盆が二つ、扉の前の床石に置かれていた。
一つは縁に白い膜が張り、もう一つは椀の底だけが茶色く乾いている。水杯は空だった。誰かが飲んだ空ではない。最初から扉の内側へ入れられなかった空だった。
下働きの少女が盆を抱え直し、小さく頭を下げた。
「昨日も戻しました。本人確認不要の札が出ている日は、薬湯も水も中へ置けません。祈祷中だから、確認はいらないと」
面会係が慌てて言った。
「聖女様の静養を守るためです。本人確認不要は、負担を減らす措置で――」
「いいえ」
リディアは空の水杯を、未開封封筒の横に並べた。
「これは負担を減らした記録ではありません。誰が飲めたか、誰が薬を受け取れたか、誰が呼べたかを確認しないための札です」
ミナが、前回エルミアの空席の横に置いた青札を指で押さえる。自分の未読欄を守られた時と同じ震えが、まだ残っていた。
「本人が読めないなら、せめて水は本人の手が届く場所へ置けますか」
下働きの少女が思わず顔を上げた。彼女の手には、何度も戻された盆の縁でできた細い赤い跡がある。
リディアは町側証人印の隣へ、新しい欄を引いた。
『半刻生活確認欄。水・薬湯・呼び鈴・同席者要求を、本人到達前に辞退へ転記しないこと』
「あなたの名で、戻した回数を書けますか。罰ではなく、到達していない事実として」
少女は唇を噛み、それから筆を取った。
――薬湯二回、水一回、扉前で返戻。下働きリナ。
面会係がその行を消そうとした瞬間、ロウが呼び鈴の紐を持ち上げた。前回低く結び直した青い布は、扉の外側で揺れているだけだった。紐の先は、まだ扉の内側へ通っていない。
「鳴らせる位置にある、では足りません」
リディアは扉枠の小さな滑車を指した。
「本人の手が届く場所まで通って、本人が鳴らせるか確認して、初めて呼び鈴です」
ユアンが面会係立会いのもと、紐を扉下の細い通し穴へ送った。マルクは未開封封筒を開けずに保全袋へ戻し、水杯と薬湯盆だけを細い棚へ移す。
棚には、リディアが青字で札を置いた。
『本人到達確認待ち。水一杯、薬湯一椀。読了ではなく生活確認』
「中で受け取られたら、読了になりますか」
面会係の声は弱くなっていた。
「なりません。水を飲むことは、書類を読んだことではありません」
リディアが答えると、ミナが続けた。
「薬を受け取ることも、同意したことではありません。私の欄も、そう守ってもらいました」
その時、扉の内側で、ちり、と小さな金具の音がした。
廊下の全員が息を止める。
高くも強くもない。けれど、青い布を結んだ呼び鈴が、扉の内側から一度だけ鳴った。
下働きのリナが、泣きそうな顔で自分の行の下に書き足す。
――本日、本人側より一回鳴動。水・薬湯、到達確認待ち。
リディアはその文字を乾かすまで、誰にも盆へ触れさせなかった。
「これで、本人確認不要とは書けません」
だがマルクが記録盤を灯へ寄せた途端、廊下の冷たさが一段増した。
昨日の日付の欄に、すでに細い朱文字が浮いていた。
『応答済。本人確認不要により処理』
呼び鈴が初めて鳴ったのは、いまなのに。




