第三署名の声は、閉じたログ裏で犯人欄になりません
ミナは、水差しに触れる前に、喉を押さえた。
「読んでいない欄は、声になりません」
封鎖扉の前に置いた低い椅子の横で、その声は小さく割れた。候補者控室で、読めない同意欄に署名させられかけた日の乾きが、まだ彼女の喉に残っているようだった。
そこへ、王太子府婚約契約管理室の使いが、薄い写しを一枚差し出した。
「第三署名の写しです。署名が確認できました。従って、未帰着札は犯人欄へ移し、扉前の待機灯を撤去してください」
ロウの手が灯油瓶を抱きしめる。ユアンは警備線を見た。昨日張った線は大人の胸ほどの高さにあり、疲れて戻った人が座る場所を、まるで立ったまま尋問する囲いに変えていた。
「線を下げます」
ユアンは杭を抜き、低い筆写台の高さに合わせて結び直した。
「ここは捕縛線ではありません。本人が座って、自分の声を置ける線です」
リディアは写しを受け取らなかった。まず、低い筆写台に白紙を一枚置く。次に、水差しをミナの手の届くところへ置いた。
「第三署名を、筆跡だけで読みません」
彼女は声に出して、欄を分けた。
「本人が文字を読めた時刻。声に出して読めた証人。質問できた余白。断ったとき帰れる道。署名とは、その四つが揃って初めて、本人の声に近づきます」
「しかし、写しには名があります」
「名があるだけなら、犯人欄へ貼る材料です。声ではありません」
マルクが、昨日扉前の小台に掛けた埃よけ布を外し、裏を見せた。布の端には古い校閲線が残っている。だが、その下に細い針目で、もう一つの印が縫い込まれていた。
『本人訂正札 声到達前に閉鎖不可』
「アデル先生の机布は、証拠隠しではありませんでした」
マルクは震えた指で、低い筆写台に布を掛け直した。
「戻った人が、立ったまま犯人にされないための布です」
ロウは捜索灯油を一本、証拠保全用の箱から抜いた。
「この油は、扉を照らすためだけじゃない。声を待つ灯にします。帰ってきた人が、水を飲んで、読んで、違うと言えるまで消しません」
ミナは水を一口だけ飲み、白紙の端へ自分の名を書いた。
『未読だった署名は、声ではない。本人が戻るまで、犯人欄へ貼らない』
候補者だった少女の字は小さかった。けれど、低い筆写台の上では、誰の命令文よりも読みやすかった。
リディアは第三署名の写しを、その白紙の下に置いた。上ではなく、下に。
「第三署名写し。分類を変更します。犯人欄ではなく、本人到達待ち。写しを持ってきた部署は、本人が読めた時刻、水を飲めた場所、断った後の帰路を添えてください」
使いの顔色が変わった。
「そんな欄は、管理室の標準表にありません」
「なら、標準表が声を閉じています」
リディアは青い保留印を、本人訂正札の横に押した。
『声待ち灯一つ、水差し一つ、低い筆写台一台、本人訂正札一枚。第三署名は、本人到達条件未完了として保全』
扉の前の灯が小さく揺れた。
その揺れに照らされて、マルクの持つ写しの裏面に、角ばった朱印が浮かんだ。
王太子府婚約契約管理室。
声補完許可。
押印時刻は、アデルが最後に校閲ログを読んだとされる時刻より、一分だけ早かった。




