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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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声補完許可は、本人の喉薬より先に署名を作れません

旧翻訳局の封鎖扉前に置いた低い筆写台は、夜明け前の石床の冷たさをまだ吸っていた。


ミナはその前で、声を出そうとして一度だけ喉を押さえた。


「……っ」


音にならなかった息が、声待ち灯の小さな火を揺らす。ユアンが反射的に水差しを寄せかけたところで、王太子府婚約契約管理室の使いが角印つきの短冊を差し出した。


「第三署名写しについて、声補完許可が下りました。本人確認は不要です。補完済みの声として、閉鎖ログ裏面に綴じてください」


短冊には、朱の角印があった。だがその下は、きれいすぎるほど空いていた。


誰の喉で読むのか。誰が同席するのか。読めない時に拒める余白はどこか。薬を先に渡す係は誰か。


リディアは短冊を受け取らず、筆写台の上に置かせた。


「声補完許可は、署名を作る許可ではありません」


使いの眉が寄る。


「上位許可です。声が足りない場合、管理室が補完できます」


「では、補完された声はどの喉を通りましたか」


リディアは、ミナの前の白紙を指した。


「本人の喉が痛む時、先に必要なのは署名ではなく喉薬です。水、薬、同席者、拒否余白。これらが生活影響明細にない許可は、まだ発令されていません」


ロウが声待ち灯を、短冊の端ではなく白紙の左上へ移した。証拠を照らす火ではなく、本人が読まない選択を見えるようにする火だった。


マルクは閉鎖ログ裏面の写しを綴じ紐へ戻さず、ミナの白紙の下敷きにした。


ユアンは封鎖扉前の椅子を一脚だけでなく二脚に増やした。片方にはミナが座り、もう片方にはまだ来ていない聖女エルミアの名札を置く。


「候補者は、立ったまま読了済みにされない。来ていない人の席も、犯人欄にしない」


ユアンの声は低かった。


ミナは喉薬の小瓶を受け取り、少しだけ水を飲んだ。それから、声ではなく筆で白紙に書いた。


――今日は声を出さない。ミナ・リオル本人。


使いが一歩踏み出した。


「それでは確認が進みません」


「進めない確認を、進んだことにするための声補完なら、なおさら未発令です」


リディアは青い保留印を出した。無効印ではない。破棄もしない。誰がこの短冊を、誰の生活手順を動かすものとして出したのかを、あとで追える形に残すための印だった。


角印つき短冊の右下に、青く押す。


――生活影響明細未添付。喉薬・同席・拒否余白・証人資格未記載につき、声補完許可は未発令。


ミナがもう一行を書き足した。


――声を出さない日も、本人確認は私の名前で待ってください。


その文字を見て、使いの顔から事務的な硬さが少しだけ剥がれた。命令を持ってきた者にも、その行が読めたのだろう。


リディアは短冊番号を確認した。


声補完許可、第三七号。


同じ番号の薄い写しが、使いの持つ控え束に二枚挟まっている。片方はミナの候補者同意欄控え。もう片方は、まだ本人が来ていない聖女エルミア本人署名欄の控えだった。


「候補者全員の声を、先に補完するつもりですか」


リディアが問うと、封鎖扉前の声待ち灯が、二脚目の空席まで淡く照らした。


エルミアの名札は、まだ白いままだった。

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