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辞表を出した王宮翻訳官、翌朝から王国の契約魔法が全部止まりました  作者: 花守りつ


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応急復旧は、謝罪より先に

玉座の間で誰かが深く頭を下げた。


 それが第二王子なのか、宰相なのか、近衛隊長なのか、リディアには確かめる余裕がなかった。


 契約核の青白い光は、まだ床の古代文字を半分しか照らしていない。王国中の契約魔法は、相変わらず喉を詰まらせたように動きを止めている。


「リディア嬢」


 宰相が声を震わせた。


「まずは、王家として正式に――」

「謝罪は後です」


 リディアは広げた羊皮紙から目を上げずに言った。


 玉座の間が水を打ったように静まり返る。


「王都東区の薬房契約が止まっています。解毒薬の払い出しができない。南門の補給馬車は城壁外で待機。西水門の夜間調整契約も固まっています。今、ここで誰がどの順番で頭を下げるかを決めている間に、民は薬と水と食料を待っています」


「し、しかし王家の名誉が――」


 財務卿が言いかけた瞬間、契約核が低く鳴った。


 床の文字が一列だけ赤く変わる。


 リディアはその行を指で追った。


「『名誉を優先する署名は、救命条項に劣後する』。建国契約の第十二補則です。読めますか」


 誰も答えなかった。


 答えられないこと自体が、この王宮の病だった。


「読めないなら、私が読みます。まず救命。次に水利。次に補給。婚約、面子、宴席、聖女礼拝、王族用馬車の優先契約は最後です」


「王族用馬車まで最後だと?」


 第二王子エドガルドが、思わずというように声を上げた。


 リディアは初めて彼を見た。


「殿下。毒を飲んだ子どもより、殿下の馬車が先に動くべき理由を古代語で説明できますか」


 エドガルドの顔から血の気が引いた。


 以前なら、この沈黙にリディアの胸は痛んだかもしれない。彼の体面を守る言葉を探したかもしれない。


 けれど、もう違う。


 言葉は誰かの面子を覆う布ではない。


 命をつなぐ手順だった。


「医療契約官を」


 リディアが言うと、扉のそばで待機していた痩せた中年男性が弾かれたように前に出た。


「は、はい。王都薬房組合の臨時契約官、ベリルです」

「今夜中に必要な契約は」

「解毒薬、止血符、熱冷ましの三種です。王宮倉庫から薬房に出す承認印が止まっておりまして……」

「承認印の署名者は」

「薬務局長と、聖女院の副印です」


 聖女アリアが肩を震わせた。


「わ、私の印が必要なら、すぐに――」

「聖女様の印は、今は触れないでください」


 リディアの声は冷たくなかった。ただ、刃のようにまっすぐだった。


「薔薇印の権限外改変が原因で契約核が拒否反応を起こしています。善意でも、追加署名は毒になります」


「毒……」


 アリアは両手を握りしめた。


 その顔には、怒りよりも怯えがあった。自分の祈りが救いではなく手続き違反として扱われることを、まだ受け止めきれていないのだろう。


 だが、リディアはそこで止まらない。


「薬房契約は聖女院を迂回します。建国契約第十二補則、救命条項による一晩限りの仮接続。必要なのは薬務局長、臨時契約官、そして独立監査署名」

「独立監査署名とは誰が」


 宰相が問う。


 契約核が、まるで答えを待つように淡く瞬いた。


 リディアは羽根ペンを取った。


「私です。今だけは」


 誰かが息を呑んだ。


「辞表を出した者に、ここまで背負わせるのですか」


 それは小さな文官の声だった。名前も知らない若い女性が、悔しそうに唇を噛んでいる。


 リディアは一瞬だけ目を伏せた。


 本当は、そう言ってほしかったのかもしれない。


 便利な通訳ではなく、人間として。


「背負わされるのは、今夜までにします」


 彼女は微笑んだ。


「だから今夜は、正しく記録してください。私が何を読み、誰が何を止め、どの署名で何が動いたのか。もう二度と、誰か一人の善意や我慢に王国の契約を預けないために」


 若い文官は深くうなずき、震える手で記録板を構えた。


 リディアは薬房契約の古代語を一行ずつ読み替える。


 難しい言葉ではなく、誰が聞いても分かる言葉に。


「王宮倉庫は、東区薬房へ解毒薬二十瓶、止血符五十枚、熱冷まし百包を今夜限りで払い出す。代金精算は三日後。監査記録は王都薬房組合と宰相府が保管。聖女院の印は不要」


 床の赤い文字が、すうっと青へ戻った。


 医療契約官ベリルが、両手で顔を覆う。


「動きました……薬房印が、動きました!」


 玉座の間に、安堵の息が広がった。


 けれど、リディアはすぐに次の羊皮紙を引き寄せる。


「次。南門補給馬車」

「それは軍務省の所管だ!」


 軍務卿が進み出た。


「兵の糧食が優先されるべきだ。王都外の商人荷など後回しで――」

「その商人荷に、兵の馬を生かす飼葉が入っています」


 リディアは即座に返した。


「補給契約を読む限り、軍務省と商会の荷は別ではありません。兵糧、飼葉、井戸修理の部材、孤児院への粉袋が同じ馬車列に載っています。軍だけを先に通すと、契約核は『荷の分割による優先偽装』と判断します」


「そんな条項があるのか」

「あります。三年前、豪雨で北街道が落ちた時、私が徹夜で翻訳しました。殿下はその朝、聖女様の庭園茶会に出ておいででした」


 エドガルドが何かを言おうとして、何も言えなくなる。


 リディアは補給契約にも仮接続の文言を組む。


 今度は軍務省の若い副官が、彼女の横で荷目録を読み上げた。最初は上官の顔色をうかがっていたが、三行目から声が強くなった。


「孤児院分、粉袋十二。井戸修理用、青銅弁四。南門兵舎分、干し肉二樽。馬飼葉八束」

「一括で通します。兵も孤児も井戸も同じ道です」


 契約核が再び青く光った。


 遠くで鐘が鳴る。


 南門の封鎖解除を告げる鐘だった。


 玉座の間の空気が少しだけ変わった。


 リディアに命令するために集まっていた者たちが、いつの間にか彼女の次の指示を待っている。


 その変化に気づいたのか、第二王子は唇を歪めた。


「ならば西水門も早く戻せ。王都の噴水が止まっていては、明日の使節団に示しがつかない」


「西水門は、噴水ではなく下町の井戸圧を先に戻します」

「何だと」

「噴水は飾りです。井戸は生活です」


 短い言葉だった。


 けれど、水利技師の老人が、その場で膝をついた。


「よくぞ……よくぞ読んでくださいました。上の方々は、いつも噴水の水音しか聞かんので」


 リディアは老人に手を貸して立たせる。


「水門契約は専門外です。必要なところは教えてください」

「はい、監査官殿」


 監査官。


 その呼び名に、玉座の間がざわついた。


 リディア自身も、胸の奥で小さく息を呑む。


 王子の婚約者でも、便利な通訳でもない。


 契約を読み、手順を直し、人を助ける者。


 その名前は、思ったよりも重く、けれど不思議と足場になった。


 薬房、補給、水門。


 三つの応急復旧が終わる頃には、夜は深くなっていた。


 契約核の光はまだ弱い。王国すべてが戻ったわけではない。けれど、少なくとも今夜毒に苦しむ者へ薬が届き、南門の馬車は進み、下町の井戸には水圧が戻る。


 リディアは最後の記録に署名し、羽根ペンを置いた。


「これで、謝罪を聞く時間ができました」


 誰も笑わなかった。


 その代わり、宰相が深く頭を下げる。


「リディア・クラウス嬢。王国は、あなたの職能を軽んじた」


「軽んじたのは、私一人ではありません」


 リディアは机の上に積み上がった未処理契約の束を示した。


「未払い、未承認、権限外の仮印、期限切れのまま使われている古代契約。これだけあります。私への謝罪で済ませるなら、明日の朝にはまた止まります」


 その時だった。


 契約核の奥で、青ではない光が灯った。


 銀色。


 床の最深部に隠れていた文字が、ゆっくりと浮かび上がる。


 リディアは息を止めた。


「……真王配条項」


「何だ、それは」


 第二王子が問う。


 宰相の顔が、死人のように白くなった。


 リディアは続きを読んだ。


「『王家が建国契約の救命義務を三度怠った時、契約核は隣国公爵家ローゼンベルクの監査署名を求める』」


 玉座の間の奥で、誰かが椅子を倒した。


 未払い契約の束の一番上には、王都最大の商会印が押されている。


 リディアはその商会名を見て、静かに眉を寄せた。


「ヘルマン商会……。なぜ救命契約の未払いに、商会の優先印が混じっているのですか」


 契約核は答えない。


 ただ銀色の文字だけが、次の署名を待つように光っていた。

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